小松左京さんを偲んで(寄せ書き)

(PDFバージョン:komatusakyousannwosinonnde
 本サイト「SF Prologue Wave」は、この度の小松左京さんの訃報に接し、SFにも、また日本SF作家クラブにも、多大なご貢献のあった氏に敬意を表し、ここに小松左京氏の追悼企画として、天国の小松さんへ会員有志による『寄せ書き』を捧げます。
 ただし、ここにあるものが全てではありません。『追悼エッセイ』としてご寄稿いただいた方もおられます。また、氏の訃報は我々会員にとって衝撃であり、「ショックで、今はまだ何も書けません」と申される方が多数おられたことも、ここに付け加えさせて頂きます。
 小松左京さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。(「SF Prologue Wave」編集部一同)







辻 真先

 小松さんと最後にゆっくり話ができたのは、玉造で開かれたSF大会だった。温泉宿のおなじ部屋だったので、コンピュータと人間のかかわりを話題にしたと記憶する。コンピュータが愚図る度に、赤ちゃんをあやす気分で、おねしょかな母乳かな眠いのかなと、ハラハラしながらあれこれ考えさせられる。初歩の初歩のぼくがそう愚痴ると、小松さんにゲラゲラ笑われた。いまだにぼくの赤ちゃん教育は、さっばり進歩していない。近いうちあちらでお目にかかるときは、また愚痴を聞いていただこうと思っている。





片理 誠

 第5回日本SF新人賞の授賞式の際にご挨拶をさせて頂いたのが、小松左京さんとお話をさせて頂いた最初で最後の機会でした。小松さんは車椅子に座られていましたが、まさに太陽系における太陽のような、圧倒的な存在感で会場におられました。「この人があの伝説の……」と思ったものです。「俺は今、壮大な歴史の一端を垣間見ているんだ。この階段のずっとずっと先には、この人が座っているのだ。星新一さんにお会いすることはできなかったけど、小松左京さんには拝謁することができた」そう考えただけで晴れやかな、そして身の引き締まる思いでありました。その気持ちは今も、これからも永久に不変のままであり続けます。小松先生、長い間SFを牽引して頂き、ありがとうございました。安らかにお休みください。偉大なる英雄の死を悼みますと共に、氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。





巽 孝之

 『継ぐのは誰か?』をSFM連載( 1968年6月 ~ 12月号)で読んでいなければ、わたしはアメリカに関心をもつことも留学することも、その最中に出会ったサイバーパンクを理解し日本へ初紹介することもなかったろう。 SFM連載時が、インターネットの原型たるARPANETが完成する 1969年に一年も先駆けているだけでも驚異だが、ハワイのイーストウェストセンターでセミナーを行なった経験だけで、あれほどヴィヴィッドなアメリカ的青春群像を描けたという事実にも感動せざるを得ない。
 小松さんは、いったいどうして科学技術の将来のみならずアメリカン・ライフの細部に至るまで、あれほど詳しく知っていたのだろう?
 これを作家の洞察力と呼ぶのは簡単だが、いま実感するのは『果しなき流れの果に』に出てくるオーパーツは、じつは小松左京自身だったのではないか、ということだ。いまも彼は宇宙のどこかで、次元断層に悪戯している最中かもしれない。





菅 浩江

 小松さんまで逝ってしまわれたのですね。
 矢野さん、野田さん、柴野さん……ただのSFファンだったときから名前で呼んでくださった方々が、次々と星の世界へ旅立ってしまわれるのは、とてもとても寂しいことです。
 小松さんは、そのバイタリティを「まるでブルドーザーのよう」と呼ばれたと聞きます。いまの現実世界にこそ小松さんが必要なのに、と、悔しくてなりません。
 どうか、今後もずっと、天界からお導きください。





上田 早夕里

 小松左京さんは、作品を通してSFの素晴らしさを教えて下さっただけでなく、小松左京賞によって私に作家としての道を開いて下さった方です。いくら感謝の言葉を連ねても足りないほどのご恩を頂きました。
 私の作風は小松さんとはまったく方向性が異なるものですが、作家が小説を――とりわけSF小説を書く意味と価値において、確かに譲り受けたものがあることは、はっきりと自覚しています。
 ですからどういう形にせよ、この先も作品を書き続けるという行為のみが、小松さんへの最大の恩返しになるのだろうと思っています。
《虚無回廊》探索のために永遠の旅に出られた小松さん。
 よき航海になることを、お祈り致します。
 私もまた孤独に宇宙を行かねばならない身ではありますが、小松さんの生涯を想うと、決して立ち止まってはならないのだと改めて強く感じます。





