「皐月の武者」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:satukinomusha_ootatadasi

 璃穏(りお)は兄の顔を知らない。
 桃玻(とうは)は彼女が生まれる二年前にこの世を去った、と母に聞かされた。この世を去る、という言い回しを当時は理解できなかった。母は教えてくれた。あなたのお兄様は神様に愛された特別な子なの。神様はあの子を傍に置きたくなって、連れて行ったのよ。もう帰ってこないの、と尋ねた璃穏に、母は優しく言った。
「今でも、ここにいるわ。あなたにも会わせてあげる」
 その人形は白い覆いを外され、床の間に置かれた。
 赤地に金が施された煌びやかな鎧兜に身を包んだ武者。幼いが凛々しさを感じさせる面差しに、璃穏は息を呑む。
「これが、お兄様?」
「ええ、桃玻よ」
「でも、人形でしょ?」
 璃穏の屈託ない問いに、母は少し苛立たしげに首を振って、
「……人形ではないの。依り代」
「よりしろ?」
「桃玻がこの世に戻ってきて、この人形に宿るのよ。桃玻になるの」
「人形がお兄様になるの? いつ? 今?」
「明後日。節句にね」
 せっく。その言葉が璃穏には耳新しく聞こえた。父が帰ってきたとき、彼女は言った。
「節句にお兄様が帰ってくるの」
 父は眉根を寄せて、
「母様が、そう言ったのか」
「そう。教えてくれたの」
「そうか。でもね、それは違う。桃玻は帰ってこない」
「そうなの? でも母様が――」
「母様は間違っている」
 父は苛立たしげに娘の言葉を遮る。
「桃玻は逝った。もう帰ってこない」
「神様のところから、帰ってくるんじゃないの?」
「神なんて」
 言いかけて、父は言葉を呑み込む。
「……いいか璃穏、桃玻のことは、もう話してはいけない。誰にもだ」
 どうして、とは訊けなかった。父の顔が怖かったからだ。ただ、頷くことしかできなかった。
 その夜、父と母の間で言い争いがあった。布団に入っていた璃穏の耳には言葉の意味はわからず、ただ怒りの籠もった声だけが流れ込んできた。璃穏は布団にもぐり込み、その声から逃れた。

 翌日、学校帰りに璃穏が隣家の前を通ると、
「璃穏ちゃん璃穏ちゃん」
 呼び止めたのは、苑史(えんし)のお母さんだった。
「明日、うちに来ない? 苑史の節句祝いをするの」
 どうしようか、と璃穏は逡巡する。二歳年下の苑史のことを彼女はあまり好いていなかった。意地悪でひねくれているからだ。この前も家の前を通ったというだけで石を投げつけられた。
「ごめんなさい。うちも節句の祝いをするから」
 そう言って立ち去ろうとすると、
「まあ、死んだ子の節句なんて縁起でもない。ましてや神隠しに遭った子の節句なんて祝うもんじゃないわよ」
 邪険な声に璃穏は立ち竦む。
「かみかくし?」
「知らないの? あなたのお兄さんはね、どこかに消えちゃったの。死体も見つからない。みんな、神様が連れてったって言ってるわよ」
 ――神様はあの子を傍に置きたくなって、連れて行ったのよ。
 母の言葉を思い出す。
「……神様が連れて行ったのなら、死んだんじゃない」
 抗議するように言っても、苑史のお母さんの口調は変わらない。
「神様の傍にいるってことは、もう死んだってことよ。まあね、桃玻ちゃんが死んでくれたから、この町は守られたんでしょうけど」
「守られた?」
「あの日、町を嵐が襲ったの。そりゃすごい風と雨でね、堤防が決壊寸前になったのよ。そのとき桃玻ちゃんが家から飛び出してね、嵐に向かって『お願い! やめてえ! 吹くなあ!』って叫んだの。あなたのお母さんとお父さんが止めようとしたんだけど堤防に向かって走り出してね、そのままいなくなっちゃった。不思議なのは桃玻ちゃんが消えてすぐに嵐が嘘みたいに止んだのよ。それでみんな、神様が桃玻ちゃんを連れてって、その代わりに嵐を消してくれたんだって」
 璃穏の知らない話だった。
「でも、でも、もしそうならお兄様は、みんなのためになったんでしょ? だったら節句を祝ってあげてもいいじゃない」
「駄目よ。だめだめ。連れてかれた子を神様から引き戻すようなことをしては駄目なの。神様が怒って、もっとひどい災難を起こすかもしれないもの」
 苑史のお母さんは、とんでもないことだと首を振る。
「璃穏さんはまだ小さいからわからないかもしれないけど、この星の神様は怒りっぽいの。わたしたちの御先祖様がこの星にやってきて住まわせてもらえるように頼んだときも、すごく怒って何人もの人が死んだって。それでも我慢してお願いして、やっと住まわせてもらえたのよ。神様を怒らせては駄目。いつもご機嫌を取らなきゃ」

