「懐かしい樹」飯野文彦

(PDFバージョン:natukasiiki_iinofumihiko
 久しぶりに小学校に来た。かれこれ三十年ぶりになる。わたしの通っていた小学校である。と同時に、幼い頃のわたしのいちばんの遊び場でもあった。わたしは幼い頃、この小学校の隣に住んでいたのだった。
 わたしが中学に進学する直前、祖母が病死した。その数日後、祖父も死んだ。夕暮れどきにふらふらと路上に飛び出し、走ってきたトラックに轢かれたのだった。
 それを機に、わたしの両親は郊外に家を建てて引っ越した。ここにあった家はずいぶんと古かったし、祖父母と両親と姉二人とわたしの七人で暮らすには狭すぎた。
 わたしの両親はそれ以前から引っ越ししようと計画していたのだけれど、年老いた祖父祖母を二人にするのもはばかられて、時期を延ばしていた。そんな事情があって、この場所を離れたため、長い間ご無沙汰しっぱなしだったのである。
 小学校に来たと云ったけれど、小学校だった場所といったほうが正解である。なぜならここにあった小学校つまりわたしの母校は、市内中心地にありながらも、人口の空洞化、ドーナッツ現象とやらで児童減少となり、五年ほど前に廃校になったからである。
 校舎を取り壊して、その後は市内から郊外に抜ける道路になるとの噂だった。が、小学校がなくなっただけで、辺りの住民たちの立ち退きはまだまだこれかららしく、開通どころか、工事に取りかかる気配すらなかった。
 いつも使っていた北側の裏門から、敷地内に入った。平日の昼下がりということもあって、人けはなかった。わたしが入学してすぐに建てられた新校舎が、そのまま放置されている。同時に建てられた体育館もそのままだ。もっとも新校舎という言い方自体、すでにまちがっているのだろう。
「校舎の老朽化も激しく、耐震強度も劣っていると見なされて……」
 地方のテレビで廃校を告げるをニュースを耳にしたときに、アナウンサーがそんな風に言っていた記憶がある。さらに思い出した。
「なお危険防止のために、校舎および体育館は、廃校後、すぐに取り壊されることになりました」
 そう言っていたはずである。それなのに五年あまり経っても、そのまま放置されている。市の財政もそうとう逼迫しているらしい。その影響はここにも出ているということか。
 校舎を見やりながら、無人の校庭に足を踏み入れた。かつてここでむじゃきに遊び、夢を持って勉強に励んだ。その片鱗でも記憶の表面に浮かび上がってくるかと思いながらであった。
 ところが何も浮かんでは来なかった。校舎も体育館も古び、辺りの民家もがらり様相を変えている。まったくはじめてくる場所を歩いているかのようだった。ここにやってくる途中、懐かしさを期待したときのほうが、まだ同級生の名前やら運動会での思い出やらがちらほらと浮かんできたものである。
 校庭に入って二、三分と経たないうちに、来たことを後悔していた。何を期待していたというのだ。ここに来れば、何が起こると思っていたのだ。結局わたしの人生など、昔からこのがらんとした校庭、否、空き地に象徴されていたのではないか。
 帰ろう、と思った。一刻もはやく立ち去るべきだ。わずかなりとも残っている過去の輝きが風化してしまう前に――。事実、引き返そうと、振り返ったのだった。勢いをつけすぎたせいか、それとも一陣の風に吹かれたせいだろうか。ふらっと立ち眩みに襲われ、向きをかえる途中で、あらぬ方向に視線を向けていた。
 刹那、ピンと脳内で弾けるものがあった。校庭の南東の隅にある一本の樹が、わたしの視界に映る。大きなポプラの樹だった。それまで空虚だった気持ちが、がらりと一変した。奥のほうから絞り出されるように、切なくも懐かしい想いがこみ上げ、レモンを囓った後のように顎の骨がキュンと痛くなった。
 両手で顎をさすっているうちに、積年溜まっていた垢がぼろぼろと剥がれ落ちる気持ちになった。これ幸いとばかりに、顎だけでなく頬や首筋、額や頭部までもさするというよりも、シャボンでもつけて洗っている有り様に見えただろう。