森下 一仁

 小松さんは私にとって憧れの人ではなかった。
 憧れようもない、別次元の存在だったのだ。遠くから見て「うわっ、すごいなあ!」と、あきれるしかない作家だった。
 そんな私がSF周辺でうろちょろするようになり、小松さんは「こいつ、オレのことがわかってないな」と思われたに違いない。そばに呼んで「『SFへの遺言』を語りおろすから手伝え」と言われたのは、「少しはオレのことをわかってみろ」ということだったのだろう。
 そうやってお付き合いさせていただくようになったが、小松さんはますます謎の存在になっていった。遠くから見ていた小松さんとはまるで違う、さらに巨大な「小松左京」がいたのだ。

 小松さん、ありがとうございました。小松さんのおかげでSFも人生も一層大事なものになりました。遅くなりましたが、これから少しずつ「小松左京」という謎を解明してゆくつもりです。





難波 弘之

 小松先生から、赤坂見附にあったイオのオフィスに呼ばれるようになったのは、’80年頃だったろうか? 中学生の頃からSF大会でうろちょろしていたガキがミュージシャンになった、というので、面白がられたのではないだろうか。
 豊島公会堂のSFショーにヒカシューと僕のバンド、Sense Of Wonderで出演した日、実は大阪南港で野外ロック・フェスがあり、出演が終わると慌ただしく羽田から伊丹に飛んだ。
 スタッフが車で迎えに来ていたが、ちょうど甲子園で高校野球があり高速は大渋滞、遅れに遅れて到着した。
 実は、先にSFショー出演が決まっていたのに、主催者が無理にブッキングしたのだ。実は僕のせいではない。
 山下達郎は、僕が着くまで一人で弾き語りで繋いでいてくれたが、出演順が狂った桑名正博が楽屋で暴れていた(笑)。
 ところが、この野外フェスのプロデューサーが、実は小松先生であることを、当日知った。先生はそんな事情をご存じないので、僕が遅刻したとしか思わなかったのだろう。
 その後「飛行船の上のシンセサイザー弾き」というアルバムをリリースするさいにライナー・ノートをお願いしたら、しっかりそのことを書かれてしまった。お陰で、今でも僕のファンの大半は、僕が遅刻したと思っている。
 今となってはひたすら懐かしいエピソードだ。

 今頃小松先生は、嬉々として虚無回廊を探索しておられることだろう。
 合掌。





高野 史緒

 ロシアやヨーロッパの人たちと付き合っていると、彼らにとって「SF」という言葉がとてもチープな扱いで、ほとんど「非文学的なパルプフィクション」という位置づけなのに驚かされます。しかし日本においてSFは「ものすごく難しいことや高尚なこと、哲学をも扱う」と認識されていますよね。これは、小松さんの功績によるところが非常に大きいのではないでしょうか。

 大きな業績に隠れてしまってあまり指摘されないことかもしれませんが、小松さんは、面倒な設定や複雑な状況を説明調にならずに美しく読者に提示できる方だったと思います。私の作風は小松さんの作品とは全く違う方向を向いていますが、この点は大いに学ばせていただいたように思っています。

 私が子供の頃から「あって当たり前」の巨大星雲のような存在でしたが、今や本物の星雲になられましたね。これからも、地上の小さな私たちの旅の道しるべとなり、遠くまで行けるよう導いて下さると信じています。





大原 まり子

 偉大な作品群は、ほんとうに大きな遺産ですね。エンタテイメントSFの枠組みの中で展開される、思想、知識、論理的思考、そして、ロマンティシズム……。

 SFファンになって、初めて遭遇したSF作家が小松左京先生でした。
 当時、父が関わっていた異文化交流会のような会社に、小松先生がお見えになるというので、いそいそと出かけていって、出たばかりの単行本の『日本沈没』にサインをもらったのを覚えています。一緒に写真も撮っていただいた記憶があります。

 亡くなられる一月ほど前に、イオの乙部さんにお電話して、帰省した折りにぜひお目にかかりたいとお伝えしたのは、何かを感じていたのかもしれません。

 小松先生にはお世話になりました。色々ご迷惑もかけました。
 作品にはこれからもお世話になると思います。
 ありがとうございました。また、どこかで、お目にかかれますように。