 翌々日、璃穏は用もなく家の中を歩き回っては、偶然を装って居間に入り、床の間の武者人形を覗き込んだ。だが人形には白い布が掛けられ、姿は見えなくなっていた。父のしたことだ。
 母は自分の部屋から出てこない。父は出かけている。家の中はひっそりとしていて、暗かった。
 璃穏はためらっていた。何度も人形の前に立ち、布に手をかけては離していた。
 ――桃玻がこの世に戻ってきて、この人形に宿るのよ。桃玻になるの。
 ――連れてかれた子を神様から引き戻すようなことをしては駄目なの。
 声が蘇り、頭の中を駆けめぐる。
 何度目かに手をかけた布が、そのときするりと落ちた。
「あ」
 人形は床几に腰を下ろし、膝の上に手を突いて前を見つめている。その眼差しは凛として深く、吸いよせられるような力を感じた。
「……お兄様」
 かちり、と音がした。鎧が擦れる音だ。
 武者人形が立ち上がっていた。
 武者が真っ直ぐに璃穏を見つめる。その口許に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……帰ってきたの? でも、お兄様が帰ってきたら、ひどい災難が起きるって……」
 武者は小さく首を振り、心配するなというように璃穏の腕を軽く叩いた。
 かちり、かちり。鎧を鳴らしながら武者は歩きだす。縁側に出ると、空を見上げた。璃穏も同じく空を見る。
 浮かんでいた綿雲が形を変えた。白い馬となって駆け下りてくる。武者は身軽な仕種で馬に乗ると、再び璃穏を見た。
「……行ってしまうの?」
 武者はまた首を振る。そうではない。いつでも、傍にいる。そう言っているように感じた。
 一声いななくと、馬は駆け上がっていった。武者はしばらく家のまわりを巡り、それから天に向かって馬を駆った。その姿はみるみる小さくなり、消えた。

 璃穏が眼を覚ましたとき、空はすでに翳っていた。自分が泣いているのに気づいて、すぐに何が起きたか思い出す。
 床の間に人形の姿はなかった。
 母の部屋に駆け込むと、璃穏は自分が見たことを全部話した。
「……そう」
 母はただ、それだけ。そして居間に行って人形が座っていた床几を片づけた。
「母様、お兄様は――」
「いるわ。ずっと、いる」
 そう言って母は璃穏の頭を撫でた。その表情から、影が消えていた。
 璃穏は母に抱きついた。泣いていいのか、泣けるのか、わからなかった。懐に顔をうずめ、動かなかった。

 それから月日が流れ、桃玻がいなくなった歳になったとき、璃穏の町を嵐が襲った。すさまじい暴風が家々を巻き込み、木々の枝をへし折った。
 堤防が決壊する、と母が怯えて言った。璃穏は表に飛び出した。
「お兄様、お願い! 町を守って!」
 叫び声は風に巻かれ、誰にも届かない。嵐はますます吹き荒れる。
「じゃあ、わたしを連れてって! わたしを!」
 肩を掴まれ、引き戻された。
「なにを馬鹿なことを言っているんだ。おまえまで連れて行かれるなんて、許すものか」
 父が怒鳴るように言った。
「でも、でも!」
「大丈夫だ。守ってくれる。心配するな」
「守って? 誰が?」
 娘の問いかけに、父は一拍の間を置いて答える。
「桃玻が。あの子が守る。そのためにあの子は、堤防の中にいるのだから」
「やっぱりそうなのね!」
 母が父に縋りついた。
「あなたたちは、堤防のために桃玻を殺したのね……!」
「違う。あの子は見つかったとき、すでに死んでいた」
 父は母に言い聞かせるように、
「堤防は決壊寸前の状態だった。他に亀裂を埋めるものはなかった。」
「あの子を土嚢代わりにしたのね」
「……桃玻の遺体を堤防の裂け目に落とした瞬間、水の流れが静まって、嵐も治まった。みんなが言った。おまえの息子が人柱になってくれたと。町を守ってくれたと」
「ひどい! 桃玻が不憫すぎるわ」
 言い争う父と母の隙を見て、璃穏は再び外に飛び出した。一気に駆け、堤防を目指す。
 眼も開けられない雨風の中、川の水位は見たことがないほど増していた。
 その堤防の真ん中に、武者が立っている。
「お兄様……」
 武者人形は璃穏を見て頷くと、腰の刀を抜いて堤防に突きたてた。
 瞬間、眩い稲光に璃穏は思わず眼を覆った。
 再び眼を開けたとき、そこに武者の姿はなかった。
 気が付くと、嵐は止んでいた。雨も治まり、雲の切れ間から陽が差し込んできた。
 璃穏は武者のいたあたりに立つ。突きたてられた刀もなく、ただそこには風雨に倒れた小さな石碑があった。「慰霊」とだけ彫られている。
「……ここに、お兄様がいるのね」
 璃穏は石碑を立て直し、腰を降ろして手を合わせた。
 その耳に、天を駆けていく馬の蹄の音が聞こえた。



太田忠司プロフィール
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太田忠司既刊
『万屋大悟のマシュマロな事件簿』