「ザイオン・トラップト(Part1)」伊野隆之

(PDFバージョン:ziontrapped01_inotakayuki
 すぐにでも手が届くはずだった富と地位と権力が両手からこぼれ落ちていっただけでなく、確かだったはずの足下が揺らぎ、崩れていく。マデラ・ルメルシャはそんな恐怖を感じていた。
 金星の大気の底から大気圏上層のハビタットにある執務室に向かう途中の経過を、マデラは、一切、覚えていない。その意味では、よくたどり着いたと言うところだ。


 デスクの向こうにあるソラリスのエンブレムが空々しく、贅沢な調度品や、壁面に投影された心を落ち着かせるはずの地球の光景も目に入らない。
 深い緑の森、雪に覆われた山脈。珊瑚礁では色とりどりの魚が舞っているが、マデラの意識がそこに及ぶことはない。
 なぜ失敗したのか、どうすれば失敗を避けられたのか……。
「……深刻な抑鬱症状があります。高揚剤のインストールを強く推奨します」
 セクレタリーの声がマデラの意識の奥底にある怒りのスイッチに触れる。
「この屑がっ!」
 サイドボードに飾られていた鉱石のサンプルを手に取るマデラ。
「……怒りの感情の暴走が検知されます。早急に鎮静剤のインストールを……」
 鉱石をプロジェクターに叩きつけると投影されたセクレタリーの映像が乱れ、停止する。手のひらには強い痛み。鉱石の角か、それともプロジェクターの破片で切ったのか、赤い血が流れている。
 ……海辺の穏やかな風があなたの心をリラックスさせてくれるでしょう。オーシャンブリーズは、ビジネスシーンの最前線で……。
 聞こえて来るはずのないPRフレーズに、マデラは頭をかきむしる。最近の状況のせいで、向神経ソフトウエアへの依存が強化されているのだ。
「随分と荒れているようね」
 目を上げたその先はマデラのデスク。本来なら誰もいるはずのないところに、ソラリスのエンブレムを背に座っている。
「……ミューラー監督官!」
 マデラの顔から一気に血の気が引いた。つい何日か前に来たばかりだし、今回は事前通告もなかった。
「契約関係のログを調べさせてもらったわ。いろいろ不審な点があって、おもしろかったわよ。もっとも適正な利益水準さえ維持してくれていれば、目くじらを立てるようなものでもないんだけど、そちらの方も残念なものだから、仕方ないわよね」
 監督官の言葉に、マデラは恐怖する。金星の北極エリアを担当する中級パートナーという地位は、一定の利益を上げ続けることを前提にしたものだ。利益水準が基準値を下回れば、降格もあり得る。
「いろいろ問題が……」
 マデラは、かろうじて言葉を絞り出す。
「そうでしょうね。問題がなければここ数ヶ月の業績の急落は説明が付かないわ」
「ええ、そのとおりです。営業妨害です」
 業績の急落は、顧客基盤の喪失が原因だった。今までマデラから借り入れてきた中小の鉱山主の多くが、借入金を完済し、契約を終了させている。どこかに条件のいい貸し手がいて、鉱山主たちは借り換えをしているのだ。
「で、誰が営業妨害をしているの?」
 それが問題だった。マデラには、監督官の問いに対する回答の用意がない。
「それは……」
 監督官は、肩を落としてあからさまにがっかりした様子をみせる。
「競争相手を知ろうとするのは基本だと思わないのかしら?」
 部下のインドラルには調べさせていたし、マデラ自身も何回か顧客に話を聞いたことがある。ただ、顧客の鉱山主たちは、市況がいいとか、そんなあたりさわりのないことしか言わなかった。
「ええ、その通りです。実際に調べてもみたのですが……」
 調査はした。ただ、その調査に、どこまで力が入っていたかというと……。
「おざなりな調査は、調査のうちに入らないわ。よくわからないことにいろいろと経費を使っていているみたいだから、ちゃんとした調査に振り向けるための資金もなかったでしょうけど」
 マデラは灰色のボディスーツに身を包んだ監督官に改めて目を向けた。火星にいるミューラー監督官がここにいるわけではない。前回と同じ、インフォモーフとしての訪問だ。しかも、前回のような壁面ディスプレイの中ではなく、マデラのデスクに座っているということは……。
