カテゴリー: 追悼関連

【小松左京氏追悼エッセイ】「広島から巨大過ぎた人へ」天瀬裕康

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 無限の探索に旅立たれた小松左京さん――。
 生年は同じでも、大兄は1931年1月の早生まれなので、11月生まれの私は学年でいえば一年下ですが、同年扱いで広島のことを念頭において話しかけて下さったのは、まことに有難いことでした。
 本名(渡辺晋)のほうが馴染み深いかとも思いますが、筆名(天瀬裕康)で入会していますので、二足の草鞋の天瀬からの、転居歓送の言葉としてお受け取り下さい。

 小松左京というお名前を初めて目にしたのは、『S・Fマガジン』19号(1961年8月号)の空想科学小説コンテスト結果発表に、大兄の「地には平和を」が努力賞として紹介されたときでしたが、この作品は『宇宙塵』63号(1963年1月)に掲載され、第50回直木賞候補となったのですね。
 このデビュー作が私の胸を打ったのは、ほぼ同じ世代の河野康夫という黒桜隊の少年の存在だと思ったのですが、読後、彼を巻き込んだ本土決戦は時空を操作する者の作りだした虚構の世界だったことが分かり、並の作家には見られぬ巨大な小説空間を感じたものです。

【小松左京氏追悼エッセイ】「継ぐのはどなたか?」北原尚彦

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 わたしがSFファンダムに顔を出すようになったのは物書きになってからなので、結構遅い。だからホンモノの星新一さんや光瀬龍さんの姿を拝見することはなかった。
 小松左京さんは、拝見するどころか御挨拶させて頂くことができた。実は、小松左京さんは日本古典SF研究会創設時に「名誉会長」になって頂き(と言ってもわたしが入会する以前の話だ)、ずっとそのまま続けて頂いていた。それゆえ、わたしが古典研の新会長に就任した後に、どこかのパーティで御挨拶させて頂いたのだ。それ以降は、恐れ多くてこちらから話しかけることはできなかったので、おそらくわたしの名前は覚えて頂いていなかったとは思うが。

【竹内博氏追悼エッセイ】「竹内博さんと古本の思い出」北原尚彦

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 竹内博さんの業績には、昔から触れていた。特撮関係では、後から考えると「あれもこれも、竹内さんが書いていたのか!」というものが多かった。
 直接お会いしたのは、おそらく一九九五年のことだと思う。一九九四年から〈SFマガジン〉に執筆するようになっていたわたしは、その翌年、横田順彌さんに誘われて日本古典SF研究会(以下「古典研」と略)に入会し、例会に顔を出すようになったのだ。
 竹内さんは、特撮研究の第一人者であると同時に、『ゴジラ』の原作者である香山滋研究の第一人者でもあった。そのため古典研に籍を置いて、会報〈未来趣味〉にも執筆しておられた。
 例会にもまめに出席なさり、浅学なわたしともきさくに話をして下さった。この例会は隔月で開催されているのだが、その後、他の場所でも竹内さんにちょくちょくお会いするようになった。古書即売会である。

【小松左京氏追悼エッセイ】「向こうのホームに」機本伸司

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 昼下がりの東京駅で、“のぞみ”に乗り込んだとする。指定券を確かめながら、独り、座席に腰を下ろす。あとはもう、何も考える必要はないだろう。寝ていても、目的地である新大阪に到着するのだから。そう思ってシートを倒しかけた、その時――。
 もし向かい側のホームに、知人の姿を見かけたとすれば、あなたならどうするだろうか? そしてそれが、小松左京先生だったとすれば……。
 発車時刻は、間近に迫っている。今降りて先生のところまで行けば、ご挨拶するだけでも、手元の座席指定券は無効になってしまうだろうし、その後の予定も狂ってしまうかもしれない。じっと座ってさえいれば目的地に到着する列車に乗っていながら、それを降りるというのは、馬鹿げたことだと言うしかない。既定の路線を捨ててまで、わざわざリスクを選ぶことはないだろう。しかし向こうにいらっしゃるのは、あの小松左京先生だ。さて、どうするか……。
 実はそんな経験が、僕にはあったのだ。確か五、六年前のことだったと思う。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松さんのいる場所」堀 晃

