「ザイオン・スタンズ・オン・マーズ(Part1)」伊野隆之

(紹介文PDFバージョン:zionmarsshoukai_okawadaakira
 伊野隆之の最新作「ザイオンズ・スタンズ・オン・マーズ」をお届けする。
 伊野隆之はこれまで、タコ型義体に入ることを余儀なくされたザイオン・バフェットを焦点人物とした「ザイオン・イン・アン・オクトモーフ」、「ザイオン・イズ・ライジング」、「ザイオンズ・チケット・トゥー・マーズ」の金星編・三部作を発表し、ファンに好評を博してきた。

 今回、新たに、「ザイオン・スタンズ・オン・マーズ」「ザイオン・トラップト」「ザイオン・イン・ザ・シャドウ」の火星三部作が書き下ろされた。それぞれ2回ずつに分割し、3部を半年にわたって「SF Prologue Wave」上で連載をしていく。
 この新シリーズの特徴は、なんといっても圧倒的な安定感だ。それは、このたび公開された「ザイオン・スタンド・オン・マーズ」をお読みいただければ、一目瞭然だろう。戦闘描写は実にしっかりしているし、火星ならではの特徴的な風土や建造物などを、自然に小説のなかへ溶かし込むことに成功している。コンゲームの要素が強かった金星編と、火星編は、話の大枠自体も対比的な作りになっているように思う。そうした方が、『エクリプス・フェイズ』世界における火星の位置を読者に伝えやすいとふんだのではないか。

 やはり、伊野隆之は世界観の作家なのだ。そしてシェアード・ワールドで最も大事なのが、この「世界観を押さえる」という作業なのである。通常、「SF Prologue Wave」の『エクリプス・フェイズ』小説は日本語版翻訳チームの監修作業を経て公開しているが、本作はそのままの形で、特に具体的な要修正箇所がなかったほどの完成度だった。
 新シリーズでは、旧シリーズのストーリーも、随所で振り返られている。まさしく親切設計だが、ここは、「ザイオン・イン・アン・オクトモーフ」からの“イッキ読み”をオススメしたい。必ずや、伊野隆之という作家の凄みがわかるはずだ。

 現在、『エクリプス・フェイズ』のサプリメント『サンワード』の日本語版作業の大詰めなのだが、金星や火星はその主要な舞台となっている。『サンワード』の予習としても楽しんでいただけば幸いだ。『エクリプス・フェイズ』の基本ルールブックにも、金星や火星については概説されている。これらも、恰好のサイドリーダーになるだろう。(岡和田晃)



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 急激な加速に船殻が震えた。程なく、漆黒の闇の中に金属がきしむ鋭い音が響く。
「大丈夫なのか?」
 声を抑えてザイオンが尋ねた。
「こんなボロ船だ。監視は、たぶん、ない」
 その言葉と同時に、金属がちぎれる音が船倉に響き、周囲の闇がざわつく。囚われているのは二人だけではない。
「たぶん、か」
 自嘲気味にザイオンが言う。
「百パーセントの保証などない。成功の可能性の極大点で行動する。それがポリシーだろ?」
 また、金属を引きちぎる音。闇の中でスパークが走り、わずかな明かりがあたりを照らす。ヒトの視覚にとっては物足りない光量も、分厚い金星の大気の底にも対応できるザイオンとカザロフの義体にとっては、十分だった。船倉に囚われているのはざっと二十人。ヒト型の生体義体の中で、オクトモーフのザイオンと、金属の義体であるケースのカザロフだけが異質だった。
「確かに、行動するなら今だろうな」
 鉄と錆と機械油、黴の匂いと得体の知れない腐敗臭が満ちた真っ暗な船倉にいるのは、つい数時間前まで、金星と火星を結ぶ客船のデッキでパーティを楽しんでいた乗客たちだ。全員が船倉の壁面に、電磁枷によって拘束されている。金星から火星へと向かう定期客船を襲った武装集団によって囚われているのだった。