「そうよ、気がついたようね。今の私はあなたの支援AI(ミューズ)に直接アクセスしているの」
 パーソナライズされた支援AIであるミューズにアクセスすることによって、監督官はマデラの思考を読んでいる。
「あなたには秘密が多すぎるの。あなたの秘密主義がソラリスに不利益をもたらすとしたら、私は見逃せない」
 強い口調にマデラはたじろぐ。
「そんなことは……」
 タコのことは考えてはいけない。タコは既にマデラの手をすり抜けている。なかったことにしてエリアの営業成績を立て直す。それから……。
「……金星で一番の営業成績を上げ、昇進を勝ち取る」
 監督官の言葉はマデラが考えていたとおりの言葉だった。
「そう、アクセスレベルを上げたの。支援AIはあなたが考えていることを詳細にモニターしている。そのミューズをモニターしていれば、あなたの考えも手に取るようにわかるわ。あなたが必死で隠そうとしているタコのこともね」
 マデラの背中を冷たいものが伝っていた。マデラの所有物だったオクトモーフ。マデラに負っていた債務は精算され、今は金星を出ているはずだ。
「そうだったのね……」
 監督官は、また肩を落とした。それを見たマデラは、ついにザイオンのことを知られたと……。
「……ザイオンだったのね。あなたを信用したのが間違いだったわ」
 ザイオン・バフェット。大破壊前の太陽系においては有数の資産家として知られ、ザイオンが設立したファンドは現在のソラリスとも繋がっている。
「あなたも中級パートナーなら知っていたはずよ。ソラリスはザイオン・バフェットに関する情報を探してる。あなたが何を見つけたにせよ、その時点で報告する義務があったの。ちゃんと私に報告して、後は自分の仕事に戻り、エリアでの利益の最大化を計る。それがあなたが採るべき正しい行動だったの」
 マデラはソラリスにおけるキャリアが終わったことを悟った。マデラの足下には暗く深い穴があり、今まさにその穴に落ちていくところだ。
「……あなたって、本当に間抜けね。まだやるべきことをやってないわよ」
 監督官が何を言っているのか、マデラはわからなかった。
「ねえ、深い穴の底は暗すぎて、蜘蛛の糸が見えないのかしら?」
「それはどういう?」
 マデラは、監督官の言葉に一縷の希望を見いだしていた。
「資産保全の訴えを起こすのよ。あの義体はあなたの資産だったでしょ。裁判を起こす余地くらいはあるんじゃないかしら?」
 つまり、ザイオンが使っている義体に対する権利を主張することで、マデラにはザイオンを追う正当な理由ができる。ミューラー監督官が言っているのはそう言うことだった。
「それで、私は?」
 マデラ自身にも間抜けに聞こえる言葉だった。
「本当に間抜け。自分の物は自分で探すの。もちろん、ここでの仕事が邪魔になるといけないから、異動させてあげるけど。今、あなたのオクトモーフの行き先を調べているところよ。行き先がわかったらあなたの異動先を決めましょう。少なくとも金星に留まり続けることはないでしょうから、ちゃんと身辺整理をしておいてね。さすがに中級パートナーのままじゃまずいから、異動先のポストは専任調査官ということにしておくわ。それから、今回の異動はエゴキャストの予定。新しい義体はポジションにふさわしい物を用意しておくわね。わかった?」
 そう言うと監督官の姿は消えた。極度の緊張から解放されたマデラは床にへたり込む。

 金星から火星のトランジットステーションを経て、ザイオンはオリンポスへと降りた。火星唯一の軌道エレベータを擁するオリンポスは、ザイオンの記憶の中では繁栄を極めていたはずなのだが、今はどこかうら寂しい。
「あんまりきょろきょろしない方がいい。あんたはただでさえ目立つんだからな」
 タコの姿をフードで隠したザイオンと並んで歩いているのは、フェデリアーノ・フェレンデス、オリンポスの手配師だった。灰色の分厚い肌とがっしりした体型のラスター(火星の寒冷な環境に適合した生体義体)で、いつも不機嫌そうな顔をしている。カザロフが火星の先行トロヤ群にある小惑星、ドゥールスに向かうことになったため、ガイド兼ボディーガードとして雇ったのだ。