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 小松左京さん(ぼくは「親っさん」と呼ぶことが多かった/これはご自宅の隣家が某組のドンの自宅だったという事情もあるけど/しかしここでは「さん」で書かせていただく)との思い出は多い。高校生の時に作品を見てもらってから半世紀になろうとしているのである。大阪を散策していると、小松さんを思い出す場所によく行き当たる。
 わが思い入れの強い場所を紹介させていただく。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京の不思議」豊田有恒

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 小松左京というSF作家が、なくなったことは、単にSF界の損失にとどまらない。日本文化にとっての損失でもある。
 ぼくが、小松さんに出会ったのは、第一回、第二回の日本SFコンテストを通じてである。ちなみに、ぼくと平井和正さんが、最年少で、いわゆる第一期SF作家は、いち早く江戸川乱歩さんに認められてデビューしていた星新一さんを除いて、みな、このコンテストを通じて世に出たのである。小松さんは大阪、こっちは東京、いつも会うわけにはいかなかった。新幹線などない時代、年に一度か二度、貧乏学生が懐をはたいて、夜行列車で梅田駅にたどり着いて、筒井康隆さんが経営していたヌルスタジオへ転がりこむ。そこで、小松さん、眉村さん、堀晃さんなど、大阪の同志に出会えたのだが、そう年中いけるわけがない。そこで、小松さんとは、文通を始めた。今でいえば、メル友といった関係である。
 おたがい、まだ収入が多くはない。一枚の葉書に、表面まで、あれこれ書きつらねて送る。小松さんも、あのころは、まだしも暇があったのだろう。すぐ返事が来る。SFのこと、文化、天文、地理のことなど、こっちが知ったかぶりで書いたことに、反論されたりする。博覧強記というか、多芸多才というか、いつもギャフンと言わされてばかりいた。

【竹内博氏追悼エッセイ】「竹内君の思い出」井口健二

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 怪獣映画研究の第1人者であり、個人的には長く友人として付き合わせて貰った竹内博君が亡くなった。2年ほど前から入院して病気はその後も進行したのだろうが、一昨年12月に会ったのが彼の顔を見た最後だった。
 互いに故大伴昌司氏の弟子という立場だった彼と僕だったが、実は大伴氏の生前は顔を会わせたことはなく、初対面は氏の告別式の時だったと思う。突然少年が僕の前に現れて挨拶をされたが、思えば彼はまだ10代半ばの頃で、その割には礼儀正しく丁寧な挨拶だった記憶がある。
 ただし大伴氏からは生前に一度だけ、「井口君は怪獣に余り興味が無いようだから、そちらの方面をやってくれる若い人に手伝って貰うことにした」という話を聞かされたことがあり、多分それが彼のことだったのだろう。
 そんな彼は大伴氏の伝もあって円谷プロに入り怪獣作品のプランナーとしても活躍して行くことになるが、現実的には大伴氏という後ろ楯もなしにそれを行った彼の努力も計り知れないものだ。

【小松左京氏追悼エッセイ】『巨頭の人 小松左京』永井豪

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 「身体の半分以上が、頭で出来ている!」
 初めて、小松左京さんに会ったときに受けた印象だ。
 「TOKON5」に行ったとき、筒井康隆さん、豊田有恒さんに連れられて、小松さんが仕事場にしていたホテル・ニュージャパンを訪れた。
 「オー!君が『ハレンチ学園』で騒がれている永井豪チャンか~?!」と、小松さんは巨大な頭を振り、満面の笑みで迎えてくれた。
 「十兵衛やアユちゃんのオッパイを大きくしろ!」と小松さん。「小さめだから初々しくて良いのだ!」と筒井さん。たちまち、私をそっちのけでオッパイ論争が始まった。
 当時、『ハレンチ学園』を批判する大人とばかり会わされていた私は、即座にSF作家という人種が大好きになった。

