「ザイオン・イン・ザ・シャドウ(Part1)」伊野隆之

(PDFバージョン:zionshadow01_inotakayuki
 ノクティスの最高級ホテル、エクリプスグランデの最上階に、プライベートプール付きのインペリアルスイートがある。高さ二百メートルの空中に張り出したプールの底に張り付いたザイオンは、強化ガラス越しに、眼下に広がるノクティスの市街地を眺めていた。
 錆び付き、寂れたオリンポスとは対照的に、ノクティスには活気があった。緑地が計画的に整備された市街地では無数のオートカートが行き交い、その上空を小型のクワッドローターが飛んでいる。スカイウォークで連結された高層ビルは、今も建設が続いている。ザイオンの記憶にある以前のノクティスも小綺麗で活気のある都市だったが、この十年でさらに大きくなっていた。
 ここでの軟禁生活が始まって、すでに火星時間で三日が過ぎていた。最高級ホテルの特別なスイートだけあって、快適なことには間違いないが、公共メッシュからも遮断され、退屈なことこの上ない。ザイオンの身体能力からすれば、ホテルの五十七階分の外壁を伝って地上に降りることもできるが、これ見よがしの監視の目が光っている。気づかれずに地表に降りる可能性は皆無だろうし、降りたとしても、すぐに連れ戻されることになるだろう。


 ザイオンは、軟禁状態という現在の状況を、致命的な失敗だったとは思っていない。悔いがあるとしたら、対応に冷静さを欠き、信頼すべきではないフェデリアーノを信頼してしまったことだった。
 それもこれも、インドラルを見たことがきっかけになっていた。ザイオンの中で休止状態にある疑似人格のタージが影響を及ぼしているとは思えなかったが、あのカラスのせいで慌ててしまったのだ。
 ザイオンは、プールの中の浮力と重さが均衡した状態で、ソラリスで何が起きているのかを考えていた。今は軟禁状態だったが、別の角度から見れば、ソラリスと接触できているとも言える。ザイオンがザイオン自身を取り戻すためには、いずれにしてもソラリスとの接触が不可欠である以上、こうなるのは必然だったのかも知れない。
 問題は、これから先だった。ザイオンも、いつまでも軟禁されているつもりはない。
 やはり、ザイオン自身を巡って、ソラリスの内部で何かが起きているのだ。一番ありそうなのが、ザイオン自身の復権を認めるか、それとも認めないかという路線対立で、法的には復権を阻めないものの、ザイオン抜きで十年間やってきた現在のソラリスの中枢からすれば、のこのこと現れたザイオンはいい迷惑だろう。
 一方で、現状の体制に不満があるグループがあるとすれば、ザイオンの復活を機に体制の変革を図ろうとすることもあり得る。
 あるいはソラリス内部で派閥争いがあり、ザイオン自身が均衡を破るためのカードとして見なされているのかも知れない。だとしたら、有効に使えるタイミングまでの間、軟禁生活が続くことになる。
 いずれにしてもザイオン本人の意向とは関係ない理由で中途半端な状況に置かれており、快適な環境にあってもフラストレーションが溜まっていく。ザイオンは、一刻も早く状況を変えたかった。
 この状況を変えるにはソラリスに揺さぶりをかけるよりないのだが、現在の上級パートナーの構成すらわかっていない状況では、どう動いて良いかもわからない。ザイオンにできるのは待つことだけだった。
「少々お時間をいただいてよろしいでしょうか?」
 いつものように灰色のボディスーツを身にまとったミューラー・セドス監督官が、何の遠慮や警戒も見せずに、プールサイドにやってくる。スイートの中にも監視の目があり、ミューラーはザイオンが何をしているか、常に把握している。
「ちょうど良かった。このプールはすばらしいが、そろそろ飽きてきたところでね」
 ザイオンの皮肉に、ミューラーは全く動じる様子を見せない。
「ここは、現在、提供可能な最高の施設です。これ以上は期待しないでください」
 ミューラーの素っ気ない回答に、ザイオンは盛大に水を跳ね上げて、プールの底へと沈んだ。
「お時間をいただいてよろしいでしょうか?」