「ここに来るのは久し振りなものでね」
 ザイオンは記憶を遡る。まだ、地球が太陽系の中心だった頃、金融資本は昔ながらの政府による煩雑な規制に縛られていた一方で、拡大する地球外経済に対応できる自由な活動拠点を確保するために地球外への移動を模索し始めていた。ザイオンが火星に設立したファンドはその先駆けだった。
「まだここが賑やかだった頃、ってことか?」
 フェデリアーノが聞いた。オリンポスの衰退は大破壊よりも以前に遡る。元々寒冷で乾燥していた火星の環境が、テラフォーミングによって温暖になっていった結果、標高の高いオリンポスの寒冷な環境から、より温暖で環境のいい赤道地方の低地帯へと人口の移動が起きていた。
「そういうことになるだろうな」
 ザイオンとフェデリアーノは軌道エレベーターの基部からオリンポスの中心へと続く緩やかな下り坂を歩いていた。とりあえずの拠点となる宿までは一キロもない。オートカートを使ってもよかったが、ザイオンが歩くことを選んだ。遠くないという以上に、火星の重力が小さいことも徒歩での移動を容易にしている。それに、歩くことで街の空気を感じ取ることができる。
「今時は、誰もが通り過ぎるだけだ。誰も、こんな吹きっさらしの町に留まろうとは思わない」
 VRの広告が媚びを売るのを無視して、ザイオン達は歩を進める。以前は高級なブランドショップが軒を並べていた通りも、今やプラグインポルノを売る怪しげな店が目立つようになっていた。
「落とす金も減っているようだな」
 オリンポスの変化は、ザイオンに否が応でも時間の経過を意識させる。ドーム化計画の頓挫という形でオリンポスの衰退が運命づけられた時点で、ザイオンは事業拠点のノクティスへの移転を決めていたが、その頃にも増して景気が悪そうで、人通りも少なくなっていた。
「足下にも気をつけろ。舗道の維持管理にも手が回ってない」
 フェデリアーノが言うように、足下の舗装が剥がれ、大きな穴があいていた。都市インフラの補修が行き届いていないのだ。
「メインストリートですらこれか」
 衰退が都市の収入を減らし、さらなる衰退を招いている。気候という要因があってもなお、マネージメントに問題があるのだろう。
「郊外はもっとひどいぞ」
 自嘲気味にフェデリアーノが言った。
「だろうな」
 ザイオンは軌道エレベーターから見た光景を覚えている。さび付いたブリキ缶ハビタットが点在し、その多くが打ち捨てられているように見えた。
 とりあえずオリンポスに滞在することにしたのは用心のためだった。金星にいた頃は、火星にさえ来ればすべてが上手く行くと思っていたものの、トランジットステーションでの経験が、ザイオンを慎重にさせていた。入国を試みた時点で、状況は簡単ではないことがわかっている。火星の市民権を持ったザイオン・バフェットとしての入国は拒否され、金星のアップリフトという身分での入国を余儀なくされたのだった。
「もうすぐだ」
 メインストリートを離れると、街の荒廃の度はさらに増していた。破壊れた街灯にエネルギーケーブルをつないだケースが、地面に座ったまま物欲しげにザイオンを見上げる。中古の部品を組み合わせたのか、どこかちぐはぐなそのケースは、ほこりと油にまみれ、薄汚れていた。フェデリアーノと同じ義体であるラスターのグループがどこかうさんくさげな視線を向けてくる。上空をカラスが飛び、ザイオンは金星で水銀の川に沈めたはずのネオエイヴィアンを思い出した。
「随分と柄の悪いエリアじゃないか」
 足早に歩くフェデリアーノにザイオンが言った。
「金星のことは知らんが、アップリフトが泊まっても余計な詮索をされない宿は限られるんでね」
 いつかはヒトをベースにした生体義体に乗り換えるのだろうと思いつつ、ザイオンはオクトモーフを使い続けている。実際、今まではオクトモーフであることのメリットが大きかった。
「セキュリティがしっかりしていれば、それでいい」