「やめろ、そんなことをしたら何をされるか……」
 囚われた乗客のひとりが声を上げた。
「あいにく、身代金を払ってもらえるあてがなくてね。俺たちは自力で逃げ出すのさ」
 そう応じたカザロフの言葉に重なって、また、大きな金属音が響き、スパークが走った。両腕が自由になったカザロフが、汎用の義体であるケースではあり得ないパワーで、首を固定する電磁枷を引きちぎったのだ。
「そっちが終わったら、こっちも頼む」
 カザロフのすぐ隣に固定されているザイオンが声をかけた。
「まだ腰と両足が残ってる。おまえなら自分で何とかできるだろ」
 金属のきしむ音に重なって、カザロフの義体に組み込まれたサーボモーターのうなりが聞こえる。確かに強化された義体であっても、金属を引きちぎるとなれば、負荷が大きい。船の加速がどれくらいの時間続くのかわからず、行動するなら急ぐに越したことはないのだ。
「あまりやりたくはないが、仕方ないか」
 ザイオンはオクトモーフだ。金属のボディのカザロフとは異なり、ザイオンの義体はタコをベースにした生体義体だった。柔軟性に富んだタコの義体から自由を奪うのは難しく、電磁枷で締め付けられていても、すり抜けることは難しくない。


「さっさと抜け出したらどうだ」
 ザイオンたちが乗った客船を襲った武装集団は、オクトモーフの扱いに慣れていなかった。扱いを知っていれば、檻に入れるか、それこそ無数のボルトで金属の支柱にでも打ち付けただろう。もっともザイオン自身は、磔にされた触腕を引きちぎって囚われの身から逃れた経験があるから、そんな状況になったとしても何とかできる。オクトモーフはそういう義体なのだ。
「結構な負担になるんだがな」
 不満そうにザイオンが言った。
 オクトモーフはタコである。タコだけにヌルヌルする。カザロフが言うのは、そのヌルヌルを使えということだった。つまり、オクトモーフの身体から粘液を分泌し、潤滑剤にして枷から抜け出すのだ。ただ、電磁枷から逃れることはできても、大量の粘液を使った結果、脱水症状を来す可能性がある。体力の維持を考えると、あまり望ましい方法ではない。
「こっちだって、ありったけの出力でエネルギーを使ってる。腕はともかく、指の何本かは取り替える必要があるくらいだ」
 金属がきしむ音が、さらに大きくなる。
「高価な部品でもないだろう。それに、エネルギーだって、すぐに底をつくわけでもなかろうに」
 ザイオンはアップグレードされたカザロフの義体のスペックを知らない。ただ、出力を強化している以上、使えるエネルギー容量についても大きくするのは当然のことだ。
「四の五の言ってないで、自分のことは自分で何とかしろ」
 カザロフは、腰を固定する電磁枷に苦戦していた。幅の広い金属のベルトは、丈夫な上に、うまく指がかからないようだった。
「そんなにあせるな」
 粘液を出すのも簡単ではなかった。元々がタコの防御反応である。囚らえられているとは言え、今、危険にされているわけではない。必要なのは、粘液の分泌を促すような精神状態だ。
 ザイオンは、金星で自分自身を偽装するために創った疑似人格のタージを起動し、タージが一番恐れていたものの記憶を呼び覚ます。
『……ゴルァ、このタコッ!』
 そんな罵声と同時に思い出すのは、黒い翼を広げたエイヴィアンモーフの禍々しい姿だ。
 ソラリスのエージェント、マデラ・ルメルシェの部下のインドラルは、タージにとっては毎月決まってやってくる災厄だった。タージが身を粉にして働いて積み上げた利益を、利息と称してごっそりと奪っていく。インドラルは、タージにとっては恐怖でしかない。黄色い目で見つめられれば血の気が引く。ヒト型の生体義体だったら、大量の冷や汗を流していただろう。