 ご冥福をお祈りいたします。





高千穂 遙

「いいか、タケ! SF作家にタブーはないんだ。なんでもおちょくったれ。なんでもネタにしちまえ」

 と、小松さんから厳しく教わっていたのですが、不甲斐ない後輩は、まだ今回の訃報をネタにすることができません。SF作家を貫くってのは簡単ではないのです。

 とりあえずがんばってネタにできるよう修行を積みますので、あと一年ほど待ってください。一周忌までにはなんとかします。


 たぶん。





宮野 由梨香

 お目にかかる機会に恵まれず、残念でした。

 高校2年生の時の教科書に小松先生の評論が載っていました。現国の授業で教師の示した「要約」が明らかに間違っていたので、授業終了後、即座に抗議しました。その授業は4時限目でした。昼休みを費やしての議論となり、弁当を食べ損ないました。放課後、弁当を食べてから、また続きをやりに行きましたが、決着はつきませんでした。
 それは私が「解釈の正当性とは何か」について、ある程度つきつめて考えた最初だったと思います。(この時の議論の争点は、文章の外側にあるテキストからの情報をどう位置づけるかということでした。)
 
 心から、ご冥福をお祈り申し上げます。





高井 信

 私が高校1年のときに書いたショートショートです(1973年12月14日脱稿)。

  *  *   *

世界大沈没

「このままでいくと世界は海だらけになる。すべての陸地は沈没するじゃろう」
 畑所博士は大野寺の前で言った。
「わしは何としてでも世界を救わにゃならんのじゃ」
「わかりました。僕も手伝います」
 大野寺は答えた。
 その時、突然、研究室に水が大量に流れ込んで来た。
「ウワー!」

 トポーン。大きな音をたてて日本が海に沈んだ。同時に、トポーン、トポーン、トポーン。ユーラシア大陸もアフリカ大陸もアメリカ大陸も、地球上のすべての陸地が沈んだ。一瞬後には、地球は見渡す限りの大海原になってしまった。当然、地球上の陸上生物はほとんど全滅した。

「移民準備完了!」
 地球の遥か上空の円盤の中で、水棲人が言った。

  *  *   *

 謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。





久美 沙織

 作品も業績もおひとがらもお腹まわりも「これぞ大人物!」でいらした小松先生。正直いって、近年、すっかりお痩せになってしまってからはお姿を目にするのがいたましすぎ、こわいようでした。乙部さんをおみかけしたときに、「どうしていらっしゃるの?」とうかがうのすら、こわいようでした。
 仙台天文台のシアターで、太陽すらもいつかはかならず燃え尽きていくのだという素晴らしい映像作品を拝見しましたが、そのとき四歳ほどだった娘がたいそう怯え、しばらく、思い出してはうなされました。「おひさまがなくなっちゃうなんてこわい!」と泣くので、「でも、すぐじゃないんだよ、わたしたちが生きてる間にはそんなことたぶんないよ」といっしょうけんめいなぐさめました。
 しかし、今年は「まさか」とおもうことが起こる年、たいせつなものが突然うばわれ、はやくなんとかしないといけないことがつぎつぎにふりかかってくる年まわりのようです。せつなくて、混乱して、こわいけれど、こんなときこそ、理性的に落ち着いて、いちにちいちにちジブンのできることをきちんとするしかないですね。
 あちらには、コマ研の土屋裕さんが先にいってます。あまりにはやすぎた彼の死もいまにして思えば、小松先生をきちんとお迎えする準備のためだったような気がしてなりません。
 ご家族にかこまれてにぎやかに旅立たれたとのこと、お葬儀をひそやかにしずかにお身内でおすましになられたこと、小松先生はどんなに痩せてしまわれても、さいごまで、ほんとうの意味で「大人物」でいらしたのだなぁとおもいます。どうかやすらかに。そしていずれゆくわたしたちを、また、みちびいてください。ありがとうございました。





東野 司

 最後にお会いしたのは、私が司会を務めたワールドコンのパネルディスカッションでした。登壇する小松さんの腰を支えて押し上げた感触は、はっきりと覚えていますし、消えることはないと思います。

 お会いしたときには、いつも星さんのお話をされていたような記憶があります。
 小松さん、星さんとお会いできましたか?
 また、とんでもないバカ話で盛り上がっているのでしょうね。
 私もまけずにとんでもないバカ話を作り続けていこうと思います。

 小松さんと出会えて私はほんとうに幸せ者です。
 これからもよろしくお願いいたします。





機本 伸司

 小松先生が旅立たれた2011年は、僕のデビュー作『神様のパズル』において、設定上、主人公の穂瑞沙羅華が誕生した年でもあります。
 デビューのきっかけを与えてくださった先生に、改めて感謝いたします。





