「ザイオン・トラップト(Part2)」伊野隆之

(PDFバージョン:ziontrapped02_inotakayuki
 マデラは苛ついていた。苛つきながらも、自分でその感情を抑えようと努力している。結局のところ、過去の失敗から学ばなければ成長はないのだ。
 ザイオンを金星から取り逃がしたのはマデラ自身が自分の感情をコントロールできなかったからであり、感情のコントロールができなかったのは向神経ソフトへの依存が過ぎたからだ。向神経ソフトを使いすぎたのは、いちいちマデラのセクレタリーがマデラに使用を奨めるからで、結局は出来の悪いセクレタリーが悪いのである。だからこそ、今のマデラは向神経ソフトに頼らずに苛つく自分と戦わねばならず、そんな状況に陥ってしまっていることに対しても苛ついていた。
 しかも、今のマデラの義体は中古のみすぼらしいケースで、ヒト型の生体義体のように、大きく深呼吸をすれば気持ちが落ち着くというような原始的な対処もできないどころか、全体に調子が悪かった。マデラが今置かれた状況が、二重三重にマデラを苛つかせていた。
「急ぎましょうカァ!」
 苛つきの原因の一つが、また声をかけてくる。よりによって、あろうことか、わざわざ、マデラのためにバックアップを起動し、連れてきたのだ。しかも使っている義体はもともとのネオ・エイヴィアンのまま。
「わかってる。この義体がとろいんだ」
 マデラが新しい義体に目覚めたのは、ノクティスにあるソラリスのオフィスではなく、ほど近いモーフショップだった。生体義体だけでも多くの選択肢がある中、よりによってミューラーが選んだのは、中古のケースだった。確かに情報難民のインフォモーフが最初に手に入れる物理的な義体としては一般的で、火星のどの街でも目立たない。ザイオンが火星の地表に降りて来るであろうオリンポスは、街全体が衰退していたから、ケースなら町中のどこでも目立たずにいることができるということなのだが、それにしても状態が良くない。耳鳴りに頭痛、目の焦点が合いづらく、時には吐き気に襲われる。よほど安い買い物だったに違いない。
「そんな義体を選ぶカァ~らッ!」
 苛ついているマデラとは違い、インドラルは上機嫌だった。ノクティス全体を覆うドームは広く、重力も小さい。モーフショップを出てすぐに空を飛び始めたインドラルをマデラは苦々しい想いで見上げていた。
「リニアで行くぞ!」
 契約労働のインフォモーフが運転するオートカートを拾ったマデラの上空をインドラルが飛ぶ。リニア中央駅からは、インドラルも地上に降りていた。
「タコ野郎を捕まえるんすよネッ!」
 さすがに中古のケースでは一等に乗るのははばかられた。二等の客室、オリンポスに向かうと言うよりは、軌道エレベータで火星から出ていくためだろう、大きな荷物を抱えたヒト型の生体義体が多い。多分スプライサーがほとんどで、何体か火星独自の義体であるラスターやマーシャン・アルピナーもいたが、マデラのような機械の義体はほんの数体で、インドラルのようなネオ・エイヴィアンは他にいなかった。
「いちいち大きな声を出すな」
 だだでさえ目立つのに声が大きい。マデラに一喝されて、インドラルはうつむく。
 ノクティスドームの周辺は、テラフォーミングによって作り出された緑地帯が広がっていた。地球には遠く及ばなくても、金星の風景とは大違いだ。


「そのうち、こんな空が飛べるんですよネェ」
 遠い目をして言うインドラルに、マデラはまた苛つく。どうやってあのタコを確保するのか、マデラは真剣に考えようとしていた。タコの身体能力は高く、ガタの来たケースとカラスで何とかできるものではないし、ましてやカザロフが一緒だとすると、最初から勝負にならない。
「仕事が先だ、仕事が。いちいちくだらないことは言わずに黙ってろ!」
