「抱擁」井上剛

(PDFバージョン:houyou_inouetuyosi
 秋の気配を馥郁と漂わせた風が緩やかに吹き渡る草原。周囲に人の姿はない。
 その風に身を委ねて、女は佇んでいた。何かを一心に祈っているようにも見える。
 男は、離れた場所から女の姿を眺めていた。
 女の祈りが何なのか、男には分かっていた。自分が彼女の許を訪れるのを待ってくれているのだ。それも全身全霊をかけて。
 愛する女の願いに応えるために、男はここまでやって来た。誰にも邪魔されないところで二人だけの神聖な契りを交わすために。
 男は静かな歩みで女に近づく。彼女はまだ男の接近に気づいていない。
 自分の命数は間もなく尽きるかも知れない。男は予感していた。今日が生涯で最後の抱擁になるかもしれない。
 もちろん、彼女はそんなことは知らない。敢えて告げる必要もない。自分の死は、彼女には何の責任もないことなのだから。最期の瞬間まで、迷いがなく奔放ないつも通りの彼女を見ていたい。男はそう思った。
 女の背後に回った。後ろからそっと近づき、無言のまま力強く抱き締める。男はそう決めていた。彼女は驚き、しかしすぐに喜んでその荒々しい抱擁を受け容れてくれるだろう。
 更に歩みを進める。男は、自分の目の前に迫った女のしなやかな背中を見上げる。
 愛している——
 溢れ出た感情が男の挙措から慎重さを奪った。ざくっ、と草を踏みしめる音が響き、女は振り返った。
 男の抱擁よりも素早く、女は男の首筋にむしゃぶりついてきた。男の全身に電撃が走る。
 そうさ、これでいいんだ。これで——
 薄れゆく意識の奥で、男はそう思考した。
 自分より小さくて動く物は全て餌だと認識して飛びついてしまう本能を持つオオカマキリのメスに胸部と頭部を齧られながら、腹部だけになったオスの体は、機械のような正確さでメスの尾端に生殖器を交接させていた。



井上剛プロフィール


井上剛既刊
『死なないで』