かんべ むさし

 小松さんの膨大な作品群、そのなかにはレベルが高すぎて、正直なところ、当方にはよく理解できないものもある。
 しかし、それらを書き、文化振興、共同研究、巨大イベント等々も進めてこられた、小松さんという人自身やその理想を、ぼくは理解できていたと思っている。そして折々の会話や、いただいたアドバイスなどから、「自分は小松さんをわかり、小松さんも自分のことをわかってくださっている」と思ってきた。
 しかし実はそれは、「事実」よりも、こちらの「思い」の比重が高い判定なのであって、同じ「思い」は出版界のみならず、上記の業績に関係した多くの人たちが、抱いているに違いないとも感じる。
 その推測が当たっているとして、それではなぜ多くの人が、「自分は小松さんを、小松さんは自分を」と思うのか。
 それは、皆が小松さんが好きだったからだ。
「親分」に接して、「子分」であることの喜びや嬉しさを味わうという、貴重な経験をさせていただき、本当にありがとうございました。





藤田 雅矢

 ワールドコンのレセプションパーティで、冗談を交えて英語のスピーチをされていたお姿が思い出されます。
 思い起こせば「空中都市008」を見て育ち、大阪万博にうかれ、『果てしなき流れの果に』や『継ぐのは誰か?』に頭を改造され、やがて花博を訪れ、ずっと小松先生の手の中で転がされていたのかも知れません。
「虚無回廊」探索の旅に出られたとのこと、そのうち宇宙から届いた電波を解読すると小松作品だったというようなことになるのではと思っています。
 ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。





新城 カズマ

 Just heard the news today. Greatest of the Demigods has passed away. Peace on Earth, his words toward men. Oh well, what more can I say?





八杉 将司

 物心ついたころから、小松左京さんの作品も読んだこともなければ、テレビドラマも映画も見たことがないにもかかわらず、ぼくは「小松左京」を知っていました。
 ぼくが二歳ぐらいのときにテレビドラマ版「日本沈没」が放送されており、両親が熱心にそれを見ていたものだから、何かにつけ「姫路城が倒壊してな」「日本が沈没してしまうやで」と教えられ、「首都消失」や「さよならジュピター」の映画が公開されたら有無を言わさず映画館に連れて行かれ、ぼくの中で「小松左京」は「日本」とか「地球」とか「宇宙」といったものと同義語のように刷り込まれていました。それゆえに憧れるとか目指すといった作家ではありませんでした。だってたとえば「宇宙」になりたいなんて思わないわけで。ぼくは日本SF新人賞をいただいてデビューしましたが、それも小松さんに憧れたからでもなければ、正直なところSF作家になるつもりもありませんでした。ただ自分が面白いと思う小説を書こうとしたら、自分が書くべきと信じるテーマを小説にしようとしたら、なぜかSFと呼ばれる作品になってしまう……しかもいくつかは小松さんがすでに書かれていたアイデアだったということもありました。(もちろん作品としてはぼくなんか足元にも及ばない)それぐらいぼくにとって「小松左京」が当たり前の存在として心に根ざしていたということに気づいたのは、恥ずかしながら最近のことでした。
 小松さんは亡くなられてもぼくの心の一部として存在する「小松左京」はなくなりません。
 ご冥福を祈りつつ、でも、「小松左京」はここにいるんだけどなと不思議な気分をただいま感じております。





森岡 浩之

 SF作家クラブで温泉旅行にいったときのこと。朝、コーヒーを飲んでいた小松さんとご一緒させていただいたことがありました。小松さんと一対一でゆっくり会話したのはそれが最初で、そして最後になってしまいました。小松さんにとっては取るに足らないことだったでしょうが、わたしにとっては大切な想い出です。
 巨星墜つ、などという表現は陳腐なのですが、小松さんを思うにつけ、巨星のイメージが浮かんできてどうしようもありません。もっとも、巨星が「墜ちる」というのは、いくらなんでも非科学的過ぎましょう。巨星は墜ちませんし、消えもしません。終わりらしき時が来ても、それまでのようには目立たなくなるだけで、影響を及ぼしつづけます。
 これからも折りに触れて、小松左京の影響を思い知らされるに違いありません。そして、そのたびに一緒にお茶をさせていただいたことを思い出すのでしょう。