 マリネリス渓谷を離れ、マデラ達を乗せたリニアモーターカーはタルシス台地を走っていた。タルシス三山のうち、南側にあるアルシア山と中央のパヴォニス山の間を抜け、北西に向かっている。広大なタルシス台地にはテラフォーミングの恩恵は及んでおらず、まるで何もない砂漠を走っているようだった。風景が変わらないせいか、いつの間にかインドラルは寝込んでいる。
 ノクティスを出てから二時間半ほどで、リニアモーターカーは、太陽系最大の火山であるオリンポス山の山体を取り囲む崖を貫くトンネルを抜ける。そこからがオリンポス山の山裾になるのだが、高度二万六千メートルという高山ではあっても、山体の直径が五百五十キロと大きく、斜度は緩やかなので、山を登っている感覚はなかった。
 やがて、遠くにオリンポスの軌道エレベータが見えてくる。その基部に丸く見えているのは、建設途中で放棄された、都市全体を覆うドームの骨組みだった。
 マデラはまだ考えあぐねていた。どう考えてもマデラとインドラルだけでは手が足りない。ザイオンを騙してどこかに連れて行くにせよ、最後は腕力に物を言わせる状況になるだろうし、その前に、どんなストーリーでザイオンを騙すかも考えなければいけない。リニア線でオリンポスに向かう間に考えをまとめるはずが、しつこい頭痛に悩まされ、考えがまとまらない。リニアはすでにオリンポス郊外を走っていた。
 車窓の風景は荒廃していた。郊外に点在する居住地は錆付いたブリキ缶のようで、どう見ても放棄されているようにしか見えない。確かに、この環境なら、ポンコツケースがふさわしい。
「着きましたゼッ」
 オリンポスのリニア駅に着くと、いつの間に目を覚ましたのか、インドラルが言わずもがなの宣言をした。
「とりあえず、軌道エレベータに向かう」
 リニア駅を出たところでマデラが言った。リニア駅と軌道エレベータは直結しておらず、一キロほどの距離がある。インドラルを従えて街のメインストリートを歩くマデラに好奇の視線が集まった。
「じろじろ見てるんじゃネェッ!」
 すれ違ったラスターのグループをインドラルが威嚇した。オリンポスは複数の小さなドームが連結した構造で、メインストリートはドームの間を繋いでいるトンネルだ。ノクティスのように自由に空を飛べないため、インドラルの機嫌が見る間に悪くなっていく。
「トラブルを起こすんじゃない」
 マデラがなだめたその時だった。公共メッシュを通じて、ミューラーからのメッセージ。
「……ターゲットの乗った船の入港予定を確認しました。トラブルがあって、火星標準日で一日ほど遅れるようです」
 ということは、まだ時間があるということだ。何を準備すればいいかはともかく、このまま軌道エレベータに行って、すぐに対面と言うことにはならないことに、マデラは少し安心する。
「何があったんだ?」
 口の中でつぶやくようにマデラが言った。マデラの声にならない声をマデラの支援AIが拾い、ノクティスにいるミューラーに届ける。
「……船が何者かに攻撃を受けたようです」
 ミューラーの声も、実際に音として聞こえているわけではない。マデラの聴覚野に対応する機能モジュールで、音に相当する刺激として作り出されてる。
「私とこのカラスだけでは手が足りない。サポートはないのか?」
 初めて言うことではなかった。インドラルを覚醒させる前から、何度となく言っている。
「……大丈夫よ、ちゃんと協力者の手配は考えてあるから」
 軌道エレベータの基部は巨大なホール状の空間になっていた。マデラとインドラルが着いたときには閑散としていたが、数分後に軌道エレベータが到着すると三つあるゲートからヒトや機械があふれてくる。エレベータと言っても収容能力はちょっとした列車並で、千人近い人数が一度にゲートから出てくるのだ。その中からちゃんと目的のタコを見つけられるのか、マデラは不安になる。
「これは……」
 エレベータから降りてきたヒトと機械の流れがとぎれた後も、マデラはホールの一角で呆然と立ち尽くしていた。
「スごかったスネェ」
 カラス並の知恵でもわかるのだろう。この状況でザイオンを見つけるのは簡単なことではない。