【小松左京氏追悼エッセイ】「D-3プロジェクトのころ」谷甲州

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 ことの重大さに気づいたのは、しばらく時間がすぎてからだった。
 訃報に接したときは、とてもそんなことを考えている余裕がなかった。誰もがそうだったように、ただもう慌てふためき、動揺して足が地につかない状態だった。たしかにお歳を考えれば、いつそんなことが起きても不思議ではなかった。ことに最近は会うたびごとに痩せられて、動きも落ちていたように思う。だから心の準備はできていたはずなのだが、実際には前述したとおりの体たらくだった。様々な思いが交錯して、とても冷静ではいられない。それでも少しずつ落ちつきを取りもどせたのは、多くの著作があとに残されていたせいかもしれない。人の命は有限だが、著書は時をこえて読まれつづける――この言葉が、これほどよく似合う人は他にいない。だからこそ、一人のファンとして現実とむきあうことができた。新作を眼にすることは二度とないし、その喪失感を埋めることはできそうにない。だが膨大な作品群は、何時でも何度でも読み返せるではないか。
 そう考えて、自分の中で折りあいをつけたつもりだった。ところが実際には、まだ冷静になりきれていなかったようだ。そら恐ろしい事実に気づいたのは、さらに時間がすぎてからだったと思う。ちょっと待て。すると自分は、この世で唯一の存在なのか。他ならぬ小松さん本人と創作の時間を共有し、作者の一人として物語が生みだされていく瞬間に立ちあった――そんな希有ともいえる経験をした人物は、他にいないのではないか。私にとって『日本沈没 第二部』は、そのような意味を持つ物語といえる。

【竹内博氏追悼エッセイ】「竹内博 ― 怪獣少年とゴジラ」藤元登四郎

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 謹んで竹内博先生のご霊前に哀悼の意を表します。私は、竹内博先生と直接の関係はありませんでしたが、先生のご著書の愛読者で、偉大なご業績を尊敬しております。

香山滋全集
 私が竹内博(敬称略)を知ったのは、香山滋全集(全14巻、別巻1)(1)の責任編集者としてであった。竹内は、この全集について、「スタートしてから五年かかって、体がもつかどうか心配したが、なんとか無事に完成にこぎつけた」と書いている。この全集は、彼の努力なしには日の目を見ることはなかっただろう。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京さん」山田正紀

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 小松左京さんがお亡くなりになったのをツィッターで知ったその日から『虚無回廊』の再読にとりかかった。その他にも再読したい、しなければならない作品が沢山あって、しばらくはそのことに追われそうだ。
 悲しいか、と問われれば、悲しくないはずはないと答えるが、その悲しみも含めて、実り多い読書体験になるはずである。そのことは確信している。それに――私はもうしばらく小松さんと一緒にいたいのだ。

【小松左京氏追悼エッセイ】「SF界のブルドーザー 小松左京さんを悼む」梶尾真治

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(編集部註:この原稿は2011年7月31日の熊本日日新聞に掲載されたものです。今回、著作者様と熊本日日新聞様のご厚意により、転載させて頂きました)

 小松左京さんの訃報を聞いて、私は無意識のうちに書庫へ行き、一冊の本を取りだした。
 小松さんの処女出版となるハヤカワ・SF・シリーズ「地には平和を」だ。この表題作を、私は高校生時代に同人誌「宇宙塵」誌上で初めて読んだ。それが同時に私にとって初小松SFでもあった。
 昭和20年8月15日に無条件降伏をせず本土抗戦を日本が選んだという平行世界を描いた、もしも…の世界。
 それまで、英米SFの奇想にばかり触れていたが、初めて日本人として読んでこそ最大の感動がもたらされるSF群に出会えた気がしたものだ。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京さんの思い出」新井素子