 水中スピーカーの音が追いかける。
「私がいつだって暇なのはわかってるんじゃないのか?」
 水面から顔を出すと、頭から水をかぶったミューラーがいる。怒りを押し殺したような表情に、ザイオンはちょっとした喜びを感じる。揺さぶりをかけるとは、こういうことから始まる。
「二十分後にまた来ます。プールから上がって、それからそのタコ臭いぬめりをとって、外出の準備をしてください」
 そういい捨てて背中を向けたミューラーに、ザイオンは思い切り水を浴びせる。振り返った瞬間に見せる表情は、はっきりとした怒りだった。
「……三十分後にします」
 ミューラーの見せた自制心に、ザイオンは少しだけ感心する。マデラなら前後の見境なく喚き散らしているだろう。ザイオンは飛行船の専用ポートでミューラーに撃たれたスクラップ同様のケースを思い出す。あのケースは、確かにマデラだった。
「ところで、ドレスコードはカジュアルで良いかな?」
 ザイオンの問いに、ミューラーは答えない。もっとも、ザイオンは所詮タコであり、タコのドレスコードには、フォーマルもカジュアルもなかった。
 ミューラーが部屋を出たところでプールを出たザイオンは、エアシャワーで全身を乾かした。ミューラーの言っていたタコ臭いぬめりというのは、タコのアップリフトに対する悪意ある偏見でしかなく、緊急時に出る粘液も、そんなに匂いの強いものではない。いずれにせよプールでリラックスしていたザイオンの義体から粘液は出ておらず、エアシャワーでさっぱりしたザイオンは、ゆったりとしたローブを身にまとった。
 タコの義体は自由度が高く、触腕をより合わせて使うことで、二足歩行のように歩くこともできた。だが、金星からの長旅で無重力状態に体が慣れた上に、毎日のプール三昧で、今更窮屈な思いをしたくなかった。
 大きな姿見の前でザイオンはしばし考える。以前のザイオン・バフェットはどんな印象を与えるかを常に計算していた。自分らしくではなく、自分をどう見せるのか効果的かを常に考えていた。ただ、そのためには状況把握が必要だったが、今日のところはこれから何があるのかもわからない。それに、所詮タコはタコなのだ。着るものにこだわっても仕方がない。
「お待たせをしました」
 無遠慮にミューラーが部屋に入ってくる。濡れて乱れていたはずの青い髪もきっちりと整えられ、その姿には一分の隙もない。
「時間通りだよ」
 正確には二分ほど早いが、ザイオンは鷹揚に答える。どうせザイオンの状況を逐一確認してから来たのに違いなかった。
「すいませんが、これを身に付けていただけませんか?」
 ミューラーが差し出したのは腕輪のような物だった。ザイオンは、その腕輪を胡散臭そうに見てから、吸盤のある触腕で受け取った。
「アクセサリーにしては、少し無骨に見えるが。これは何なんだ?」
 ミューラーから渡されたそれは、見た目どおりに重い。金属の内部には、何かの装置が入っているのだろうか。
「ある種の保安装置です。危険なものではありません」
 ザイオンは、二本の触腕で渡されたものを弄ぶ。どういう機能があるのか、見ただけでは推し量りようがない。
「仮のIDにしてはずいぶん重たいな」
 ずっしりした腕輪がIDのはずがなかった。何らかの追跡装置か、それともザイオンをモニターするものか。身に付けるべきかどうか迷っているザイオンをミューラーは冷ややかに見つめている。
「すぐに慣れると思います」
 迷っていても仕方がなかった。身に付けるのを拒否すれば、また、退屈な軟禁状態が続くだけだ。ザイオンは、触腕の一つを腕輪に通す。
「もう少し上まで通していただけませんか?」
 さらに先まで触腕を入れる。ちょうど、長い触腕の付け根から四分の一のあたりだ。
「ありがとうございます」
 そう言ったミューラーの顔に見下したような表情が浮かんだ。いつの間にか、その手には……。
「それは……」
 ミューラーが手にした物のスイッチを押すと、ザイオンの意識がブラックアウトした。 