「ははは、妖彦、どうした。虱でも沸いたのか?」
 嗄れてはいるが温かさのこもった声が、わたしの気持ちを引きずりあげた。意識を視力に戻す。あのポプラの樹の下に、一人の老人が笑顔で腰を下ろしていた。
「おじいちゃん? ほんとうにおじいちゃんなの?」
 老人の顔がいっそう皺だらけになり、縦に動いた。
 わたしの祖父にまちがいなかった。そんな馬鹿な、と浮かんだ理性は、自ら地面に叩きつけ、粉々にたたき割っていた。にわかに信じがたいほど無心になって、おじいちゃんと声を上げ、全速力でポプラの樹に向かって走った。一歩一歩足を踏み出すたびに、歩幅が小さくなっていった。歩幅だけでなく、足も身体も縮んでいく。そのくせ鼓動と胸の高鳴りは弾みを増していた。
 ポプラの樹の下に着いたとき、わたしは幼い子供に帰っていた。どうして、なぜ? ぶるぶるっと濡れた子犬がそうするように首をふるって、水しぶきならぬ疑問を飛ばしていた。そんなことはどうでも良い。否、邪魔なだけだ。わたしが子供に返ったのだから、目の前に祖父がいてもちっともおかしくないではないか。
「おじいちゃん」
 弾む声で言った。祖父は笑顔でわたしを見上げながら、両手をさしだした。わたしが両手で握り返すと、やさしく引き寄せ、そのまま頭を撫でてくれた。
「妖彦、元気だったか?」
「うん。おじいちゃんは?」
「おじいちゃんだって、元気だったさ」
「元気だったって、何をしていたの?」
「ずっとここで妖彦が来るのを待ってたんだ」
「ぼくを待っていた?」
 わたしは自分のことを〈ぼく〉と呼んでいた。とうぜんだ。〈ぼく〉とも〈おれ〉とも気恥ずかしく、自分のことを〈わたし〉などと呼ぶようになったのは、三十代も半ばを過ぎてからのことである。
「ああ、そうだよ」
 祖父に頭を撫でながらも、わたしはしゅんとなってうつむいた。
「どうしたんだい、妖彦。何か、厭なことでもあったのか?」
 言葉が出なかった。厭なことばかりありすぎた。厭なことばかりだったと言っても良い。だが、祖父を目の前にすると、それらが別次元で起こった幻とさえ思える。
「そうじゃないんだ。ぼくがうつむいたのはね、おじいちゃんに悪いと思ったからなんだ」
 わたしは頭を上げて言った。
「わたしに悪いと思って?」
 祖父の言葉を聞いたとたん、ぽんと手を叩きたくなった。そうだ、祖父は自分のことを〈わたし〉と呼んでいた。わたしもきっと無意識のうちに、それを真似していたとわかったのである。
「ごめんね、おじいちゃん。まさかおじいちゃんが、ここで待っていてくれるなんて、思ってもいなかったんだ。だから……」
「謝ることなんかないだろう。こうやって会いに来てくれたじゃないか」
「でも、ずいぶんと長く待たせて……」
「いや、妖彦が来るって、わかっていたから」
「わかっていたの?」
 わたしの問いに、祖父は肯きながら、
「それに、やることがあったからね」
 と言った。
「やること?」
「ああ。これだよ」
 祖父はわたしから手を離し、膝の上に置いてあった一冊の本を持ち上げた。祖父はここでわたしを待ちながら、読書をしていたというのか。と、またしても記憶の奥から甦ってくるものがあった。
 そうだ、いつもこのポプラの樹の下で、祖父はわたしにさまざまな本を読んで聞かせてくれた。祖父は読書好きだった。加えて、自分でも書いていたらしい。祖父が生きていたときは、まったく知らなかった。わたしが作家の端くれとなったとき、酔った父がしみじみ言ったのである。
「父さんが生きてたら、いちばん喜んだだろうな」
「おじいちゃんが?」
「若い頃、小説家を目指していたらしいんだが、猛反対されて」
 祖父は公務員になった……。
 ああ、すっかり忘れていた。どうして忘れていたのか、不思議なくらいだった。自分をわたしと呼ぶことなど些末なことだ。もっと根本の職業? 夢? 生業? 生き方? ……についても、知らず知らずのうちに祖父の影響を受けていたのである。
 すまない気持ちでいっぱいになった。