 ザイオンは、なぜ自分がザイオン・バフェットとして認められなかったのかを調べなければならなかった。今のままでは、ただの金星のアップリフトの鉱山主でしかない。
「セキュリティは心配しなくていい。この環境はどうしようもないが、マネージメントは大丈夫だ」
 フェデリアーノの保証がどれくらい頼りになるかはわからないが、たどり着いたホテルの見た目は悪くない。古さは隠しようがないが、清掃が行き届いている。管理がしっかりしている証拠だった。
「とりあえず、明日一日は部屋にいるつもりだ。それから、ノクティスに向かおうと思う」
 宿の前でザイオンはフェデリアーノに告げた。マリネリス渓谷の西の端にあるノクティスへは、リニアモーターカーで三時間、空路ならもっと早い。ノクティスは、火星第二の都市であり、今でもザイオンが設立したファンドを継承したソラリスのオフィスがある。
「出歩く必要があれば、いつでも呼んでくれ」
 ザイオンはフェデリアーノに向かって頷いた。
「多分、大丈夫だ。一日中、調べ物をしていることになると思う」
 調べるべきことはいくらでもあった。なぜ、ザイオン・バフェットとして火星に入れなかったのか、現在のザイオン・バフェットの市民権はどうなっているのか、まずは、ザイオンがザイオン自身であることを証明しなければならない。それからはファンドのマネージメント状況を調べることになる。
 ザイオン自身を取り戻し、ザイオンの所有物だった物を取り戻す。ザイオンは、そのために火星にやってきた。

 遠くに光が瞬いている。覚醒が近い兆候だ。
 エゴキャストからの覚醒は、バックアップからの覚醒プロセスと本質的には同じプロセスだった。唯一の違いは、バックアップからの覚醒では、失われた時間があるということで、マデラは苦々しい記憶を思い出す。
 義体の損失は、経済的な不利益に留まらない。バックアップ以降の時間と経験が失われる上に、前のバージョンの自分に起きたことを否が応でも考えさせられる。それもこれも、あの、タコと、ポンコツのケースのせいなのだ。
 怒りの発作を押さえるミューズはまだ起動していない。マデラ本人の覚醒が最初で、マデラ本人と同じように金星から送られているはずの支援AIは起動されていないようだった。
「気分はどうかしら?」
 灰色の野暮ったいボディスーツに最悪だと毒づきたくなるが、そんなことをしても、何のメリットもない。実際、ベッドに横たわるマデラの横に立っているミューラー監督官は、マデラ自身の上司になる。
「大丈夫……」
 ……ではなかった。マデラは聞いたのは、機械的な合成音声だ。身体を起こそうとすると金属がぶつかる音がする。身体感覚のフィードバックにも違和感がある。
「どう、新しい義体は? そんなに新しいってわけじゃないけど」
 上体を起こすと身体がきしむ。両手と、それから自分の身体に視線を降ろす。
「……なぜ、ですか?」
 錆付いた身体。古びたケースの身体があった。
「随分、運がいいわよね。火星に着いた難民は、しばらくインフォモーフのままで契約労働に従事するのが普通だから、最初っから義体が手に入るなんて、すっごい幸運なのよ」
 満面の笑みを浮かべて監督官が言った。
「しかし、私は、専任調査官ということだったのでは?」
 ケースでなければ近づけないようなところに行く必要があるのだろうか。
「あなたって本当に間抜けね。間抜けで、おバカ。おめでたすぎるわ」
 マデラを愚弄するように、監督官が言い捨てる。
「ねえ、その足りない頭でよく考えて。監督下にある中級パートナーが、本部の重要な指示を無視した上に、ソラリスの資産を毀損しかねない行為をしたのよ。しかも、監督官には、その中級パートナーの逸脱行為を発見し、事態を回復する機会と権限があったのに、なにもしなかった。そんな間抜けな監督官は、どう処遇するべきかしら?」
 マデラはミューラー監督官の怒りを感じていた。マデラの失態を見逃したことは、監督官自身の失態でもある。マデラがやったことをそのまま報告するのは、自分自身に降格処分を科すようなものだ。
「……では、私は……」