 どうやってザイオンを見つけ、どうやって身柄を確保するのか。考えるべきことはたくさんあるのに、時間も使えるリソースも限られていたし、頭もまともに働かない。マデラは惨憺たる気分だった。

 何かがおかしかった。記録の上では、ザイオンは確かに地球を脱出する際に行方不明になっていた。それは、ザイオン自身の記憶とも一致している。問題は、ソラリスのパフォーマンスがザイオンの失踪による影響を受けているようには見えないことだった。もちろん、大破壊による影響はあった。だが、そこからの立ち直りは見事と言うしかない。
 もちろんザイオン一人がソラリスの事業を支えているわけではなかったし、優秀な人材が集まっていたのも事実だ。だが、ザイオンと同じレベルの上級パートナーは、しょせんは資金力があるだけで、事業家として優秀だとは思えないメンバーばかりだった。大きくなった組織が機能して行くには、組織を方向付けるリーダーシップが必要であり、ザイオン・バフェット以上に巨大化した金融帝国をマネージできる人材がいたとも思えない。
 ザイオンはバスタブに全身を沈める。これではまるで、肥大化した自負心の虜のようではないか。
 バスタブに注ぎ込まれる水が全身の筋肉を弛緩させ、余分な熱を洗い流す。傷ついた皮膚も回復し、小さな吸盤もできていた。
 やはり、大破壊による競争環境の変化がソラリスに有利に働いたのだろうとザイオンは思う。復興需要という広大な事業領域が生まれたにも関わらず、ソラリス以外の金融事業者には準備ができていなかったとすれば、ソラリスの急拡大には説明が付く。
 ザイオンが、バスタブにどっぷり浸かって、そんなことを考えていた時だった。フェデリアーノからの緊急メッセージを告げるアイコンが、仮想コンソールのディスプレイに瞬く。
「どうした?」
 バスタブから身を起こしたザイオンの目には、質素な事務机に向かうフェデリアーノが見えていた。
「……おまえのことを探し回っている奴がいる。金星の裁判所の令状があって、私的連行ができると言っているらしい」
 金星。つまり、マデラだ。あきらめるかと思ったら相当にしつこい。
「私的連行だって?」
 ザイオンには聞き慣れない言葉だった。
「……ああ、金星の管轄権からの逃亡に対して裁判所からの命令を私的に代行し、強制的に連行する制度だよ。裁判所によって認められた賞金稼ぎのようなものだと思えばいい」
 以前には聞いたことがない制度だった。
「どういうことだ?」
 フェデリアーノに説明を求める。
「……あまり評判のいい制度じゃないが、法執行に割けるリソースが限られている火星にとっては都合のいい制度だよ。犯罪者が火星に逃げてきたとしても、火星の法執行機関が動く必要がないし、適用を認めているのも少数のまともな裁判制度のある月と金星、小惑星帯の一部の居住地だけだ」
 大破壊後の太陽系で一番人口の多い居住地が火星だった。そのため、火星以外で犯罪を犯した者が、逃亡先として火星を選ぶ事例が頻発した。火星の法執行機関は、自らが域外の犯罪者を取り締まる代わりに、惑星外の犯罪者の私的連行を認めることで、域外の犯罪者を逮捕するためリソースを削減し、併せて犯罪者の流入に対する抑止力としている。ザイオンは、フェデリアーノの話を聞きながら、仮想コンソールの別画面で制度概要を確認した。
「やっかいそうだな」
 火星の法執行機関に犯罪者として追われることはないものの、身柄の拘束に対して保護もされない。つまり、自分の身は自分で守るしかないと言うことだ。
「……あんたのことを聞いて回っているのは、ネオ・エイヴィアンだそうだ。随分、大きなカラスだよ」
 フェデリアーノが見せた画像に、タージを立ち上げているわけでもないのに、背中のあたりがぞくぞくする。ここに来るときに飛んでいるのを見かけた見かけたカラスは、やはりインドラルだったのだろうか。
「……知っているのか?」