 タコの身体にとっては冷や汗も粘液も同じこと。記憶の中のインドラルが嘴を開き、真っ赤な舌が見えると、オクトモーフの心臓が縮みあがり、皮膚から大量の粘液が滴る。
 十分な粘液が分泌されたところでザイオンは、臆病者でビビリのタージをシャットダウンする。粘液で濡れたザイオンの身体は、船の加速度によってずるりと枷から抜け落ちた。
「やればできるじゃないか」
 現在の加速度はほぼ2Gで、骨格を持たないオクトモーフでは自立は難しい。ザイオンの義体は、分泌した粘液の中で、へたり込んでいる。
「かなり無理したぞ。すぐには動けない」
 オクトモーフにとって体内の水分量は重要だった。水分が不足すると筋肉のパワーが出ない。
「心配するな、って」
 腰のあたりで胴体を固定していた電磁枷を引きちぎったカザロフが、無造作に両足首の電磁枷を引きちぎると、床にへたり込んだザイオンを抱え上げた。ザイオンの触腕が、カザロフの義体にからみ付き、強力な吸盤で貼り付く。
「で、これからどうする?」
 ザイオンが言った。電磁枷は逃れても、まだ船倉に囚われたままだ。自由の身にはほど遠い。
「考えるのはそっちのパートだろ」
 冗談めかしてカザロフが応える。マデラを罠にかけ、金星からの脱出を可能にした計画を立てたのはザイオンだったし、火星に行くことを決めたのもザイオンだった。
「そうだな。まずはここを出て、それから水に浸かりたい。タージの奴がちょっと絞りすぎた」
 ザイオンは、船倉の構造を思い出す。この船に連行された時に通ったハッチとは反対側に、ザイオンたちを拘束した武装集団が出て行ったドアがあった。船倉を出るにはそのドアから出て行くよりない。
「こんな船にバスタブがあるとは思えんがな」
 カザロフが言い放つ。確かに、全身を水に浸かるにはバスタブを使うのが手っ取り早いのだが、ザイオン自身もそこまでは期待していない。
「シャワーでいい。居住区のどこかにあるだろう」
 この船がどこに向かうにせよ、人質をずっと船倉に押し込めておくことはできない。加速を終え、慣性航行に入った時点で、まともな居住区に移すはずだ。そこなら、循環式のシャワーブースくらい備えているに違いない。
「ドアは一カ所だ。多分、船体を貫くメインシャフトに繋がってる」
 カザロフは、2Gの加速で金星での重さの倍以上になったザイオンを持ち上げ、ドアまで運んだ。
「解錠できそうか?」
 ドアの前にザイオンを降ろしたカザロフが聞いた。ザイオンはドアのキーパッドに触手を伸ばす。
「簡単なキーパッド。しかも、すり減っているキーが四つ。ありがちだな」
 明かりがあっても、ヒトの視覚ではわからないだろう。繊細なタコの触覚が、テンキーのわずかな磨耗を検知する。
「待ってくれ、私も連れていってくれ」
 突然、真っ暗な船倉に声が響いた。ザイオンはその声に聞き覚えがあった。船が襲われる直前、ザイオンたちに話しかけてきた男だ。
「どうする?」
 船倉にざわめきが広がる中、低い声でカザロフが言った。
「そこにライトのスイッチがある。明かりをつけてやったらどうだ。少しは安心できるだろう」
 ザイオンがそう言ったのは、囚われた乗客を安心させるためではなく、改めて男の顔を確認するためだった。
「連れて行くつもりじゃないだろうな」
 カザロフの懸念はもっともだった。不確定要因は少ないに越したことがない。
「足手まといはいらない」
 ザイオンは火星に行かなければならない。地球がティターンズによって蹂躙された今、太陽系の経済的な中心は火星になっている。その火星に行かなければ、ザイオンは自分自身を取り戻すことができない。
 この船がどこに向かっているにせよ、火星に向かっているのではないことは確実で、このままでは余計な寄り道をするどころか、身代金を払ってもらうあてのないザイオンたちは、外惑星に売り飛ばされてしまう可能性もあった。
「そう言うと思った」
 カザロフは船倉の明かりをつけ、それから囚われた乗客に向けて言った。
