「レッドライン」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:redline_ootatadasi

 風は西から吹いてきた。
 香りもなく色もない、冷たく乾いた風だった。それは見知らぬ土地を通りすぎて、草と葉を揺らした。
「おい、真馬(しんま)」
 声をかけられ、真馬は振り向いた。英何(えいなん)だった。
「何を考えていた」
「何も」
「怖じ気づいたんじゃないだろうな」
「まさか。おまえこそ後悔してないか」
「するもんか。早く行きたくてしかたないくらいだ。出発はまだか」
「焦るな。指示を待とう」
 一行は森の外れにある繁みの中に身を隠していた。斥候の帰りを待っているところだ。まだ夜明け前で、あたりは暗い。
 真馬は五メートルほど離れた場所にいる燐香(りんか)に眼を向けた。彼女は木陰に立ち、静かに前方を見つめている。
 二十歳くらい、それとももっと上か。少なくとも十五になったばかりの自分よりは年上だろう。背が高く、華奢な感じはしなかった。
 暗くて、その顔を見ることができない。もっと近付こうかと彼は立ち上がりかけた。
 そのとき、丘の向こうから人影が見えた。随分と急いでいる様子で、こちらに向かってくる。真馬は身構えた。斥候に出た男か。それとも警備士か。
 人影はまっすぐに繁みにやってくると、呼びかけた。
「野沢隊長、大丈夫だ。この先には誰もいない」
「よし」
 燐香は振り向いた。
「これから出る。夜明け前にレッドラインを越えるぞ」
 レッドライン。その言葉に真馬は緊張した。幼い頃から何度となく、その言葉を聞き、口にもした。だが実際、それを眼にしたことはなかった。レッドラインは、禁忌だからだ。
「荷物を担いで隊列を組め。わたしと秀精(しゅうせい)が先頭に立って進む。遅れるな」
 組織だった訓練などされていない、ネット上のやりとりは前からあったにせよ、実際は今日初めて顔を合わせたばかりの連中の集まりだった。それを燐香は二時間ほどのオリエンテーションの間に、とりあえずでも組織として動くことができる程度にまでまとめ上げていた。
 総勢十二名の一隊は繁みを抜け出し、丘に向かって小走りに進みはじめた。
 真馬は列の真ん中にいた。
「いよいよだな」
 英何がまた声をかけてきた。この中で唯一、前から顔を知っている間柄だから、気安いのだろう。豪胆ぶっているが性根は繊細で小心者であることを真馬は知っていた。
「俺たち、開拓者になるんだよな」
 英何の語尾が震えている。緊張か恐怖か興奮か。たぶんその全部だ。
 真馬はそれに答えず、列を抜けて先頭に近付いた。
「野沢隊長」
 思い切って声をかける。
「レッドラインまで、どれくらいあるんですか」
「三十分だ」
 答えたのは斥候に出ていた秀精だった。
「心配するな。楽に越えられる」
 真馬は燐香の言葉を待ったが、彼女は何も言わなかった。彼は列に戻った。
 丘の頂に辿り着いた頃には、東の空が明るくなりはじめていた。
「急げ。ここは目立ちすぎる」
 燐香の声に、一行の足が早まる。膝ほどの高さまで伸びた草を踏みつけながらの下り坂になった。うっかりすると足を取られそうになる。
 東の稜線から光が差してきた。夜明けだ。草原が淡く輝きはじめた。
「止まれ!」
 不意に燐香が号令した。隊は草原の中央で立ち止まる。
 燐香があたりを窺うような素振りを見せた。真馬にもそれが聞こえた。
 耳鳴りのような羽音のような唸り。思わず空を見上げた。
「あ」
 明るんできた空に黒い小さな影が浮かんでいる。鳥ではない。
 ――ここは立入禁止区域です。すみやかに退去してください。
 空から声が降ってきた。警備士隊が使っている無人機だ。
 燐香の判断は早かった。
「あの森に走れ!」
 言うが早いか彼女自身が走り出した。草原が尽きたところに鬱蒼と木が繁る森があった。そこに入って無人機を撒くつもりだと真馬にもわかった。
 ――すみやかに退去してください。
 警告を発しながら無人機は追跡してきた。真馬は無我夢中で走った。
 隊は森に入った。木に遮られ、無人機は追ってこなかった。それでもしばらく走りつづける。
「おい、もういいんじゃないか」
 秀精が燐香に声をかける。だが彼女は足を止めなかった。