「この義体の元の持ち主の手下だ。裁判所に何を訴えたのかわからないが、そのカラスのボスとの間でトラブルがあった。多分、そのせいだろう」
 マデラにせよ、インドラルにせよ、相当ひどい目に遭わせたことがあるのは事実だった。ただ、原因はマデラの側にあったし、ザイオンが犯罪者扱いされる理由はない。
「……やっぱりアップリフトじゃなかったのか」
 ザイオンを見るフェデリアーノの表情が厳しくなる。火星の市民権を有するザイオン・バフェットとして火星に入国できなかった以上、今のザイオンの身分は金星のアップリフトのままだった。つまり、火星の政府からすれば、ザイオンは身分を詐称していることになる。
「私自身について問題があるようでね。その問題を修正するために火星に来たんだが、どうも邪魔が入ったようだ」
 フェデリアーノはザイオンの言葉に顔をしかめた。
「……もしかすると、あんたは情報難民(インフィジー)だったのか?」
 大破壊の際、地球脱出の最終段階において四億以上の身体を持たない難民が生まれた。そのうちごく一部は安い合成義体を手に入れることができたが、身体を持たない情報体(インフォモーフ)も多く、彼らは情報難民と呼ばれた。


「アーカイブされたエゴだったのさ。情報難民ですらない」
 それが、大破壊を生き延びるための唯一の手段だった。
「……その義体だが、あんたが盗んだことになってる。オクトモーフはそれなりに高価だからな」
 フェデリアーノがザイオンが追われている理由を告げた。
「でっち上げだ。代金は払ってある。それも法外な利子を付けて」
 マデラは金星の北極鉱区開発公社を事実上支配していた。金星経済で重要な地位を占める鉱山会社には突出した政治力がある。その影響力が、金星の司法にも及んでいるのだろう。マデラは義体を盗んだという犯罪をでっち上げたのだ。
「……そうか。とりあえず、そういうことにしておこう」
 これまでの経緯について説明はできる。だが、その説明を証明できるものは何もない。それが今のザイオンが置かれた状況だった。
「それが事実だ」
 そう断言はしたものの、ザイオン自身にも説得力があるとは思えない。 
「……で、どうする? そのカラスはかなり大勢に声をかけてる。俺があんたと歩いてるところを見てる奴らもいるだろうから、そこが見つかるのも時間の問題だ」
 つまり、いつまでもバスタブに浸かってはいられないということだ。
「すぐにオリンポスを出る。行き先はノクティス」
 火星まで来て、今更、マデラを相手に時間をとられたくなかった。
「……移動手段はどうする?」
 フェデリアーノが聞いた。
「リニアは使わない。なるべく目立たず、早い方がいい」
 マデラとの遭遇を避け、ノクティスに行く。その先はノクティスに着いたら考えればいい。それが、ザイオンの判断だった。

 マデラは不機嫌だった。結局のところ、マデラ自身の役割は、インドラル以下でしかなかった。
 ミューラーは文字通りインドラルを飛び回らせていた。追っ手が迫っていることを知らせ、行動をとらせる、そのためなのだ。
 ザイオンを捕らえるための罠が準備されている。状況を見ていればそれはわかるのだが、具体的にどうしようとしているのか、マデラにはわからない。結局、マデラは蚊帳の外なのだ。あえて言えば、私的連行を正当化するためだけに火星に呼ばれたと言ってもいいだろう。
 ミューラーはザイオンの行動を把握していた。その状況で、マデラに割り振られた役割は、最低辺のケースの姿で、ザイオンが宿に向かうところを確認することだけだった。
 ザイオンが到着したその日、マデラは行くべき場所を指定され、あろう事か街灯から盗電をしてバッテリーを充電しておけという指示を受けていた。どう見ても中古のケースのパーツを継ぎ合わせたような形(なり)で街灯にエネルギーケーブルを繋いでいる姿は惨めと言うほかない。そんなマデラの傍らを、大きなフードで身を隠したザイオンが通り過ぎていった。