「おとなしくしていろ。奴らはあんたたちには手を出さない」
 ザイオンは声を上げた男を改めて見ていた。一等客船の旅客にはふさわしくない、初老の外見。レイモンド・ノアと名乗った男だ。
「何でそんなことがわかるんだ?」
 レイモンドが食い下がる。
「奴らの目当ては身代金だ。大人しくしていれば、そのうち解放される。しばらく不自由はするが、危険を冒す理由はない。そうだろ?」
 レイモンドに向けてカザロフが言った。

 ザイオンたちが金星を離れたのは既に三週間も前のことになる。現在の火星と金星は合の位置にはなく、二つの惑星の間を結ぶ経済的な軌道は、大きく弧を描いて引き延ばされていた。
 長大な船の軌道が地球軌道を横切った頃、ザイオンとカザロフが乗り込んだ一等客室の乗客は、ちょっとしたパーティを開いていた。主催は客船の船長であるロンギヌス・ユヌ。高性能の核融合ドライブを備えた客船とは言え、金星と火星の間の距離を縮めることはできず、折に触れて乗客の退屈を紛らわせる必要があった。
「みなさん、本船は無事に地球の軌道を通過しました。全行程のおよそ三分の一を経過し、全てが順調に推移しています。今までの船旅同様に、これからも快適に過ごしていただけるよう、最善の努力を続けております……」
 パーティ会場となったメインデッキに投影された船長のホログラムが、なみなみとシャンパンを満たしたグラスを手に挨拶を始めていた。着飾った姿は、もちろん実物と同じである必要はない。船自体にインストールされたインフォモーフだろうというのが常識的な見立てだ。
「……あえて私から言うことでもありませんが、一等客室のみなさまは、金星、あるいは火星における最富裕層のみなさまです。同じ船に乗り合わせたこの機会を、みなさまのネットワーク作りに活用していただけたら幸いです……」
 もし、ザイオンがヒト型の生体義体を使っていたら、船長の挨拶を鼻で笑っていただろう。確かに、停止状態で義体を運ぶ二等船客や、エゴを記録した媒体だけを運ぶ三等船客に比べたら、一等船客は桁が違う料金を支払っている。だからと言って、移動時間を無為に過ごす一等船客が、本物の最富裕層であるはずがない。ただ、船長の言葉は、乗客をおだて、気分を良くする効果がある。不機嫌な乗客より機嫌のいい乗客の方が扱い易いし、おだてられた乗客はあまり不満を言わないものだ。
「少し、よろしいですかな?」
 ザイオンの外見に興味を持ったのか、初老の男が声をかけてきた。自由に外見を選べるのにも関わらず、老人の姿を撰んだのはなぜだろうとザイオンは思う。
「レイモンド・ノアと申します。実は、火星に着いたら義体を変えてみようかと思っていましてね。どうしてその義体を撰ばれたのか、使い勝手などもお聞きできたらと」
 レイモンドと名乗った男の言葉にザイオンは戸惑う。オクトモーフを撰んだのはマデラだったし、その理由は際限のない苦痛を与えることができるからだった。
「はっきり言ってやったらどうだ、あんたのその身体は、義体なんかじゃないって」
 横から口を挟んだカザロフの言葉に、レイモンドは、はっとした様子を見せた。
「それは失礼を……」
「いいえ、お気になさらず。確かに私はアップリフトです。たまたま鉱業権を手に入れた場所が大当たりで、ずいぶんとビジネスを大きくできました。金星を出るに際して、この身体を変えることも考えましたが、なにぶん慣れていますし、丈夫で器用です。それに、アップリフトの社会的地位は、火星では低くないと聞きました」
 ザイオンはカザロフの話に調子を合わせる。実際に、金星から火星に向かうチケットは、成功した鉱山主のアフマドの名前で購入されているし、それに金星のアップリフトの出自など、金星を出てしまえば調べようがない。実際、タコのアップリフトとオクトモーフの違いにしたって、エゴが外部に由来するか否かという程度の違いでしかない。