 ノクティスの西のはずれ、都市全体を覆うドームの縁に、広大な未開発地区が広がっていた。区画整理され、工業用地として売り出される予定が、緑地の割合を巡って市当局と開発業者の間で訴訟になっている土地である。資材の一時置き場や大型の工事車両の収納庫が並ぶ中に、今は無人となった作業員用の施設があった。


 がらんとした部屋には金属パイプを組み合わせて作った四角いフレームが置かれており、そのフレームの中央にロールシャッハテストのシミのような真っ黒な何かが縛り付けられている。
「ごきげんよう。気が付いたようで何よりだ」
 フレームの前にはシンプルなスツールがあり、そこに腰掛けているケースが声をかけた。
「このオレ様に何をしたァッ!」
 漆黒のネオ・エイヴィアン、知性化されたカラスが叫んだ。
「簡単に捕まってくれて良かったよ。ショックが強すぎて、心臓が止まったりしないか心配だったがな。それに、大した傷にもなってないようだ」
 ケースは壁に立てかけた銃を指し示す。
「オレを撃ったのカァ!」
 カラスは耳障りな声で叫んだ。だが、ケースは動じない。音声入力の自動調整機能が不愉快な声も聞きやすく変換してくれている。
「ショック弾だよ。当たりどころが悪くても、せいぜい骨が折れる程度だ。それよりは地上に落ちたとき衝撃の方が問題だが。まあ、火星の重力のおかげかも知れないが、無事で良かった。それより、ちょっと話を聞かせてくれないか、インドラル?」
 ケースはカラスに向かって、身を乗り出した。
「オレを知ってるのカァ?」
 知性化されたとはいえ、ネオ・エイヴィアンの能力には限界がある。小首を傾げた様子にケースは肩を落としてみせる。
「俺たちには共通の知り合いがいる。一人はマデラっていういけ好かない野郎で、もう一人はおまえが付きまとっていたタコだ」
 カラスの黄色い瞳の中で理解の光が宿ったかに見えた。
「お前ッ、使えないケースだッ!」
 そう叫んだインドラルの顔に向けて、ケースの平手が一閃する。金属の手の平とカラスの嘴が衝突する鋭い音が響いた。
「何をするんダッ!」
 嘴から泡を飛ばしてカラスが叫ぶ。
「俺が使えないなら、その俺に捕まったカラスはもっと使えないんじゃないのカッ!」
 インドラルの話し方をまねて、ケースが言った。ドゥールス行きを取りやめ、火星へと降りてきたカザロフだった。
「ボスがおまえのことを使えないって言ってたゾッ……」
 語尾に力がないのは、カザロフに反論するロジックがないからか。
「で、そのボスはどうしてる?」
 カザロフに問われ、カラスは力なく首を横に振る。
「お前のボスは火星に来ていないのか?」
 マデラも火星に来ていたに違いない。でも、フェデリアーノの証言では、マデラの動静ははっきりしなかった。
「ポンコツケース、ボスはおまえみたいなポンコツケースになって……」
 外見はともかく、機能的には徹底的にチューンアップした義体をポンコツ呼ばわれしたくなかったが、マデラがケースになったというインドラルの話にカザロフは肩を上下に細かく揺すった。笑う機能のない義体にとって、一番笑いに近い表現だ。
「そうか、ポンコツケースか」
 マデラのことから始めたのが良かったのだろう。それからインドラルはいつもの饒舌さを取り戻し、火星に来てからのことをカアカアと話し始める。
 思いがけなく火星で覚醒したこと。マデラがヒト型の生体義体ではなく、程度の良くないケースで目覚めていたこと。そのマデラとともにリニアモーターカーでノクティスからオリンポスに向かったこと。
 金星しか知らないインドラルにとって、車窓から見た火星の光景は印象的だったらしく、テラフォーミングの進展によって緑化の進むノクティス周辺のことを事細かく話す様子にカザロフは驚いた。知性化されているとはいえ、限界はあるはずなのに、観察は詳細で、説明の内容も的確だった。うるさいだけが取り柄だと思っていたが、マデラがなぜインドラルを使っていたかわかったような気がした。
「それで、ノクティスでは何をした?」
 カザロフに促され、インドラルは説明を続ける。軌道エレベータの基部に行き、そこから降りてくる乗降客の数に驚いたこと。インドラルだけでオリンポスを回り、ザイオンの手配状のようなものを持って、いろいろと聞いて回ったこと。その手配状は、フェデリアーノの言った私的連行の許可だろう。