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 知の巨人なんて言葉があるけれど、小松さんに対する私の認識は、そんなものではない。あの人は……知の化け物ではないのか。
 小松さんとお話をしたことは何回もあるんだけれど、一番印象的だったのは、何人かでトゥールダルジャンで鴨をご馳走になった時のこと。おい、トゥールダルジャンの鴨だぞ、凄いな、こんなの、小松さんがご馳走してくださるんじゃなきゃ、まず食べられないぞ。(というか、複数の人間をトゥールダルジャンで奢ってくださるって……別の意味で、小松さん、凄い。)そう思ったのに、私は、「御飯大好き、おいしい御飯は人生の意義だっ!」って思っている人間なのに……なのに、不思議な程、この時の鴨の味は覚えていない。それ以上に、この時の小松さんが凄すぎたのだ。

【竹内博氏追悼エッセイ】「竹内博さんとの出逢いと第2回SFショーが自分の原点だった」氷川竜介(アニメ評論家)

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 2011年6月27日に、竹内博さんが亡くなった。ゴジラやウルトラマンなど怪獣映画を再評価し、円谷英二ら特撮の基礎を築いたクリエイターに関する研究を生涯貫いた大先輩であり、大事な師匠である。激しい喪失感にとらわれた。
 竹内博さんはビジュアル文化の旗手・大伴昌司さんの弟子である。しかし、大伴さんと竹内さんのアプローチはすこし違っていた。
 少年マガジンの巻頭特集や怪獣の内部図解に見られるように、大伴さんはフィルムのなかにある世界をメディアなりに料理して、その地続き感を拡大してイラストなどを駆使していた。講釈師というか、ある意味、現実を過大にプロデュースすることで生じる幻惑感みたいなものを子どもに伝える役割をはたしてきたと思う。
 一方の竹内さんは、フィルムを人の手がつくりあげた作品であることをとても大切にしていた。資料主義であり、写真や雑誌記事など実物のもつパワーを信奉していた。そしてリスト魔でもあった。現実に存在する混沌とした情報を整理することで、新たに見えてくる高次の流れをつかむという点では、学究肌であった。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京の遺産を『継ぐのはだれか』」荒巻義雄

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 1 頼れる巨樹
 小松左京を巨樹に例えて書いたことがある。後発作家の偽らざる小松観だが、巨樹は多くの小鳥に巣を与え、足元に日陰をつくる。だが、年齢差のある人たちは十分に恩恵を享受すればいいが、年齢が近いと幹に近づきすぎて日陰になり、自分が大きく育たないという不安を抱いてしまう。
 私は小松さんからご指名をいただき、一九八四年に、『空から墜ちてきた歴史』(新潮文庫)の解説を書かせていただいたが、上記のような感想を率直に書いた。敬愛と畏怖のアンビバレンツが私の小松左京観である。
 もとより小松左京がいたからこそ、日本のSFは今日の地位を築けたのだと思う。創生の時代から福島・柴野時代まで、初期の日本SF界は外部から多くの批判を浴びせられたが、われわれは小松ブルトーザーを先頭にして戦ってこられたのだ。