「そうでしたか。火星は文化的、社会的にも多様ですから、場所を撰べば偏見は少ないと思いますが……」
 そう言って、レイモンドは言葉を濁した。
「アップリフトが置かれた状況はわかってます。ただ、アップリフトにはアップリフトなりの誇りがあります。外見を取り繕うことで得られるものは、多くはありません。それで、火星ではどのようなことをされるおつもりですかな?」
 ザイオンは、近くに来たサービスボットのトレーからシャンパングラスを二つ取り上げ、その一方をレイモンドに渡しながら尋ねた。
「火星に留まる予定ではないのです。火星で義体を変えたら小惑星帯や、その先に向かうつもりです。太陽系外縁の環境なら、バウンサーのような無重力に適した義体が望ましいと思いまして」
 バウンサーはヒト型の生体義体で、柔軟な両脚を腕と同様に使える。無重力環境下では無駄な重量でしかない両脚を手として使えるように改変することで適応度を高めた義体だった。
「オクトモーフも汎用性が高いと思いますよ。今の私のように重力下でも歩行可能ですから。まあ、アップリフトと誤解されるデメリットはあるでしょうが」
 ザイオンの言葉に、レイモンドは戸惑った表情を見せた。
「こいつは今、冗談で言ったんだよ。気にすることはない」
 カザロフの言葉にザイオンは大きく頷き、それから言葉を補った。
「ヒト型の生体義体は、表情や仕草をコミュニケーション手段として使えます。一方で、オクトモーフでは表情を理解されない。それがデメリットになることもあります」
 さらにカザロフが言葉を続ける。 
「逆に言えばヒト型の生体義体は感情を読まれやすい。あんたをからかうつもりはないが、義体は道具だ。どう使うかを考えて決める方がいい」
 確かに、ザイオンたちの言葉に翻弄されるように、レイモンドは表情を変えていた。
「こちらの方は?」
 レイモンドの言葉には、会話に割り込んできたカザロフをいぶかしむようなニュアンスがあった。ケースは最下層の貧民が使う義体と相場が決まっている。そのケースが、なぜ、一等船客を集めたパーティにいるのか。
「さすがに私のような者が身体一つで火星に行くのは心配ですので、カザロフ氏には助言者として同行してもらっています。火星でアップリフトの権利がどこまで尊重されるかわかりませんので、ちょっとした自衛措置ですね」
 ザイオンの言葉にカザロフが頷く。もちろん、金属の顔に、表情が浮かぶはずもない。
「あなた方は、なぜ火星に?」
 気を取り直したように、レイモンドが聞いた。
「まあ、金星ではいろいろありましてね。ビジネスで成功したとはいえ、あまり居心地が良かったわけではないので」
 ザイオンの説明に、得心したようにレイモンドが頷いた。
「いろいろと事情が……」
 その時だった。突然、船が揺れ、照明が緊急事態を告げる赤の点滅に変わった。船長のホログラフが消え、アナウンスが流れる。
「……本船は、何者かによって強制接舷されました。侵入者に警戒してください。乗客の皆様は、指示に従い、落ち着いて行動してください。繰り返します。本船は、何者かによって……」
 デッキの壁から突然、火花が吹き出した。何者かが、外部から船殻を溶断しようとしている。
「ドアが開かないぞ!」
 デッキから離れようと、ドアに向かった乗客が叫んだ。その声に重なるように、船のアナウンスが流れる。
「……本船の一部区画で気密が失われています。安全のため、乗客のみなさんはデッキに留まってください。デッキは与圧されています。現在、漏洩箇所の特定と気密の回復を図っています。安全が確認されるまで、デッキは封鎖されます。乗客のみなさんはデッキに留まってください……」
 壁面に大きな穴が切り開かれつつあった。だが、そこからは空気は漏れていない。
「そういうことか」
 カザロフが呟いた。