「奴らにわたしたちのことが知られてしまった。急がないと」
 森の土はぬかるんでいて、草原より走りにくかった。荷物も肩に食い込み、息が切れる。それでも真馬は燐香の後を追って走りつづけた。
「……来た!」
 彼女の声に背後を見た。銀色の細い脚を備えた人間の倍ほどの大きさの機械が、こちらに向かってくる。
“蜘蛛”だ。どこからか悲鳴があがった。
 ――止まりなさい。あなたたちは法を犯している。
“蜘蛛”が言った。
 ――止まらなければ、領土保安法に基づき強制的に身柄を拘束する。
「木と木の間をくぐれ!」
 燐香が指示した。
「“蜘蛛”が入れない場所を選ぶんだ」
 言われたとおり、真馬は木と木の間の狭い空間をくぐり抜けた。しかし振り向いてみると“蜘蛛”は長い脚を器用に使いながら自分の移動できる空間を選んで、こちらに迫ってきた。確認できただけで四体はいる。
「止まるな!」
 誰かが声を枯らした。真馬はまた駆けだそうとする。が、それより早く蜘蛛の頭部から白い液体のようなものが発射された。
 液体は空中で投網のように広がり襲いかかってくる。真馬は悲鳴をあげ、眼を閉じた。
 捕まった、と思った。
 が、眼を開けると網が捕らえていたのが自分でないことがわかった。
「た、助けて!」
 白い網にすっぽり包まれている誰かが助けを求めている。
「真馬! 真馬助けてくれ!」
 英何だった。網目から指を突き出し、腕を伸ばそうとしている。
 真馬も咄嗟に手を伸ばそうとした。が、それより早く英何の体は宙に飛んだ。“蜘蛛”が網を引き上げたのだ。悲鳴と共に英何は網ごと“蜘蛛”の体内に収容された。
 真馬は動けなかった。“蜘蛛”のモニタが自分を捉えていることはわかっていた。次に襲われるのは自分だとわかっていた。だが動けなかった。“蜘蛛”が網を吐いた。もう駄目だ、と思った。
 が、網が広がる寸前に脇から飛んできた木の枝が直撃した。網は枝に絡まり、地面に落ちた。
「起きろ!」
 声が飛んだ。同時に体を抱えあげられた。
 燐香だった。
「走れ! この腰抜け! 走れ!」
 叱咤の声に意識がクリアになった。自分で立ち上がり、走りはじめる。
「森を抜けろ! レッドラインを越えろ!」
 振り向かなかった。無我夢中で走った。あちこちで悲鳴が聞こえる。立ち止まりたくなる気持ちを押し殺して走った。
 気が付くと木がなくなっていた。足下は草もほとんど生えていない、ごつごつとした岩場だ。それでも真馬は足を止めなかった。小岩を踏み越え、大岩をよじ登り、懸命に逃げた。肺は燃え、心臓は破裂しそうなくらいの鼓動を繰り返している。それでも走った。
 目の前を水の流れが遮った。川だ。真馬はためらわずに踏み込んだ。冷たい水に腰まで漬かりながら進む。流れに足を取られそうになったが、ぎりぎりで堪えた。流されたら終わりだと思った。
 進んでも進んでも向こう岸に着かない。もしかしてここは川などではなく海だったのか。そんな不安が過る。が、気が付くと水は浅くなっていた。そしてついに岸に辿り着いた。
 膝が折れ、その場に這いつくばった。
「いやだ……捕まりたくない……!」
 四つん這いで前に進もうとする。
「逃げなきゃ……」
 その背中を、何かが叩いた。思わず悲鳴をあげる。
「大丈夫だ」
 声に顔を上げると、秀精が笑っていた。その傍らに燐香もいる。
「見ろ」
 秀精に言われ、振り向いた。向こうの川岸に四体の“蜘蛛”が並んでいる。
「ひっ……」
「心配するな。もう追ってこない」
「でも、どうして?」
「奴らはレッドラインを越えることはできない」
 答えたのは、燐香だった。
「そうプログラムされている」
 しゃがみ込んだまま、真馬は川の流れを見つめた。
「この川が……レッドライン」
「わたしたちは、ラインを越えた。犯罪者だ」
 燐香は言った。
「そして、これから開拓者になる。今まで先祖が足を踏み入れなかった土地に赴き、人間の版図を広げる」
 疲労困憊した真馬の耳に、彼女の言葉は強く響いた。
「行くぞ」
「……はい」
 真馬は立ち上がった。



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太田忠司既刊
『密原トリカと七億の小人とチョコミント』