 見た目だけではザイオンかどうかわからない。ただ、タコなのは隠しようもない事実だ。インドラルならタコ臭いとでも言うだろうが、ポンコツケースのマデラには嗅覚がなかった。
 タコは一人ではなかった。だが、並んで歩いているのは一緒に金星を離れたポンコツケースのカザロフではない。火星の寒冷な気候と低い酸素分圧に適応した生体義体、ラスターの男だった。
「ザイオンらしいタコを確認した。ラスターの同行者がいる」
 マデラの報告に対し、ミューラーはそのまま見張りを続けるように指示する。
 引き続きマデラは不機嫌だった。つまらないことをやらされているのに加えて、義体に使われているバッテリーの状態が悪く、なかなかチャージが進まない。金星にいた頃のマデラだったら向神経ソフトのオーシャンブリーズあたりでリラックスしていただろうが、このポンコツケースのスペックでは、完全に呆けてしまう。そんな無防備な状態を公道で晒すわけにはいかなかった。
 ザイオンとその連れがホテルに入って十分ほどしたところで、連れのラスターが一人で出てきた。通りをマデラの方に向かって歩いてくる。
 ラスターは火星では安い義体だが、マデラは自分の義体が、よりみすぼらしいことを強く意識していた。つぎはぎの中古のケース。強烈な羞恥心と、こんな義体に覚醒させたミューラーへの怒り。
 その時、マデラはラスターの視線を感じた。それは侮蔑の視線だ。
「……ターゲットは部屋に入ったわ。しばらく動きはないはずよ」
 ミューラーの連絡に、マデラは言葉を返さない。バッテリーのチャージにも、まだしばらく時間がかかりそうだった。

 フェデリアーノが手配したノクティスへの移動手段は、小型の高速飛行船だった。
「短い空の旅だが、楽しめるぞ」
 フェデリアーノがそう言ったのには理由がある。オリンポス郊外 の専用ポートを離陸した飛行船は、巨大なオリンポス山の山体を半周し、東南東に進んでタルシス三山のアスクレウス山とパヴォニス山の間を通って、ノクティスへと抜けるルートを飛行している。飛行時間は四時間を超え、オリンポスの中心部から、郊外にある専用ポートまではオートカートでおよそ二時間かかる。交通手段としての利便性の面ではリニアに太刀打ちできるようなものではなかったが、それでも路線を維持できているのは、観光面での価値があるからということだった。
「確かに、滅多にできる経験ではなさそうだ。いい選択だな」
 ザイオンは鷹揚に応じた。この飛行船を選んだフェデリアーノの選択は正しい。オリンポスとノクティスを結ぶ交通の大動脈はリニアで、代替手段としては二つの都市のメイン空港を結ぶ空路もある。一方で、小規模な専用ポートを結ぶ高速飛行船は、都市間交通の手段として認識されていないのだろう。
「席が空いていてよかったよ」
 冗談めかしてフェデリアーノが言った。専用ポートの係留塔最上部に作られた搭乗デッキには、ザイオン達のほかに六人と五人の二つのグループがいるだけだったが、そもそも高速飛行船の定員自体が十六人と少なかった。
「そろそろ搭乗か」
 ザイオンの言葉と同時にアナウンスが流れ、搭乗が始まった。飛行船の下部にあるゴンドラと係留塔の間はブリッジで繋がれている。ザイオンは眼球を動かして、改めて搭乗デッキの周囲を確認した。
 ホテルを出た時、みすぼらしいケースが見ていたものの、カラスはいなかった。オートカートを乗り換え、専用ポートに到着したのは、フェデリアーノから聞いていた出発予定時間の直前。他の乗客はザイオンより前に来ていたし、後から来た乗客もいなかった。まず、尾行の心配はなかった。
 ザイオンは、シートに身体を固定する。とりあえず、ノクティスに到着するまでは、安心していられるだろう。
 飛行船は四基の補助ローターを唸らせながら係留塔を離れた。宇宙へと延びる軌道エレベータを右手に見ながら、オリンポス山の周囲を回っていく。