 専任調査官の発令が嘘なら、今のマデラは何なのか。マデラは自分自身が置かれた立場が理解できなかった。
「あなたは業務上の不適切な経理処理について調査を受けていたの。実際に私的な経費の流用も多かったから、データをねつ造する必要もなかったわ。それで、処分を恐れたあなたは失踪した。内部で処分の検討が進んでいたし、告発の可能性もあった。それであなたは金星から逃げ出した、ってわけ。いろいろ作業に時間がかかったけど、証拠はきっちり用意しておいたから疑われることはないでしょうね」
 淡々と事実を告げるように監督官が言う。もし、状況が監督官の説明通りだったとしたら、マデラ自身はソラリスでの地位を失っているどころか、犯罪者の一歩手前まで来ているということだ。
「……それは、全部、でっち上げです。ここに来るのだって金星から逃亡したわけじゃない」
 マデラは、何とか言葉を絞り出す。
「でも、誰があなたを信じるかしら? 証拠が指し示す事実は一つよ」
 経費の支出記録は不正経理を防ぐために書き換えができないようになっている。ミューラー監督官の話したマデラのストーリーは、支出記録に一致しており、説得力があるということだろう。それに、真実もマデラを守ってくれない。
「……でも、でもですよ、あなたはなぜこんなことを?」
 マデラは混乱していた。確かにマデラの行為が監督官の立場を危うくしたことは事実だろう。だが、なぜマデラを火星にまで呼び寄せる必要があったのか。ザイオンのことを無視して、業績の不振や不適切な経理に対するペナルティを課しておくだけでよかったのではないか。
「あなたってホントに救いがたい間抜けね。よく中級パートナーにまでなれたわね。あのタコがあなたの元を逃れ、ずっと大人しくしてるならそれでいいわよ。でも、決してそんなことにはならない。あのタコが自分の権利の主張を始めれば、ソラリスの中で難しい問題が生じる。そんなことになったら私たちはおしまいよ。わかる? お、し、ま、い」
 ソラリスの中枢はザイオン・バフェットを探していた。マデラ自身はザイオン・バフェットの個人資産に目を付けていたが、問題は個人資産なのではなく、ザイオン・バッフェットが生存していた場合に有するソラリスそのものに対する法的な権利だとしたら。ザイオン・バフェットがソラリスに与えうるインパクトは大きく、場合によってはソラリスそのものの安定を損ねることになりかねない。監督官が指摘したのは、もしそうなったときに、混乱の原因を作り出したマデラと、それを見過ごしたミューラー監督官になにが起こるかということだ。
「……それを、防げ、と?」
 ザイオン・バフェットが火星で行動を起こす前に、その身柄を確保できれば、問題は大きくならないですむ。それしかミューラー監督官がソラリスで生き延びる道はないだろう。
「当たり前でしょう」
 ミューラーはそう言い捨てる。
「……でも、私はどうなる?」
 マデラはすでにソラリスを追われたのではなかったか。だとすれば、タコを確保したところでマデラには何のメリットもない。
「あなたは、逃亡したオクトモーフを提供することで、少なくともあのオクトモーフに対する支出は私的な支出ではなく、正当な経費だったと証明できるでしょう。地位保全の訴えはできるし、情状も酌量される。現状回復の可能性はあるわ」
 そう、あっさりと言ってのけるミューラー監督官にマデラは苛つく。
「あれを見つけたのは私だ。それで、期待できるのが現状回復だと?」
 確かにミスはあったかもしれない。だが、膨大な数のアップロードされた被災者の中からザイオン・バフェットを見つけだしたのはマデラなのだ。
「考え違いはしないで。あなたは無能な上に命令を無視したの。処分するには十分すぎる理由があるのよ。私があなたを使ってあげようとしているのは、あなたならあのタコの後を追いかけていても法的に正当化できるというだけなの。あなたのタコが乗った船は、三日後にはトランジットステーションに到着する予定よ。それからオリンポスに降りてくるでしょうから、そこで捕まえることね」
 ミューラーはそう断言した。