【小松左京氏追悼エッセイ】「とりとめもない思い出」石川喬司

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 今は亡き<怪獣博士>大伴昌司が言い出した<死券>ごっこという遊びがあります。<馬券>ごっこじゃありません。「SFの仲間のうち誰が一番最初に死ぬか?」 それを当てっこしよう、というブラックな遊びです。
 全員の一致した<本命>は、しょっちゅう飛行機で海外取材を続けている<デブで大食漢の小松さん>でした。万事に鷹揚な小松さんはまったく気にせず「バカヤロウ」と笑っていました。ところが最初に死んだのは、この遊びの発案者・大伴昌司でした。彼は新橋の中華料理店で行われた日本推理作家協会恒例の新年会の<犯人当てゲーム>の最中に持病の喘息発作に襲われ服薬して別室で安静中に急死したのです。その結果、彼の命日にはSFの仲間が鎌倉への墓参を兼ねて熱海へ一泊旅行に出かけることになり、皮肉なことにその命日が誕生日に当たっていた小松さんは「おかげで誕生パーティが開けない」とコボシながら旅館での徹夜麻雀を楽しんでいました。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京氏を偲んで」川又千秋

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 一九六九年、九州で開催されたSF大会(Qコン)でのこと。当時学生だった私は、一の日会の連中と一緒に、一足早く会場の日田温泉に乗り込んでいた。ところが、大会前夜、台風か何か影響で、ゲスト作家の多くが途中足止め。そんな荒天をモノともせず、一人、タクシーを飛ばして駆けつけてきたのが、小松左京氏だった。
『復活の日』『日本アパッチ族』……さらに『果しなき流れの果に』など、巨編、話題作を連発していた小松さん。そんな氏が演壇に登り、講演をはじめた。
「……実は今、ある出版社で、非常に大きな構想の作品を準備中である。そのアイデアというのは……」と切り出して、その頃、最新の学説であったプレートテクトニクスを解説し、「これを基に、数万年かかる地殻変動を加速してやることで、日本列島を太平洋に沈め、結果、祖国を失った日本人が、どのように民族的文化的同一性を保っていけるかを探る思考実験を目指す……」といった内容を熱っぽく訴えたものである。
 言うまでもなく、ここから生まれたのが『日本地没』であり、我々は、図らずも、その孵化段階に立ち会う幸運を得たのだ。

【竹内博氏追悼エッセイ】「戦友竹内博君との思いで」西脇博光

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 私と竹内博君との付き合いは一体何年になったんだろう。
 彼と始めての出会いは、昭和47年、大学一年生で、同じクラスにいた安井尚志君(特撮映画・テレビ評論編集者)の紹介で六本木に円谷プロダクションの事務所があり、当時小学館より刊行された円谷一編著「円谷英二・日本映画界に残した遺産」を受取に行った時であった。
 その後祖師ケ谷大蔵にある円谷プロダクションに竹内君が移り、毎週日曜日特撮ファンが集まるようになり、彼の提唱のもと「怪獣倶楽部」の同人誌を発行するに至り、私も音楽評論文を書くようになった。
 私が、会社勤めをしながら、LP「ゴジラ」を始め様々なレコードの構成を担当させてもらったのも全て彼の勧めによるものである。

【竹内博氏追悼エッセイ】「竹内博さんの意外な一面」難波弘之

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 突然の竹内博さんの訃報は、かなりショックでした。

 もう十年ほど前のことですが、「実は僕、隠れ香山滋ファンで、全集も持ってます」と、あるパーティの席上で告白したら、あのシャイな感じのままでしたが、嬉しそうに相好を崩されて、「一度うちに遊びにいらっしゃい」と言って下さいましたので、これを真に受けて図々しくも本当に押し掛けました。
 その時は東北沢の駅まで出迎えて下さり、井の頭通り沿いのアパートへ案内されました。

 他の本はご実家に置いてあるそうで、ほとんど香山滋の本しかありませんでしたが、ジュブナイルに至るまで、本当に状態の良いコレクションが整然と並べられ、しばし色々手に取って拝見させて頂きました。

 「難波さんはどの作品が一番お好きですか?」と訊かれ、迷わず「『地球喪失』です」と答えると、「ああ、あれはこうですねああですね」と、実に的確なお話が返って来ました。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松さんの思い出」(抄)横田順彌