 壁の外は宇宙空間だった。普通なら、船殻が切り開かれれば、一気に空気が失われる。それがないと言うことは、壁の外も与圧されている。つまり、ザイオンたちがいるデッキのすぐ外に、気密性を維持できる形で不審船が接舷しているのだ。
「無茶はしない方がいい。もし気密が破れても、私は三十分くらいなら持つが、他の乗客は、そうでもないだろう」
 ザイオンは侵入者を予想して身構えたカザロフを制した。カザロフの強化された義体なら特に武器がなくても侵入者に抵抗できるだろうし、逆に制圧に成功するかも知れない。一方で、抵抗すれば不測の事態を招く可能性がある。ザイオンたちを除けば、乗客は全てヒト型の生体義体であり、真空にさらされれば、すぐに生命の危機に直面する。
「じゃあ、どうするんだ?」
 不満そうにカザロフが言った。
「まだ、どういう連中かもわかってない」
 引き裂かれた船殻の外から、武装したグループが入って来た。全部で四人。一人は赤い髪をした戦闘用義体(フユーリー)で、残りの三人はバウンサーだった。バウンサーは遠心力が作り出す疑似的な重力環境には向かない義体だったが、歩くために両脚を支える外骨格を身につけていた。


 バウンサーの三人が、赤毛を囲むように展開していた。三人が手にしている武器は、船殻を傷つけないような低速のジェル弾銃のように見える。
「全員、両手を挙げて。余計なことは考えない方がいいわよ。私たちは全員を安全に確保したいの。私はドゥールス解放軍の司令官、ヨハンナ・スムズ。指示に従って行動すれば、誰も傷つかないわ」
 赤髪のフューリーが大きな声で宣言するのと同時に、ジェル弾銃の発射音が響いた。シャンパングラスを乗せたトレーを運んでいたサービスボットが倒れ、ボディに広がったジェルが発泡して白い泡の塊になる。
「気をつけてね。私の部下たちは撃つことを躊躇わない。見たとおり大きな怪我をすることにはならないけど、かなり不快な経験になるわよ」
 サービスボットは立ち上がれなかった。白い泡がサービスボットを覆ったまま硬化し、自由を奪っている。
 ザイオンは事態を遠巻きに見ながら、船のローカルメッシュにアクセスして、ドゥールス解放軍に関する情報を調べていた。
「オクトモーフとケースがいるぞ」
 バウンサーの一人がヨハンナに囁く。そのバウンサーのジェル弾銃は、真っ直ぐにザイオンの方を向いていた。
「一列になって、私たちの船に乗って。タコとケースはそこから動かないように。おまえたちを乗せるかどうかを決めるのは最後にしましょう」
 ヨハンナの手には二丁の銃があった。一方のはレールガンタイプのオートマチックライフルで、弾体によっては船そのものにもダメージを与えられるだろう。もう一方は小型の拳銃で、その銃でデッキの天井を無造作に撃つと、船のローカルメッシュが消えた。
「俺は耐真空仕様だが、俺のクライアントはそうじゃない。ここを真空にさらすつもりなら、それも考えてくれ」
 両手を挙げたままのカザロフが言った。そのとたんに、ヨハンナのオートマチックライフルがカザロフに向けられる。
「すてきなアドバイスね。他に伺っておくべきことはあるかしら?」
 そう言い終える前に、ザイオンが床にへなへなと崩れ落ちる。
「見ての通り、こいつは重力環境があまり得意じゃないんだ」
 カザロフが言った。
「ヘタレたタコね。じゃあ、それはあなたが運びなさい」
「手は降ろしてもいいかな」
「好きにしなさい。これはジェル弾銃なんかじゃないから、変なことは考えないでね」
 カザロフはゆっくりと両手を降ろし、床にへたり込んだザイオンを抱き起こした。
 デッキにいた他の乗客は、バウンサーたちの指示で壁の穴から外に出ていた。ヨハンナに追い立てられ、ぐったりしたザイオンを抱えたカザロフは、首をすくめるようにして壁の穴を抜ける。