伊野 隆之

 今年のSF大会にちなんで静岡SFを、ということで、フォッサマグナの話を書いた。著者校正も終わり、ほっとしたところで小松先生の訃報である。思い起こしてみると、僕がフォッサマグナのことを知ったのは「日本沈没」の中だった。
 小学校の授業中にノベルズ版の「日本沈没」を読んでいた。先生に見つかり、本は取り上げられるし、怒られるしで、さんざんだったが、放課後、無事本を返してもらい、続きをむさぼるように読んだことを覚えている。
 本の中では、フォッサマグナの周辺が大変なことになっていた。現物が手元になく確認できないけれど、日本海側では糸魚川からではなく、直江津から亀裂が生じていたはずである。直江津にいた小学生にはおおごとだった。
 あれからずいぶん経つが、今思うと「裂島」には小松左京先生の創り出したミームが憑いているようである。SFの作者としては先生の手のひらを飛び出していかなければならないのだろうが、大きな手のひらの中には、まだ探検の余地がずいぶんとあるような気もする。
 多くのすばらしい作品をありがとうございました。
 ご冥福をお祈りします。





秋山 完

「さあ、よう見てみ。日本はもうないんやで……これはアパッチの国や」
 先生の処女長篇『日本アパッチ族』の終章でこのような言葉を読んだとき、背筋が鳥肌立つような喪失感と、言いようのない切なさにとらわれたことが思い出されます。
 先生の作品には、しばしば、とても愛おしく大切な何かの喪失と、運命に誠実な主人公との切ない別れがありました。首都東京、日本列島、地球、木星、そして大阪の街……喪われゆく世界に抗って汗まみれ涙まみれで戦うのは、洗練された未来型のエリートというよりも、実は人情に厚いコテコテの関西人だったりして、そこにまぎれもなく“ニッポンのエスエフ”を感じたものでした。それらの物語に込められた情熱の小さなかけらだけでも、受け継ぐことができればと願っています。
 日本のSFが太陽なら、先生の存在はまさに太陽系最大の惑星でした。どうぞ安らかに。
 バイバイ、ジュピター……





天瀬 裕康

 天国の小松左京さん、心からの悼辞を送らせて頂きます。
 じつは私、4月末から体調を崩していたので、大兄の訃報には大変なショックを受けました。それで慌てて手術を受けたのですが、病室へ戻ったあとも、大兄のことが脳裡をよぎります。生年は同じでも大兄は早生まれなので、学年でいえば私は一年下。それでも同年扱いで話しかけて下さったのは、なんでも吸収しようとするお人柄によるのでしょう。そういえば『SFマガジン』第94号の「<未来論>の現状」は、素晴らしいレポートです。広島でも未来学会が開かれたりしていましたが、1970年の万国博でも大活躍でしたね。第36回日本SF大会(1997年,広島)にも来て下さいました。顔も上半身も私より幾倍も大きく、ギラギラしていたのに、一足先にあちらの世界へ行ってしまうなんて……しかし私も、案外速くそちらへ行くかもしれませんので、その節はよろしくお願い申し上げます。





瀬名 秀明

 対談やインタビューで何度か録音機を挟んでお話をさせていただいたことがあります。その場では話題があっちへ飛び、こっちへ脱線して、失礼ながら「この話、使えるのかなあ」などと思ってしまうのですが、いざ帰宅してテープ起こしを始めると、構文の乱れもなくそのまま原稿にできるくらい見事な文章になっているのは毎回本当に驚かされました。
 2007年のワールドコンで長丁場のシンポジウムを開催した際、車椅子から立ち上がり、満員の会場に向けてスピーチをいただいた姿がいまも鮮明に思い出されます。その後、シンポジウムを本にまとめるため、千里で2時間以上にわたりお話をうかがう機会がありました。原点といえるダンテ『神曲』(Divine Comedy)に関して、私は「なぜこんな壮大な物語がコメディなんでしょう」と浅学ゆえの質問をしました。すると即座に「ハッピーエンドで終わるのがコメディなんだよ」との答が返ってきて、世界が晴れたように思えたものです。
 上述の書籍『サイエンス・イマジネーション』でご監修をいただけたことは私の人生の誇りです。「小松左京」という大きな物語は、素晴らしいハッピーエンドへと向けて、これからも翔けてゆくのだと思います。