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 初めて、小松さんに声をかけていただいたのは、どこかのお寺で開かれたSFコンベンションの休憩時間。ぼくが賽銭箱の脇に座っていると、うしろから誰かが肩を叩いた。
「おい、横ちゃん」
「えっ、あっ、小松さん!」
「知ってたか」
「知ってますよ。小松さんといったら……」「そんなことは、ともかくだ。横ちゃん、きみの『日本SFこてん古典』は、おもしろいぞ」
 こんなファーストコンタクトは、生まれてはじめてだった。「おい、横ちゃん」だもんね。

【小松左京氏追悼エッセイ】「夢のよう」伊藤致雄

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 受賞の時、編集者から電話がありまして、「明日の夕方、小松先生と対談をして欲しい」(小松左京マガジン第20巻にその対談が載るのです)。
 翌日、編集者と一緒に小松さんの事務所に伺いましたら、丁寧な挨拶をいただき、大変に恐縮しました。もちろん初対面です。小松さんは年を召しており、見た目はお爺さんでしたが、お話はそれはまた大変に愉快で、わたしが知らないことを何十倍も知っておりました。大作家ですから、当然ですね。
 当時、わたしの歳は63、小松先生は74歳でした。

【小松左京氏追悼エッセイ】「小松左京先生のこと」有村とおる

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 子供の頃、ギリシャ神話を読んで空想を広げると、想像の世界にはオリンポスの神々が実在していました。想像世界の実在感があまりに強かったので、ギリシャはすでに失われた国、アトランティスやムー大陸のような伝説の世界にちがいないと感じていました。やがてギリシャが地中海に面した国であり誰もオリンポスの神々を信じていないと知ったとき、私の心の神話は崩壊して不思議な違和感だけが残りました。
 小学生のときから物語を読むのが大好きで、とくにSFを手当たりしだいに読みふけったためSFが空想の中で身近な存在になっていました。40年前に豊田有恒さんの書いた作家たちのゴシップ、星新一さんの漏らした悪口の話に笑い転げながら、どこかSF作家が現実の人間と感じられず、オリンポスの神々のように想像世界で生き生きと活躍している人々に思えていました。小松左京先生はそうした伝説の巨人たちの中で、ひときわ大きなスーパーマンでした。

【小松左京氏追悼エッセイ】「ただただ、残念です」長山靖生

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 日本は今、一番指導を仰ぎたい人を失ってしまいました。
 小松左京先生は日本SF界の牽引役であったばかりでなく、二十世紀後半の日本を代表する知の巨人でした。今更、私ごときが言うことではありませんが、先生の知的好奇心はきわめて旺盛かつ柔軟で、文学はもちろん、先端科学から社会・政治、さらには落語や芸能界にまで幅広く、かつ深く及んでいました。SF大会などでお目にかかると、話題があまりに豊富で、しかも冗談混じりであちこちにジャンプするので、戸惑うこともありました。しかしお別れした後で、会話の文脈を反芻してみると、話題転換の背景に先生の明晰な思考の軌跡が察せられ、その鋭さとスピードに驚嘆したものです。お忙しいなか、それでも若輩者にアドバイスしてやろうと、あれこれ圧縮して話して下さっていたのだと思います。さすがはコンピュータ付ブルドーザー。

小松左京さんを偲んで(寄せ書き)

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 本サイト「SF Prologue Wave」は、この度の小松左京さんの訃報に接し、SFにも、また日本SF作家クラブにも、多大なご貢献のあった氏に敬意を表し、ここに小松左京氏の追悼企画として、天国の小松さんへ会員有志による『寄せ書き』を捧げます。
 ただし、ここにあるものが全てではありません。『追悼エッセイ』としてご寄稿いただいた方もおられます。また、氏の訃報は我々会員にとって衝撃であり、「ショックで、今はまだ何も書けません」と申される方が多数おられたことも、ここに付け加えさせて頂きます。
 小松左京さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。(「SF Prologue Wave」編集部一同)