 カザロフは、ザイオンを捕らえた相手の巧妙さを感じていた。
 火星にネオ・エイヴィアンはほとんどいない。オリンポスにいたってはほぼ皆無だ。都市全体を天蓋のように覆うドームがなく、小さなドームをネットワーク状に繋げた構造では、飛行能力というネオ・エイヴィアンの能力を使う余地がない。そんな中でカラスのインドラルがいろんなところをつついて回ればかなり目立つことになったろう。しかも、インドラルが動いているとなれば、ザイオンは、その背後にマデラがいると考えるに違いない。よけいなトラブルを避けたいという思いと、マデラに対する低い評価がザイオンの警戒心を鈍らせたに違いなかった。
 インドラルは、指示はすべてマデラからだと言った。だが、実際のところはマデラは単なる伝達手段でしかなく、背後には別の存在がいる。マデラを経由してインドラルを使い、ザイオンに圧力をかける一方で、フェデリアーノを使って誘導した。そのやり方は巧妙で、どちらかと言えばマデラをハメた時のザイオンのやり方を思わせる。 
「で、そのタコは見つかったのか?」
 インドラルはザイオンを知らない。インドラルの前ではザイオンはいつも臆病者のタージだったし、オリンポスで探していたのは、ザイオンのもう一つの仮面であるアップリフトの鉱山主、アクバルだった。
「それが、残念ッス。あのタコ野郎は、うまいことノクティスに行っちまったようで」
 インドラルはザイオンをハメた飛行船の罠のことを知らなかった。もしかするとマデラも知らされていなかったかも知れない。ノクティスへと戻るリニアモーターカーの中で、マデラはザイオンがノクティスに向かったこと以外、何もインドラルに言わなかったらしい。
「ボスは不機嫌でしたッス。ボスはボスのボスに頭が上がんなかったんで」
 フェデリアーノが言っていた女だ。ザイオンを罠にかけた女。多分、ソラリスの中ではマデラより地位が高い。
「それで、ボスのボスってのは?」
 カザロフの問いにインドラルは小首を傾げた。
「ボスの、ボスなんじゃないッスカァ?」
 インドラルは何も知らないし、知らされていない。どうせ切り捨てるのなら、知らせる必要もないと言うことだろう。
「そうか。それでおまえのボスは今何をしてる?」
 カザロフの言葉に、インドラルはうなだれる。
「……クビみたい、ッス。急にいなくなっちまって……」
 予想通りだった。フェデリアーノが言っていた撃たれたポンコツケースがマデラだったのだろうし、ザイオンの身柄さえ確保してしまえば、マデラ自身には用がない。その女がマデラのエゴを記録したスタックをどうしたかわからないが、ポンコツのケースはスクラップ行きだろう。フェデリアーノやインドラルの話では相当に状態の悪いケースだったらしい。
「まあ、そうだろうな。おまえはどう思ってたか知らないが、マデラは相当に間が抜けてる。ボスから見れば使えないってことだ」
 何となく、マデラがポンコツのケースに覚醒させられた理由がわかった気がした。
「使えないッスカァ……」
 インドラルが、さらに落胆した様子を見せる。上司としては、それほど立派な上司ではなかったろうに、カラスにはそれなりに忠誠心もあるようだ。
「ああ、使えない。だからポンコツのケースをあてがったんだろうよ」
 マデラ自身に評価の低さを伝えるための意思表示だったのだろう。まともな義体をあてがう価値もないと言うことだ。それでいえば、マデラのボスはインドラルを評価していたことになる。
「じゃあ、ダンナも使えないんですカァ?」
 言いづらそうに、インドラルが言った言葉は、カザロフの神経を逆なでする。
「このどこがポンコツだ?」
 ケースはベーシックな合成義体で、コストを押さえることを優先しながらも、基礎的な機能は満たしている。ベーシックだからこその拡張性と、追加できるオプションの多様性があり、アップグレードの余地が大きい。カザロフはかなりのコストをかけて自分の義体をアップグレードしていた。それに加えて、ケースの外見は見る者に警戒をさせない。それがカザロフがケースを選んだ理由だった。