 むき出しの岩肌を眺めながら、ザイオンはこんなところですらテラフォーミングの恩恵が及んでいることを考えていた。テラフォーミングが進む前、高度二万六千メートルを超えるオリンポス山の山頂は、火星の大気圏の外に到達しており、飛行船が飛べるような条件は整っていなかった。
「気が付いたようだな」
 唐突にフェデリアーノが言う。
「何がだ?」
 フェデリアーノが何を言いたいのか、ザイオンには想像できない。
「こんな高度の高いところですら飛行船が飛べる。つまり、大気の濃度が高くなっているんだ。温暖化の進捗も良好で、火星はどんどん住みやすくなってる。ノクティスに行けばわかるが、マリネリス一帯は、広大な緑地になってるよ」
 軌道エレベータで降りてくる間にも、風景の変化には気が付いていた。火星を象徴する赤い大地を、テラフォーミングで作られた緑が浸食している。
「いいことじゃないか」
 地球を失った今、火星こそが新たな人類の故郷となるべき星だった。太陽系中に人類が広がっても、やはり故郷の記憶は消えない。
 緑の大地と青い空、青い海。いずれ、火星はそうなっていく。
「ああ、いいことだ。だがな、この俺の義体はどうなる?」
 フェデリアーノはラスターだった。ラスターは、テラフォーミングが進む前の火星の気候を前提にデザインされている。
「そういうことだよ。つまり、この義体は時代遅れになっていく。役立たずになるんだよ」
 吐き捨てるようにフェデリアーノが言った。

 計画はミューラーの予定どおりに進んだ。マデラはともかく、あのインドラルというカラスは予想以上に効果的だったようで、インドラルが探しているという情報を流したとたんにザイオンが動いた。
 ザイオンが飛行船に乗ったことを確認し、ミューラーはマデラとインドラルをオリンポスから呼び戻した。さすがにカラスは警戒されるだろうから、飛行船の専用ポートには近づかないように指示してある。もっともインドラルは自由に空を飛べるノクティスの大ドームを気に入っているから、ドームの外にある専用ポートには近づかないだろう。テラフォーミングによって大気が増えているとはいえ、ドームの外の大気圧は、ドーム内の二割程度しかなく、翼で飛ぶには適していなかった。
 マデラは押し黙っていた。マデラの支援AIを通じて漏れ出してくるのは、相当に不機嫌な感情だ。確かに壊れる寸前の義体に押し込められるという状況は、マデラにとっては理不尽で、不愉快で、さらに言えば不快極まりないだろう。だが、忠誠心に欠け、しかも無能なエージェントにはふさわしい扱いだ。もし、マデラが有能だったなら、自分の置かれた状況を考えているだろうが、今のマデラが考えているのは状態のよくない内蔵バッテリーのことだけだ。
 ミューラーは、自分がわずかに緊張していることを自覚している。これから対面するのは、あの、ザイオン・バフェットなのだ。大破壊によって太陽系経済の表舞台から消えていたものの、投資金融の世界においては伝説的な人物の一人であり、現在のソラリスの基盤を築いた一人でもある。そのザイオン・バフェットが帰ってくる。
 ミューラーは飛行船専用ポートの係留塔にいた。最上部にある搭乗デッキの窓から、夕日に染まった北西の空を見ている。そこに見える小さな黒い点は、ザイオン達を乗せた高速飛行船だった。
「そろそろ来るわよ」
 ミューラーがマデラに声をかけた。その間にも黒い点は大きくなり、ローターが判別できるほどまで近づいている。
「あいつをどうするつもりなんだ?」
 唐突にマデラが言った。
「あなたは黙って見てなさい」
 カラスを連れてきているから、マデラが火星にいることはわかっているだろう。だが、目の前のポンコツケースがマデラだとは思うまい。
 計画は最終段階にあり、失敗は許されない。ザイオンとの対面に備えて、ミューラーは居住まいを正した。

* * *

 確かに俺は依頼人を裏切った。だけどな、私的連行許可は正式なものだったし、第一、あのタコだってアップリフトじゃなかった。研究段階の最新のオクトモーフだったんだろ?
