「猫と鼠の等速運動」片理誠

(PDFバージョン:nekotonezumino_hennrimakoto
 駿河湾は今日も良い天気だった。
 水面を吹き渡る涼しい風が目深に被った麦わら帽子の縁をもてあそぶ。さざ波がキラキラと輝き、ゆっくりとしたうねりが海のあちこちに斑模様を描いている。足下のテトラポッドでは波が打ち寄せる度にフナムシが逃げたり戻ったりを飽くことなく繰り返していた。
 磯の香りを胸一杯に吸い込むと私は防波堤の先端に向けて歩を進めた。底のすり減ったビーチサンダルが焼け始めたコンクリートを踏みしめる。今日も暑くなりそうだ。何しろ空には雲一つない。頭上には泉のように澄み切ったスカイブルー。見上げていると吸い込まれてしまいそう。
 あまり釣り日よりとは言えなかった。ぴいかんよりは曇りや雨天の日の方が釣果は期待できるものなのだ。晴れすぎていると魚は警戒してしまう。仕掛けもばれやすい。だが私は気になどしていなかった。曇る日もあれば晴れる日もある。大切なのはこの自然を楽しむことだ。
 肩から吊したクーラーボックスが腰の横で跳ねる。左手に握りしめている釣り竿がカチャカチャと音を立てた。先を急ぐ。まだ見ぬ大物が水面の向こう側で私を待っているかもしれない。
 ん?
 不意に私は足を止めた。名前を呼ばれたような気がしたのだ。
 振り返ると野球帽を被った小さな男の子が元気一杯に堤防の上を走ってくるところだった。
「お爺ちゃーん!」
「おお! 俊之か、随分早かったな!」
 思わず顔がほころぶ。東京から来た孫だ。この堤防で待ち合わせをしていたのだった。だが会えるのは昼過ぎかと思っていた。
 胸の中に全速力で飛び込んでくる孫を受け止めるのは結構、腰に来る。もう七歳か。大きくなったもんだ。あと何年、こうやって受け止めてやれるだろう。
「あのね、あのね、今日、朝一番の電車で来たんだよ」
「おお、そうか、そうか。朝一番で会いに来てくれたか。それは嬉しいのぅ。ところで、ママとパパは?」
「家の方に行ったよ」
「では今日は私ら二人の水入らずというわけじゃな」
「うん。釣り、教えてくれるんでしょ!」
「ああ、教えるとも。ほれ、俊之の竿もちゃんとある」
「わーい!」
 孫は二人分の釣り竿を両手で抱えると、堤防の先に向かって走り出した。早く早くとこちらを急かしている。
「そんなに走ると危ないぞ! ああ、ほら、言わんこっちゃない」


 堤防の端に腰掛けて二人で仲良く竿の先を眺めていると、孫が話しかけてきた。
「ねぇ、おじいちゃん、アレは何なの?」
「ん?」
 海辺に走る黒ずんだ高架線を指さしている。緑と錆に覆われていて今ではもうボロボロだ。子供の目には恐ろしげに映るのかもしれない。
「ああ、あれは大昔のリニアモーターカーのレールじゃよ。昔はあの上を時速六〇〇キロで列車が吹っ飛んでいったんじゃ」
 ええ~、と孫が目を丸くしている。
「時速一〇〇キロ以上の移動を法律で制限されとる今からは想像もつかんじゃろ。昔は速ければ速いほど良いと思われとったんだ。思えば貧しい時代じゃった。私も毎日、日本中を飛び回っておった。今日は札幌、明日は那覇って具合にの」
「凄ーい」
「凄くなんぞあるものか。おかげで毎日がやかましくてたまらなかったよ。なくなってホント、せいせいしたわい。おかげでやっとこの静岡も静かになった」
「でもその列車があれば東京からここまで、あっという間に来られるんでしょ?」
 私は笑った。
「この辺りには停まらんよ。アレは大都市と大都市を結ぶだけ。途中は全部素通りじゃ」
 ふぅんと俊之。少しつまらなそうだ。
「でも……ちょっと見てみたかったな」
「昔はそこら中の海に原子力発電所が建っておってのぅ。まぁ、電気が余っておったんじゃろうな。アレはその頃の遺物じゃよ」
「なんでなくなっちゃったの?」
 私は遠くに立ち並んでいる風力発電用の巨大な風車に目を細める。
「事故を起こしてそこら中を汚染しまくる上に、地球をぶっ壊しかねないような恐ろしく汚いゴミを、毎年毎年ひっきりなしにジャンジャン出すんじゃよ、電気の代わりにのぅ。あんなもんは早めにやめておいて正解じゃ。おかげで海も綺麗になった。茶も美味い。自然が復活したら絶対にここ、静岡に住もうと決めておったんじゃ。良い時代になったものじゃよ、ホント」
 キラキラと輝く水面を見つめる。
「……人間はあればあったで全部を使い切ってしまう。じゃが、なければないで創意工夫をするもんじゃ。そこが人の悪しきところでもあり、良きところでもある」
 私はポケットから携帯端末を取り出すと素早く株式や為替相場の推移に目をやり、次に全国に散らばっている部下たちからの報告に目を通し、プロジェクトの進捗状況や在庫の管理状況をチェック、私の疑似人格秘書プログラムに簡単な指示を送って画面を閉じた。再びポケットに突っ込む。
 この間、約三十秒。
「今では世界中に張り巡らされた光通信情報網のおかげで人が直接行き来する必要はのうなった。物資の移動には主に船を使う。速度は遅いが、一度に大量を移送できるから何も問題はないんじゃよ。旅行なら、時速六〇〇キロも必要ない。そんな旅では駅弁を買ってる暇もないからのぅ」笑う。「東京からここまで、数分で着いてしまってはつまらんじゃろう? 途中を楽しむ。それが旅の醍醐味じゃよ」
 う、ん、と孫の方は少し複雑な表情。
「でもお婆ちゃんがこぼしてたよ。昔なら北海道からだってあっという間に来られたのに、って」
「あの暑がり婆さん、何か言っとったか?」と私は笑う。
 一方、孫の方は歯切れが悪い。
「……うん。また訳の分からない請求書がやってきたって、今度こそとっちめてやるんだって、……ねぇ、お爺ちゃん、“きゃばくら”って何?」
 サァー、という微かな音を立てて自分の血が逆流してゆくのが分かった。真夏の暑さから一転、氷水をぶっかけられたかのような冷たさが全身を覆う。しまった、先月は羽目を外しすぎたか。
 頭の中が超高速でフル回転を始める。さてはあの婆、孫を使ってこちらの足止めを……。
「おおっと、いかん!」ポケットから携帯を取り出すふりをしながら私は突如立ち上がる。「急に福岡への出張が! すまん、俊之! 釣りはまた次の機会にな!」
 慌てて道具を抱えると走り出す。
 ええ~っ、という背後からの孫の声。
「もう人間が移動しなくても良くなったって、今言ったばっかりなのに!」
 すまん、すまん、と叫びながら逃げる。
 早く駅まで行かなくては。そこにたどり着ければ、後は何とかなる。
 猫が時速一〇〇キロで追いかけてきたとしても、鼠も時速一〇〇キロで逃げれば、猫が鼠に追いつくことは永遠にない。ホント、良い時代になったものだ。わはは!
 麦わら帽子を片手で押さえ、大股で走りながら、私は大声を上げて笑った。



片理誠プロフィール


片理誠既刊
『エンドレス・ガーデン
ロジカル・ミステリー・ツアーへ君と』