「……ケースってのは、みんなポ、ポンコツなんじゃァ……?」
 インドラルの言葉にカザロフは脱力した。インドラルはポンコツの意味が分かってない。どうせ、マデラが毎日のようにポンコツケースと言っていたのを覚えたのだろう。つまり、鳥頭のインドラルの認識においては、ケースはすなわちポンコツなのだ。
「おまえの頭がポンコツだ」
 インドラルがまた小首を傾げる。やはりポンコツの意味が分かっていない。

 比べられるものがあるとしたら、新しい義体での覚醒だったが、ザイオンは死んだつもりはない。インフォモーフになったとすればこんな感じなのかも知れないとも思うが、身体感覚がないわけではなかった。
 違和感がどこから来ているかはっきりしている。
体が違うのだ。手を見ると、五本の指があるヒトの手と、吸盤が並ぶタコの触腕が二重写しになっている。
『リラックスして、新しい身体を受け入れてください』
 誰の声だろう。聞き覚えのない声だった。その声で、オクトモーフの触腕が消えていく。
 ……私の身体は、オクトモーフだ。
 機能を強化されたタコの身体。今度は、ヒトの手が薄れ、触腕がはっきりしてくる。
『緊張は不要です。ヒトの体を受け入れてください。それが本来のあなたです』
 ミューラーの声とは違う中性的な声だった。耳で聞く感じではなく、声が頭の中で作られているように感じた。
『あなたは今、特別に用意された仮想的な義体に覚醒しています。身体イメージの一時的な変更は、現実には影響を及ぼしません』
 そういうことなのだ。オクトモーフの義体で接続された仮想空間で、ヒトの義体に覚醒している。一方で、ザイオンの脳は、オクトモーフの身体を記憶しており、二つの自己イメージが競合している。
 ……おまえは、誰なんだ?
 ザイオンの問いかけに応答はない。
『リラックスしてください。あなたはヒトの体だった頃のあなたです』
 またザイオンの身体が変わって行く。両手はヒトの手になっているし、手に変わっていなかった残り六本の触腕は、三本ずつより合わされて足になる。
 ザイオンは立っている。
 どこか、見覚えのある風景の中。
 風が吹き、背の高いビャクシンの木が揺れる。
 地球の風景。オレゴン州ユージーン。長い間、思い出したことのないザイオンの故郷。
 多分、ハイスクールの頃の記憶だ。振り向けば見慣れた校舎がある。学生たちがザイオンの前を通り過ぎるが、誰一人として焦点が合わない。滲んだ影が歩いているようだった。
 そう、これはあの日のこと。数学の試験があり、手を抜かなければいけないところで思わずいい成績を取ってしまった。
 ザイオンの困惑に気づかずに賞賛した教師はザイオンに注がれる怨嗟の視線に気づかない。
 彼の名前が思い出せない。数学が得意だったことを知っている。来年の奨学金を確定させていたザイオンとは違い、彼はボーダーラインにいた。つまり、彼の来年の奨学金は、数学の成績次第。そのことをザイオンも知っていた。
 提示された問題はザイオンへの挑戦だった。困難に見えても、そこには美しくてエレガントな解法がある。登攀不可能な壁に見えても、頂上に至るルートは見えていた。最初の手がかりを見つけたら、登り切らずにおけないのがザイオンだった。
 評価は相対評価で、トップに与えられる加点は、二位の者には与えられない。自分が友人から何を奪ったかに気が付いたのは、教師の大げさな賞賛の言葉を聞いている時だった。無骨に煉瓦を積み上げるような標準的な解法とは違い、ザイオンの解は残酷なくらいエレガントだった。
 ザイオンは、また、九月の新学期の校庭に立っていた。同じように風が吹き、同じように背の高いビャクシンの木を揺らす新学期に、奨学金に手が届かなかった友人はいない。そう思った瞬間に、細かい霧のような雨が降り、ザイオンの頬を濡らす。
 肩を落とし、頭を垂れるザイオン。洗ったばかりの白いスニーカーのつま先に、いつの間にか土が付いている。
 腰を折り、土を払い落とそうと伸ばした手には、吸盤がある。
