「映画『太陽の塔』をみる」関 竜司

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 2020年3月14日に岡山県西川アイプラザで行われた芸術祭《ニシガワ図鑑》で映画『太陽の塔』(2018)の上映会が行われた。筆者は他の舞台を見たついでに鑑賞したのだが、日本の近代・現代SFを考えるうえでも重要な映画だったと思うので思ったことを一筆メモしておきたい。
 映画『太陽の塔』は岡本太郎とかかわった、あるいは係わりのある人物のインタビューで構成されている。その情報密度はかなりのもので頭が痛くなるほどだが、結論から言えば岡本に最も影響を与えたのはジョルジュ・バタイユだということだ。バタイユは人間は近代人が考えるような合理的存在ではなく非合理なもの――消費、祝祭、賭け、暴力、戦争、美――の魅惑に常に引きずられる者だと主張する(低次唯物論)。岡本もしばしばピカソ・縄文・シュルレアリスムの文脈で語られがちだが、それらの関心もつまるところフランスで行動をともにしたバタイユの低次唯物論から来ているとされる。岡本がマルセル・モースのもとで民族学を学び、太陽の塔の地下に粘菌の世界(命を作る物質の世界)を展開したのもバタイユの影響なのだ。現代の唯物論・進化論を踏まえた新たな《生命の樹》(カバラの木)を作ろうとしたのが岡本太郎なのであり、それが《太陽の塔》(1970)なのだ。
 映画『太陽の塔』は現代美術・アート批評の到達点であり最前線である映画だが、だからこそ小松左京に一切、言及がなかったのはつくづく残念に思う。大阪万博(1970)の企画の基本プランを描いたのは小松左京であり、小松への言及抜きに太陽の塔を語るのは無理だからだ。例えば太陽の塔は地下、地上、空中に分かれ、それぞれ生命の神秘、現代のエネルギー、分化と統合(組織と情報)のテーマに分かれている。このテーマ構成はエネルギーを最大限効率よく活用し、自らと同じ存在形態のものを自己増殖させることが発展だと考える小松左京の『未来の思想』(1967)の意図に明らかに沿ったものだ。
 映画の冒頭、アメリカ館とソ連館がどちらも宇宙開発競争をメインに据えていたことが述べられるが、これも米ソの対立もさることながら小松の強い要請によるものではなかったかと筆者は考える。というのも『未来の思想』の中で小松は、いずれ人間という有機的=知的生命体は、コンピュータという無機的=知的生命体に文明の座を譲り、コンピュータは自律的な機械を製作して宇宙船団を形成し、宇宙開発に乗り出すはずだという途方もない構想を打ち出しているからだ。はっきり言ってしまうと本編で語られた《太陽の塔》の構想の3分の2は小松左京が語っていることであり、小松の岡本への影響、《太陽の塔》への影響は想像以上に甚大だと思わざるを得なかった。
 最後に今日《太陽の塔》が語られる意義について述べておきたい。近年サブカルチャーの世界の中で「異形なもの」(網野善彦)に対する関心が高まっている。『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)、『ゴールデンカムイ』(野田サトル)、たつき監督の《ケムリクサ》・《けものフレンズ》など、主人公が異形なもの=意志を持たない・コントロールできないものに取り巻かれている作品が増えている。恐らく令和キッズにとって他者は一見、自分の意見を言っているように見えてその実、言わされている存在であり、人間というよりも無意志的な精霊・動物のように見えているのだろう。そうした他者感覚は、新しい人間の時代を作らねばという意志や決意のもと人間が人間を考えることができた1970年当時の状況とはかなり異なる(芥正彦)。《太陽の塔》も無意志的な生命、異形なトーテムとして21世紀の日本人に再発見されたのではなかろうか。
 AIが発達しAIが株価という社会の基本的価値を決める時代、映画《太陽の塔》は大衆の時代、大衆文化の挽歌のように筆者の目には映った。
(2020年3月22日)

(リンク)
映画『太陽の塔』ホームページ
映画『太陽の塔』予告編



関竜司プロフィール


関竜司 参加作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』