 支払いは随分気前がよかったよ。新品のバウンサーに乗り換えても、まだ十分、お釣りが来たからな。結局、俺のラスターは一銭にもならなかった。市場では中古のラスターは余ってるし、しかも年季が入っていたから仕方ない。部品取り用にもならないから、きっと今頃は、土壌改良剤にでも加工されて、火星のテラフォーミングの役に立っているはずだ。それなりに愛着はあったが、古い義体なんてそんなものだよな。
 そうそう、あのときの話だ。確かにオリンポスからタルシス三山を巡る飛行船のルートはある。でも、ノクティスに降りるなんてルートは存在しないんだよ。もちろん、ノクティスにも飛行船を使ったサービスはあるが、それはもっぱらマリネリス渓谷を周遊するためのものだ。
 なぜかって? 飛行船は一定の高度を飛ぶ分には経済的だが、高度差は苦手なんだそうだ。実際、オリンポス周辺と、ノクティス周辺では十倍近い気圧差がある。そんなところを飛行船で行き来するなんてのは、経済的にはあり得ない。実際、ノクティスへの降下のために、かなりの量の水素を使ったはずだし、帰るためにはその水素の大部分を放出しなきゃならない。高度のコントロールが難しく、強力な補助ローターなしでは無理なルートだったんだよ。
 もちろん、存在しないルートに来る観光客はいない。だから一緒に飛行船に乗った乗客も、すべてがあんたの友人を捕まえるために雇われた連中さ。腕が八本あっても、さすがに十人以上を相手に大立ち回りはできないと思ったんだろう。おとなしくしてたよ。それに、あの女はそんなに暴力的には見えなかった。ただ、一緒にいたポンコツケースが喚きだしたときは違ったけどな。一発で頭を打ち抜いて見せたよ。それで抵抗するとまずい、ってことになったんだろう。まあ、今にして思えば、あのポンコツぶりは目の前で撃ってみせることに意味があったのかもしれないし、スタックの位置は外してたようだから、エゴは大丈夫だったろう。
 そうそう、あんたの友人のことはアクバルじゃなく「バフェット様」って呼んでた。慇懃で、有無を言わせない、かなり厭な感じの女だよ。
 あんたの友人は、マデラって奴のことを気にしてたけど、絶対にあの女じゃないな。マデラって野郎は、あんたの友人に言わせるとせこい悪党みたいだが、あの女は違う。実際、あんたの友人を捕まえるためだけに、飛行船の運航会社を買収したみたいだからな。よく考えられた計画だっと思うぜ。
 でも、あのオクトモーフにあれだけの金をかける価値があるのか?

 改めてフェデリアーノの証言を再生したカザロフは、大きく肩を落とした。人質の解放と身代金の回収を終わり、やっとドゥールスに行く準備が整ったというのに、火星に降りたザイオンからの連絡が途絶えたのだ。
 ザイオンが使っていたフェデリアーノという手配師は、古いラスターから、新品のバウンサーに義体を変えていた。もちろん、急に金回りがよくなったことには理由があり、それがザイオンとの連絡が取れなくなったことと無関係ではあり得ない。
 フェデリアーノは、火星を離れるためにトランジットステーションに来ていた。バウンサーは無重力空間向けの義体で、火星の外には条件の良い求人も多い。カザロフはフェデリアーノを見つけ出し、話を聞いた。若干暴力的だったことは否定しないが、非合法なことはしていない。
 カザロフには予定通りドゥールスに行くこともできるし、治安が悪化してるドゥールスの状況に備えてヨハンナの訓練もしなければならない。ただ、このままザイオンを放っておけるのか。
「いつまでグズグズ考え込んでるの?」
 手がかりはフェデリアーノの証言だけだ。それだけでザイオンを見つけだすことができるのか。
「やはりソラリスだよ。飛行船の運航会社はすぐに手放したようだが」
 レイモンド・ノアだった。ザイオンを見て、オクトモーフが気に入ったレイモンドは、今はタコになっている。実に紛らわしい。
「出発予定は四時間後よ。それまでに決めておいてね」
 カザロフは改めて肩を落とした。ザイオンを見捨てるという選択肢は、やはり、ない。
「ドゥールスには先に行ってくれ。あのタコを助けたらすぐに追いかける」
 カザロフはザイオンを追って、火星に降りることに決めた。




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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』