『リラックスしてください。細かいことは気にしないで、あるがままを受け入れてください』
 土を払う。白いスニーカーではなく、磨き込まれた茶色のビジネスシューズ。風に揺れる木々ではなく、行き交う人々のざわめき。細かい雨ではなく、人いきれ。
 妙に湿度の高かった夏。フィラデルフィアのオフィスに戻ってネクタイを外す。物理的なディスプレイを持っていたかつてのパソコンが立ち上がるまでの間に、苦いだけのぬるいコーヒーを飲む。パーティションの向こうでは神経質そうにキーボードを叩く音。先週までいた髪の薄い中年男の独り言よりはましなものの、マシンガンの音のように気に障る。
 パーティションの上からのぞき込むともしゃもしゃの赤毛が見えた。そういえば、薄毛の男はどこに行ったのか。ザイオンは、ここに来て丸一年の間、隣人の頭頂部しか見ていなかったことを意識している。少しの投資で簡単に修正できる髪の毛の状態を放置していた男はどこへ行ったのか。昇進か、左遷か、転職か、解雇か。いずれであってもおかしくないが、ザイオンにはさほど関心がない。競争は苛烈で、苛烈な競争こそが自然だった。
 ザイオンもまた、居場所を変えていく。パーティションで区切られたデスクは個室になり、生ぬるかったカップコーヒーはマシンで入れたエスプレッソに変わる。変わらないのは数字を見るという仕事で、机に並べたディスプレイには財務諸表と、業績予測の数字が並ぶ。凡庸なアナリストの空想物語は目を通すに値しない。遠くで起きた紛争が株価を押し上げ、政治家の発言が水をかける。預かり資産残高と利益率が配当水準と昇進を決める。高リスク商品の組み込み比率を高め、利益を絞り出す。若かった頃のザイオンはファンドのストラテジストとして頭角を現し、青天井の業績連動報酬が個人資産を膨らませた。さらなるステップアップの頃合いだった。
 ディメル・マディソンアソシエイツ。オフィスはヒューストンの目抜き通り。ザイオンの名前こそ表にないものの、実質的にはザイオンが取り仕切っていた。赤字企業を買い叩き、事業を分割して売り抜ける。不効率な企業を淘汰し、利益は投資家に。経済の新陳代謝を促し、効率化する。ハゲタカの呼称は勲章だった。
 ザイオンは有望な投資家を買収した事業所に案内する。設備投資と合理化、事業再生計画。不採算部門を整理し、競争力のある分野に重点投資する。事業のためのリソースの再配分では、一部の従業員を解雇せざるを得ない。工場の前に座り込む、解雇された労働者たちが、どんよりした目でザイオンを見る。
 クリーニングしたてのスーツに汚い手が伸びてくる。伸ばされた手は骨と皮ばかりで、やせ細っている。その手をはねのけるのは、吸盤の付いたザイオンの手。
『……ストレス負荷が上昇しています。同期が安定していません』
 ザイオンに語りかけているわけではなかった。
『あなたには、何の問題もありません。落ち着いてください』
 伸ばされた手をはねのける。驚いた顔をする息子のオジマン。その横で非難がましい視線を向けてくるのは、妻のジェレミーだ。オジマンの手にはアストロズのバックネット裏のチケット。ザイオンが連れて行く約束だった。だが、ザイオンには急用がある。
 ヒューストン郊外のゲイテッドコミュニティにある家の前には会社の車が待っている。ザイオンが行かなければ顧客は納得しないし、ザイオンが行かなければ事態を解決できない。損失が膨らみ、被害が大きくなる。ファンドの評判に致命的な傷が付く。
 ジェレミーがまくし立てる。あなたはいつもそうなの。自分のことが優先でオジマンのことを任せきりにする。あなたは自分を変えられないの。あなたは、あなたは、あなたは……。
 だけど、ザイオンにはどうしようもない。これはすべてが遠い過去のことで、今はジェレミーもオジマンもいない。会社の弁護士が訴訟を処理し、ジェレミーとオジマンとの関係は、毎月の口座引き落としだけになる。
 それでもザイオンは前に進むことをやめない。ザイオンは、ザイオンは……。
『……まだスタックのない地球時代なの?』