「ちょっと待ってくれ。なぜ、あと三日しかないんだ? なぜ、奴がオリンポスに降りてくるとわかる?」
 マデラが火星にエゴキャストしたタイミングからすれば、客船を使って惑星間航行でやってくるザイオンの到着まで、数週間の余裕があるはずだった。それにトランジットステーションと火星の主要都市の間には複数の空路がある。軌道エレベータを使わなければならない理由はない。
「最初のところは私にも準備の都合があったってこと。言ったでしょ、あなたの逸脱行為の証拠を、ちゃんと準備しておいた、って。二つ目の点で言えば、それが彼のいつもの習慣だったからよ。ちょっとした情報を教えてあげるけど、彼はザイオン・バフェットとしては入国できないの。それがわかれば行動も慎重になるはずよ。すぐにソラリスのオフィスにはコンタクトしないでしょうから、きっとオリンポスで捕まえられるわ」
「奴には仲間がいる。私一人では無理だ」
 マデラはカザロフのことを思い出していた。ザイオンの追跡に失敗したばかりか、ザイオンの逃亡を助けたポンコツのケースだ。
「そうでしょうね。あなたには息の合う部下が必要だったわね。なんて言ったっけ、あのカラス?」
 マデラの脳に当たる回路に、インドラルのカァカァという声が響いた。


 ホテルのレセプションはザイオンの金星のIDをあっさりと受け入れた。フェデリアーノが手配した宿の七階のスイートは十分に広く、バスルームも広い。ザイオンは早速、大きなバスタブに水を張り、全身で浸かった。
 細胞の一つ一つに水が吸収されていく感覚は、シャワーブースで水を浴びるだけでは得られないものだった。ザイオンの全身の筋肉から緊張が解けていく。
「ネットワーク環境を確認してくれ」
 ザイオンはバスタブに浸かったまま自分の支援AI(ミユーズ)に指示した。
「……ネットワーク環境を確認しました。通信環境は安定しており、通信速度、容量とも問題ありません。セキュリティ懸念は最低レベルです。匿名化処理を選択しますか?」
 もちろん、ザイオンは匿名化処理を選択する。これから何を調べるにしても、目立つようなことはしたくなかった。火星の市民権を有するザイオン・バフェットとして認められなかったということは、ザイオンの法的立場を巡って何らかの問題が生じているということだったし、状況がはっきりするまでは慎重に行動した方がいい。ザイオン自身と紐付けられるような形で記録を残したくはなかった。
「仮想コンソールを展開」
 ザイオン以外の第三者から見れば、バスタブに浸かった大きなタコが四本の触腕を空中に漂わせているようにしか見えないだろう。触腕の動きにあわせ、大きな眼球がぐるぐると動いている様子は、異様と言うほかないのだが、ザイオンからは全く違う光景が見えていた。
 ザイオンの視覚の中に展開された仮想コンソールには三面のディスプレイがあった。キーボードが並び、触腕のわずかな動きでテキストが走る。視線の動きで画像が切り替わる。
 調査を始めるべき基点は大破壊(ザ・フォール)だった。ザイオン自身が地球にいて、混乱する地表から脱出するためアップロードされた時点だ。それから、マデラがザイオンの凍結されたエゴを発見し、オクトモーフに覚醒させるまでの間、六年間のギャップがある。さらに、ザイオンがマデラの元から逃亡し、金星を脱出するまで、四年近くが経過していた。
 太陽系有数の富豪であったザイオン・バフェットが不在だったおよそ十年の間、太陽系は大破壊によって切り裂かれた状態からの復興の歩みを進めていた。
 大破壊は、人類史上まれにみる大惨事だった。人類の大部分が死に絶え、事実、人類の故郷である地球は人類の立ち入ることができない世界になっていた。
 大破壊の時点で、他の多くの地球の住人と同様に、ザイオンも死んでいておかしくなかった。実際、マデラがザイオンを見つけなければ、今でも凍結されたデータとして放置されていてもおかしくない。それを思えば、ザイオンは幸運だったのだ。
「大破壊直後のザイオン・バフェットに関する公的記録を確認」