「おじいちゃん、ぼくね。小説を書いたんだよ」
 ぽつりつぶやくと、祖父は笑顔のまま、さらりと肯く。
「ああ、知っているよ。全部読んだ」
「全部って……」
 見上げるように顔を上げた祖父は、目を閉じながらも、作品の題名をつぎつぎに諳んずる。それらはすべてかつてわたしが発表したものばかりである。
「どうして……?」
「ここに書いてあるのさ」
 祖父は手にした書物を手でなぞった。わたしは改めて、その書物を見た。黒い皮で表装された辞書のように分厚い本である。何という本なのか、題名を見ようとしたけれど、何も書かれていない。
「それは、何て本なの?」
「そうだな。さしずめ『井之妖彦全作品集』とでも言えばいいだろう」
「ぼくの全作品集?」
「ああ、そうだ。妖彦が作品を発表するたびに、ここに刻まれていくんだ。発表した作品だけじゃない。未発表のものだってある」
 祖父はその書物を膝の上に置いて広げた。しばらくページをめくった後、朗読をはじめた。わずかに耳を傾けているうちに、わたしの頭の中にひとつの作品が浮かび上がってきた。書き上げたものの、どこに発表する宛もなく、わたしのノートパソコンの中で眠っている短編小説の書き出しそのままである。
「どうして?」
 祖父は朗読をやめて、顔を上げ、若々しく笑った。
「驚くのはまだはやい。そうだな……」
 書物に目を落とし、ページをどんどんめくっていく。やがて咳払いしてから、新たに朗読をはじめた。
「おじいちゃん、誰が書いた小説?」
 わたしの問いに、祖父は悪戯ぽく微笑みながら、わたしを見つめた。
「もしかして、ぼくが……」
 祖父の顎が縦に動いた。
 素直に信じた。わたし好みの題材、わたししか書かないようなくどい文章、そして容赦ない結末……。わたししか書かない。否、わたしが書きたい。だか現実には、まだ書いていない作品である。
「ほかにも、ぼくがまだ書いていない作品ってあるの?」
「ああ、まだこんなに」
 祖父は読み終えた一編から後の部分をつまんでわたしに見せた。実にその分厚い書物は、まだ半分以上の残っていた。つまりそこにはわたしがこれまで二十数年に渡ってこつこつと書き上げてきたものよりも多い未発表作品が記されていることになる。
「おじいちゃん、それちょうだい」
 わたしは言った。祖父の顔がはじめて横に振れた。
「どうして?」
「これは、わたしのものだからさ。これを妖彦にあげたら、わたしの楽しみがなくなってしまうじゃないか」
「けち」
「妖彦……」
「だって、そうじゃないか。ぼくが書いた小説のすべてを知っているなら、ぼくがどれだけつらい思いをしているかも、知っているはずじゃないか。それなのに」
「いや、それとこれとは……」
 困惑する祖父を見て、わたしの中に苛立ちか芽生えてきた。驚くほど単純な怒りだ。単純なだけに、一度燃え上がると、瞬く間に炎上する。
「おじいちゃんのけち。いつもそうなんだ。おじいちゃんは、小遣いだって少しずつしかくれないし、ぼくがオモチャをねだっても、誕生日とかクリスマスとかのときしか買ってくれなかった。おじいちゃんは、昔からけちん坊だ」
 口走ってから記憶が後追いでついてくる。祖父も祖母もわたしを猫かわいがりしてくれた。その分、わたしは我が儘だった。幼い無邪気さは、すぐに暴君となる。忘れていたものの、わたしはずいぶんと勝手なことばかり言っていた。やめろよ、せっかく会えたのに。止める気持ちを、癇癪とともに叩きつけるわたしがいた。
「ケチ、じじい。いいよ、じじいがくれないなら、自分で手に入れてやる」
 そう言っては、祖父を困らせたものだ。そしてまたしても――。
 気がついたら片足をあげて、靴の先で祖父の顔面を蹴飛ばしていた。祖父はうめき声を上げ、顔を押さえてうずくまった。脇に落ちた分厚い書物を拾い上げたわたしは、祖父に背中を向けて走り出した。
「ダメだ、妖彦。それを持って行ったら。それはわたしが語って聞かせなければ……」