 そう。ザイオンは事業を拡大し、最新のテクノロジーによって、自分自身をアップグレードする最初の世代になる。大脳皮質にスタックを埋め込み、自分自身をバックアップする。遺伝子を切り張りし、病気のリスクを切り捨てる。知的能力を引き上げ、最新鋭の支援AIを導入する。それもまた、常に最前線に立ち続けているためだ。研究段階の新しい機能を付加し、強化し、改変し、タコになる……。
『……同期が不安定化しています』
 地球では環境災害が頻発し、暴動が起こり、軍が鎮圧に乗り出す。自動化兵器が民間人を殺戮し、政権が崩壊する。ジェレミーとオジマンは、内戦の起こったジェレミーの祖国に取り残され、ザイオンにはどうしようもない。内戦を止めるすべはないし、二人を救出に行く時間もない。株価は乱高下し、火星の事業の立ち上げを成功させねばならず、ザイオンには余計なことにかまけている時間はない。アストロズのバックネット裏のチケットは、オジマンの手の中で燃え上り、オジマンとジェレミーを包み込む……。
『……これ以上は危険です。これ以上は……』 
 遠くで声が飛び交う。何が危険なのかザイオンにはわからない。周囲がざわつく。
『……心臓マッサージを!』
『……これのどこに心臓があるの?』
 何が起きているかを聴こうと思って声を上げようとするが、ザイオンには喉も口も何もない。周囲に見えるのは滲んだ人影だけだった。

 火星に降りて、最初にインドラルを尋問できたのは幸先が良かった。フェデリアーノの証言の裏をとる形でザイオンに何があったのかを確認したカザロフは、ノクティスにおけるソラリスの拠点を調べていた。
 ノクティスにはソラリスの関連企業が集積している。投資会社を筆頭に、ノクティスの主要産業であるデザイン・ファッション産業をはじめ、バイオテック、モーフデザイン、不動産事業、鉱山開発と言った多くの事業体を、直接間接に所有し、融資先は市当局にまで及んでいる。そのネットワークのどこかに、ザイオンが囚われている。
 ザイオンを捕らえるために使われた飛行船の運営会社を所有していたのはローカルの観光業者で、その観光業者を所有しているのはソラリス系の不動産開発業者だった。開発業者の入っているビルはソラリス系の不動産投資会社が所有する、その名もソラリスタワーだ。中核企業であるソラリスコーポレーションを含むソラリス系企業の多くが入居しており、ノクティスにおけるソラリスの拠点になっていた。
 旧式の業務用搬送車を借り出したカザロフは、配送を装って地下駐車場に来ていた。インドラルが言うマデラのボスが地下駐車場を使うとは思わなかったが、カザロフの狙いは別のところにある。
 車を止めて三十分。カザロフが待っていた再生資源回収車が、地下駐車場に入ってくる。半月に一度の資源回収だった。
「あれがどこに行くか調べられるか?」
 薄暗い地下駐車場の奥には、出入りの業者が使う搬入口があり、カザロフと同じケースの作業員が、大型のゴミ箱ごと、再資源化ゴミを搬出しようとしていた。ノクティスには再資源化工場がいくつもあり、ビルごとに契約相手が異なっている。
「ヘィ、ばっちりでッ」
 カザロフはインドラルを連れて来ていた。インドラルのボスであるマデラがソラリスを解雇された以上、インドラルとソラリスの間に雇用関係はない。しかも、現時点でマデラは所在不明であり、インドラルは失業状態にあった。
「あれを尾行して、どこに行くか突き止めてくれ」
 もちろん、最初からインドラルを雇うつもりがあったわけではない。解放したインドラルが、カザロフにつきまとい、離れようとしなかったというだけだ。変に付きまとわれるよりは、命令ができる関係を作っておいた方がいいという判断だった。
「ヘィ、ガッテンでッ」
 搬送車を出たインドラルは、漆黒の翼を羽ばたいて、駐車場の中を低く飛ぶ。そんな様子を見ると、このノクティスなら、空を飛べるカラスの義体も悪くないと思うのだった。
 カザロフ自身が車を使って尾行しても良かった。ただ、車で尾行すると、途中で別の場所に立ち寄られた場合に対処に困ってしまう。怪しまれるのは目に見えていたし、トラブルになる可能性もあった。一方で、インドラルなら、上空を飛んでいれば、まず、気づかれることはない。地上を走る車が上空を気にする理由はない。