田中 光二

 小松さんは、関西でいう「いらち」の人だった。せっかちの意味である。
 銀座に飲みにいくと、ひとつの店に10分ぐらいしかいない。いつのまにか消えてしまうので、あとを追いかけるのに苦労した。
 また煙草を吸うために生まれてきたようなひとだった。ものすごいヘビースモーカーで、専売公社は小松さんによく礼をいうべきである。
 そしてよく食べ大量の原稿を書き、しゃべりまくった。まるでバルザックのようなひとだった。
 もうあんなひとは出てこないだろう。
 しかし会っているとすぐ入れ歯を外すのには参った。梅干しばあさんになってしまい、なにをいっているのか判らない。
 いまぼくの胸にはぽっかり大穴があいている。
 どうしたらこの穴が埋まるのか判らない。
 おそらく埋まるころぼくも死んでいるだろう。
 そうしたらあの世で半村さんたちといっしょにマージャンでもやろう。





「スミ子と噛め」 江坂 遊

 もちろん、SFマガジンを読んでいたので、その作品の面白さも知っていたんです。けれどそれより大阪のメディアによぉ出てきてはったので、すごいヴァイタリティのある人やなあ、吉本の人かいなあと思ってました。
 ラジオ大阪の『題名のない番組』の熱狂的なファンでした。書いたはがきで何度か笑ってもらいました。あの頃は小学生の投稿魔やったんです。「べいやん」、「こまっつあん」と桂米朝はんとの息もぴったりでしたねえ。笑い崩れる菊池女史と時おり入ってくる小米(のちの桂枝雀)さん。ああ、今思えば、何と豪華な組合せだったことか。
 テレビでは、日曜の朝といっても十一時頃やったと思いますが、毎週やっていた坂本スミ子さんの音楽ヴァラエティ「スミ子と歌おう」にゲスト出演されたときのことをまだ覚えています。
「おスミさん、そらこれから、どんどん変わりまっせ。レコードからガムに変わる、なんてことがあるかも知れん。そしたら、番組名は『スミ子と噛め』ってことになる」
 いや、わたし若かったんですが、これ聞いて腰抜かしてしまいました。
 空の上で星さんと放談してはるんでしょうね、今頃は。放送してないのやろかとラジオのチューナーを合わせる今日この頃です。
 合掌。





井上 雅彦

 小松さんと、差し向かいでゆっくりとお話をしたのは、2001年10月1日。
 銀座のバーのボックスで、くつろいだ気分の中で、星新一さんとのバーでの想い出から、酒の話、戦争と宗教、昔のテレビ・タレントの話、日本人論……と話題がどんどん発展していく。その間、僕は頭の片隅で、二十一世紀になったばかりでこんな時間がもてたことを、二十世紀の自分に見せてあげたいなどと思ったものだった。
 もちろん、小松さんの作品に魅了されたことのないSF者は皆無に違いないだろうし、この時も、敢えて愛読者であることを口にはしなかったが、僕の場合、一年の間に、必ず、小松左京を読みたくなる季節がある。読むのみならず、無心にノートに書き写したり、カードにプロットを分解したりと、いろいろなことをするわけで、今の仕事に就く前からであり、作家の仕事に役立てようなどという下心はなく、純粋に趣味のレベルだった。
 今は、もう小松さん本人に会うことはできない。けれども、「小松左京の季節」は巡り来る。それだけは、確実なのである。本を開けば、必ず、小松左京に会うことができるだろう。
 あるいは……本を開かなくても……。
 訃報を受け取った日の前日(7月27日)、SF作家クラブ執行部の引き継ぎのため、現会長の新井素子さん、次期会長の瀬名秀明さん、僕の後任になる次期事務局長の増田まもるさんを囲んで、勢揃いした事務局次長、経理担当者さんたちと、事務局メンバー全員が都内に集まって会議をやった。二次会のアイリッシュ・パブの食事とお酒の席になっても、2013年の日本SF作家クラブ50周年へのアイディアをそれぞれが制限無しに出し合い、話題はまるで夢のように盛り上がった。
 まさに、SFの夜だった。
 訃報を聞いた28日は、その「昨日の今日」……というわけだった。
 だから……今となっては、思うのである。
 小松さん、あの時に、僕らの横にいらっしゃったのではなかったか、と――
 そう、あの時は、すでに……。
 あの日、あの場所で、黒麦酒と煙草の匂いのたちこめるあの酒場で、僕らのすぐ横で、日本SFについて、未来のSF作家クラブについて、おもうがままに語っているわれわれを面白そうに聞いていらした。いや、しばしば僕らの話をオモロ大放談のベクトルにもっていったのは、小松さんのシワザにちがいない……。
 今では、そんな気がしてならないのである。