 うるせい、じじい――やめろ、何て口をきくんだ、おじいちゃんに謝れ――いやだ、じじいが意地悪するからだ――せっかく会えたのに――。気持ちが交錯するものの、足を止める気にはならなかった。
 わたしは両腕でしっかりとその書物を抱えながら、振り返ることもなくその場を立ち去ったのである。
    ◇ ◇
 帰宅したわたしは、机に向かった。大きく深呼吸してから、その書物を広げる。かつてわたしが発表した作品が並んでいた。祖父がその冒頭を朗読した未発表の原稿もある。同時期に発表した作品、未発表、没になった作品や書きかけのものまであった。
 ページをめくるうちに鼓動が高鳴った。二ヶ月ほど前、苦悩して何とか十枚近く書いたものの、それ以上進められずに中断したままの作品のところまで来た。これ以後、まだ一作どころか、一文字も書いていない。ということは次のページにあるのは、祖父が朗読してくれた……。
「ビンゴ!」
 一字一句まちがいない。枚数にして二十枚弱のものだが、きちんと最後まで書き上げてある。推敲して整えれば、どこかの雑誌なりアンソロジーに掲載してくれるかもしれない。
 そうすれば、その次にもそしてさらに……。ページをめくった。一瞬、呼吸が止まった。あわててさらにページをめくった。さらにさらにめくっていった。
「何だよ、これ。いったい、どうなってるってんだ」
 以後、その書物は白紙がつづいてるだけである。何度めくっても、スタンドで透かしてみても、鉛筆で擦ったり、マッチの火で炙ったり、塩水やレモンの汁さえ擦りつけてみたけれど、結果は同じである。
「ちくしょう。あの糞じじい、ケチじじい、欠陥品じゃねえか」
 叫んだ直後の静寂に、祖父の呼びかけた声が割り込んでくる。ダメだ、妖彦。それを持って行ったら。それはわたしが語って聞かせなければ……。
「そうか。あのじじいだから読めたんだ。あんなじじい、とっくに死んでる。だからこそ未来のことまでわかったんだ。ちくしょう、それならそうと、先に言えよ」
 自分の愚行を棚に上げ、書物を手に立ちあがった。祖父のところにもどって、さらなる作品を朗読させてやる。まだ書いてなかった一編が、白紙でなく読めたのは、祖父が朗読したから形になって残ったのだ。それならそれ以後の作品も、朗読させて、この書物に定着させれば良い。
 外に出ると、すでに辺りは暗くなっていた。何、かまうものか。書物を奪われた祖父が悲嘆に暮れて、あのポプラの樹の下から立ち去らないうちに――。
 わたしは先を急いだ。信号がある場所まで遠回りするのももどかしく、車道を横切ろうとしたとき、険しいブレーキ音が響く。はっと目を向けたそこに巨大なトラックの姿があった。
    ◇ ◇
「ここは……」
 ふと顔を上げると、わたしはあのポプラの樹の下にいた。両足を投げ出して、樹にもたれている。膝の上には一冊の分厚い書物が載っていた。
 手に取り、広げてみる。
「ああ、そうだ。これは妖彦が書いた小説だったんだ」
 いつしか切なさとも懐かしさともつかない気持ちでわたしはページをめくっていた。やがて書物も半ばにさしかかった。一編を読み終え、次を読もうとページをめくったが、白紙になっていた。その次もその次も……最後まで何も書かれていないままである。
「おかしいな。この本は最後まで妖彦の書いた小説で埋まっていたはずなのに」
 つぶやいた刹那、理由がわかった。
「そうだよ、これはわたしが朗読してあげなくちゃいけないんだ。難儀しているかわいい孫のために朗読してやれば、その一編一編が形になる。かつて物書きを夢見ながらも果たせなかったわたしの夢と、それを実現してくれた妖彦の未来のために、妖彦が来たら、話してきかせてやろう。
 うん、かすかに覚えている。後半に行くに従って、佳作傑作が多かった。まさに油の乗ったすぐれた作品ばかりだったよ。ああ、はやく読んできかせたい」
 わたしは静かに書物を閉じると膝の上に置き、ポプラの樹にもたれて、孫の来るのを待ちつづけている。(了)



飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』