 ザイオンの指示で支援AIが火星のネットワークに接続したあらゆる公開データベースからザイオンに関する記録を探す。
 代理弁済とちょっとした訴訟公告、不在確認にかかる行政手続き、重要な物は特にない。いくつか資産分割に関する訴訟があったが、ザイオンが不在のため、手続きは停止したままだ。その意味では、大破壊を機に、ザイオン・バフェットの時間は止まっていた。
 画面をスクロール。
 ソラリスはザイオンの議決権を凍結する措置を執っていた。ザイオンの存在が確認されない以上、円滑な事業運営には必要なことだ。
 画面をスクロール。
 さらにスクロール。
「報道関係を調査対象に追加」
 ソラリスの議決権凍結に伴うプレスリリースがあった。関連する記事として、大破壊による著名な行方不明者と、その影響を解説したものが紐付けられていた。分野ごとに分類された膨大な行方不明者のリストがあり、金融部門ではザイオン・バフェットの名前もある。ザイオンはリストを見て、改めて大破壊の影響の甚大さを実感する。リストの上位にある名前のいずれもが金融市場を動かしていた主要なプレイヤーであり、これだけのプレイヤーが一度に消えたとしたら、金融市場には大きな空白と混乱を生じたはずだ。
「大破壊直後の金融市場に関する情報を調査」
 ザイオンの関心は、自分自身から太陽系の金融市場の状況へと変わっていた。
 大破壊の前、太陽系の金融の中心は地球だった。
大破壊の直後は、月と火星がその地位を争い、現在は火星が月を圧倒している。結局のところ、月は地球に近すぎ、地球から自立できていなかったのだ。
 一方で火星ではザイオンのいないソラリスが急激な伸張を見せていた。他の金融資本に比べてソラリスが優位だったのは、大破壊の時点ですでに有力な事業拠点を火星に有していたことだ。ザイオンが火星に設立したファンドの管理会社は、まさに現在のソラリスの直接のルーツの一つなのである。
 ザイオンは調査の対象をソラリスそのものに変えてみる。ソラリスは単一の企業体ではなかった。複数の企業体の連合体で、パートナーと称するメンバーが管理する個々の企業体の集合だった。それ故に、全体像の把握が難しい。
 事業報告に決算状況、数字の羅列。膨大なデータを集約し、加工する事で、かろうじて全体が見えてくる。ソラリスはそんな組織体だった。 
 ソラリスは大破壊直後の混乱期をやり過ごしただけではなく、それ以降も急激な成長を遂げていた。ザイオンはソラリスの成長のステップを遡る。大破壊からの復興需要の波に乗った投資案件の選択、資金投入の規模と時期、ほとんどの判断が納得できるもので、結果的にも正解だったと言っていい。
 ソラリスの成長の軌跡を確認したザイオンは、ちょっとした誇らしさのようなものを感じてた。なぜならソラリスの一部はザイオンが育てたものであり、ソラリスの成功は、ザイオンが作り出したものの成功でもあるからだった。
 だが、しかし……。
 ザイオンは、ふと違和感を感じる。ソラリスの業績を見る限り、ザイオンの不在は何ら悪影響を及ぼしているように見えない。
 その事実が何を意味しているのか。
 仮想コンソールのキーボードを操る触腕の動きが止まり、情報を貪欲に取り込もうとする視線の動きが止まる。大量の情報を飲み込んだザイオンの脳が、情報を消化すべく活動していた。
 ヒトの臓器の中で、一番エネルギー消費の多い臓器は脳だと言われている。それは、知性化されたタコをベースにしたオクトモーフにしても同じこと。大量のエネルギー消費は脳の温度上昇につながり、脳を冷やすために血流量が増加する。それがザイオンの身体に起きたことだ。
 ザイオンはバスタブに勢いよく水を足す。火星ではまだ高価な水が大量にバスタブからあふれるが、ザイオンは気にしない。自分の廃熱で茹でダコになることはなくても、熱中症になる可能性は否定できないのである。



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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』