 カザロフはマデラが使っていた義体を探していた。もちろん、マデラのボスはマデラのエゴを記録したスタックを抜いているはずだから、義体を見つけたからといってマデラを尋問できるわけではない。だが、スタックを抜かれたケースには、別の価値があった。
 義体の処分法としては、中古の義体としてディーラーに引き取らせるのが普通だった。ノクティスにある中古の義体のディーラーはさほど多くなく、ケースの出物があったら連絡が入るようになっているが、今のところは上質な中古品ばかりで、マデラが使っていたと思われるような物はなかった。
 使われない義体をジャンクとして売り払う手もある。パーツ取り用のジャンクには、実際、根強い需要があったが、カザロフが調べた限りでは、マデラの義体らしいケースはジャンクショップにも出回っていなかった。
 ジャンクにもならないような機械の義体は、金属資源として回収される。他の金属を含んだ廃棄物とともに、巨大なシュレッダーで破砕され、素材ごとに分けられて、工業原料になる。
 それが、マデラの義体の運命だった。 
 インドラルから連絡があったのは、尾行を始めてから一時間ほど過ぎた頃だった。資源回収車が向かったのは街の西にある再資源化工場で、カザロフがインドラルを尋問した開発地区に隣接している。
「そこでちゃんと見張ってろよ。再資源化工場に喰われたら元も子もない」
 カザロフが意図したのは、回収された金属資源が再資源化工場で使われないようにということだったのだが……。
「エッ、オレが喰われるッスカ?」
 カザロフは言葉を失う。どうしたらそんな誤解ができるのか。
「おまえじゃなくて、回収した金属資源の方だ」
「スクラップは喰えないッス……」
 カザロフは、説明をあきらめた。
「わかった、すぐ行くから、ちゃんと見張ってろ」
「ヘィ、了解ッス!」
 目的地には十五分で着いた。
 再資源化工場の荷受け場には、いくつもの金属ゴミの山があり、その山の一つにインドラルが留まっている。
「その山か?」
 カザロフの言葉に、インドラルが頷いた。
「ヘィ。確かに、ここですッ」
 いつの間にかカザロフとインドラルを取り巻くように工場の作業員が集まってきていた。六人のうち、ラスターが一人で、あとはみすぼらしいケースだった。
「そこで何をやってんだ?」
 金属ゴミの山の中腹まで登ったカザロフに、リーダーらしいケースが声を上げる。
「すいません、間違って回収に出しちゃったみたいでして。ちょっとこの山を確認させてもらえるとありがたいんですが」
 カザロフはインドラルが踏みつけにしている物を見ていた。ケースの手だ。
「勝手なことをされると困るんだがな」
 作業員たちは、それぞれ手に道具を持っていた。武器ではなく、熊手や箒、モップ。
「お礼はさせていただきますよ」
 じりじりとインドラルに近づくカザロフだった。
「それは、もう引き取り済みの物だ。持って行くとしたらそれなりの対価を払ってもらうぞ」
 リーダーらしきケースが言った。
「それはもちろん」
 カザロフは、インドラルの足下に見えていた手を掴み、隠れていた物を引っ張り出す。
「インドラル、これか?」
 いかにもちぐはぐなケースだった。何種類もの型番の異なるモデルから取ったパーツを組み合わせて組立てたように見える。
「ヘィ! ボスれす……」
 カザロフは、マデラの物だった義体を脇に抱え、首を無造作にねじ切った。
「このボディは置いていきます」
 首のないボディをリーダーの足下に放り投げるカザロフ。強化されたパワーを見せつけている。
「……わ、わかった。勝手に持って行け」
 作業員たちは、ゴミの山を下りてきたカザロフに道を開ける。
「ボス、すごいっすネェ」
 カザロフの横をよたよたと歩きながら、インドラルが言った。



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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』