 船殻の穴の先は蛇腹構造のドッキングゲートだった。さらに奥には大きなハッチが口を開けている。その先は薄暗い船倉で、乗客の大半が既に船倉に入っていた。
 カザロフは、ザイオンを支えて船倉に向かう。背中にはヨハンナのオートマチックライフルが突きつけられていた。
「さっさと歩いて」
 ヨハンナがカザロフの背中を小突いた。
「こいつはかなり重いんだがな」
 全員が船倉に入った時点で、背後のハッチが閉じる。
「ようこそ、私たちの船へ。自由ドゥールス号は、全ての乗客を歓迎するわ」
 ヨハンナがそう宣言した直後に、ハッチの外から盛大な金属音が響くと、突然重力が小さくなった。
「……離脱完了しました。本船は、同期軌道から遷移します。乗員は、再加速に備えてください……」
 アナウンスが流れた。
「さ、急いで」
 わずかな重力の中、ヨハンナの指示でバウンサーたちは手際よく乗客に電磁枷をはめ、次々と船倉の壁に固定していく。
「でも、なぜアップリフトとケースが一等客室にいるの?」
 ヨハンナがカザロフに尋ねた。
「金星では、タコだって成り上がれるのさ。見ての通り、へたれた奴だが、経営者としては優秀らしくてね」
 カザロフの胸にはオートマチックライフルが突きつけられ、背中が壁に押しつけられていた。そのまま、バウンサーが二人がかりでカザロフに電磁枷を付ける。
「じゃあ、身代金もたんまりいただけそうね」
 最初が両手首で、それから両脚首、腰と最後には首もベルト状の電磁枷で固定された。
「ご丁寧なことだな」
「必要な予防措置よ。あなたはお金持ちで物わかりの良い老人という感じじゃないし、真空でも問題なく動けそうだから」
 カザロフの拘束を終えた二人のバウンサーが、脱力したザイオンを立たせ、ぐったりした頭部と八本の脚の間に電磁枷をはめる。
「気をつけて扱えよ。見た目じゃわからないだろうが、相当な年寄りだ」
 カザロフの言葉に、ザイオンは苦笑いする。確かに、ザイオン自身が生まれたのはずいぶん前だが、タコの義体はさほど古くない。
「じゃあ、これからの加速は、少々きついかもね」
 ヨハンナの言葉を聞きながら、ザイオンは、現在の太陽系の惑星配置を考えていた。この船が向かうのはどこなのか。ヨハンナの部下がバウンサーである以上、火星に降りることはないだろう。
「大人しくしていれば危害は加えない。しばらく拘束させてもらうけど、これは軌道変更のための加速に備えた一時的な措置よ」
 船倉を見渡してヨハンナが言った。
「いつまでだ?」
 カザロフの言葉にヨハンナは応えない。そのかわりに、オートマチックライフルの銃口をカザロフの顎のあたりに押しつける。
「もう一回だけ言うわ、『大人しくしていれば危害は加えない』。どういう意味かわかったかしら?」
 カザロフは反応しない。
「全員の拘束を確認しました」
 ヨハンナの背後から声が聞こえた。ヨハンナはカザロフに突きつけていたオートマチックライフルを降ろして、ゆっくりと船倉を見渡した。
「じゃあ、ここは閉鎖しましょう。いい、おかしなことをしたら、安全は保証しないわよ」
 カザロフを睨みつけながら言った。
 ヨハンナとバウンサーたちが船倉を出ると、同時に照明が消え、船倉は闇に飲み込まれる。
「大人しくしていないと、危害を加える、か」
 ヨハンナたちが出て行った船倉で、カザロフがぼそりと呟いた。
「正しくは、『危害を加えることがある』だな」
 ザイオンはそう応じたが、もちろん大人しくしているつもりはない。ザイオン自身に資産があっても、誰かが身代金を払ってくれるはずもなく、ザイオン自身が状況を打開しなければならない。それはカザロフも同じだった。



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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』