カテゴリー: ショートショート

「螺旋の恋」倉数茂

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 少年は劣等生だった。決して不真面目でも愚鈍でもなかったのに、教室で聞く教師の言葉は、耳から流れ込む端から忘却の井戸に吸い込まれてしまって、脳髄にかすかな引っかき傷も残すことができなかった。黒板に書かれた図形は、未知の海域の航図にしか見えなかったし、プリントの問題は、石板に刻まれた古代文字のように意味不明だった。少年は教科書の余白を、空想上の獣たちで埋め尽くした。グリフォンが放物線を齧り、火蜥蜴がアルファベットのあいだにすべり入った。漢字の森で遊んでいた白澤(はくたく)は、偏や旁(つくり)の向うから九つの眼でこちらを睨んでいた。
 注意力に障害があるようです。それと、極度の内向性。調査結果を記した書類を見ながら医者はそう言った。目の前のものごとに集中できず、いつでもぼんやり空想世界をさまよっているんですな。もっともお子さんの年頃ではきわめて珍しいというほどでもない。まあ、しばらく様子を見てみましょう。
 自分が頭蓋の内側に棲まっていることを見抜かれて少年は動揺した。けれど医者にもわからなかったのは、そこがどれほど豊饒かということだった。そこには砂漠と氷山と沈んだ海賊船とがあって、それと比べたら、頭蓋の外の日常など、食卓に残された鳥の骨のように貧相でみすぼらしい存在に過ぎなかった。もっとも彼は努力もした。両親に叱られ、教師に注意されて、今日こそなんとか現実のかけらにしがみついていようと頑張っても、十五分もしないうちに空想の海に漂いだしているのだった。

「風よりも速いシカ」高橋桐矢


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 年老いたシカの耳に、トンボが止まりました。
 耳を動かすと、トンボは、つうと飛んでいきました。
 のんびりとした森の午後です。
 年老いたシカは、立ったまま、うつらうつらとしています。このごろは、一日の大半をそうしてすごしています。
「おじいさん。こんにちは」
 声に目を開けると、目の前に、若いシカが立っていました。体は一人前の大きさですが、まだ角は短く、やっと二年目の枝が生えてきたばかりです。鼻先はつやつやとしたピンク色で、体中に若さがみなぎっています。
 若シカは礼儀正しく前足をそろえてたずねました。
「風より速いシカ、を知りませんか?」

「ゆうやけ」東條慎生(画・寮美千子)


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 石けりあそびにあきたとき、きがつけば、ボクはどこにいるのか、わかりません。
 石けりあそびにむちゅうになって、しらないばしょに、きてしまったようです。
 空がオレンジ色になっていました。そろそろ、かえるじかんです。
 けれども、道がわかりません。
 道をききたくても、だれもいません。
 かべばっかりで、せまい道が、まっすぐ、まっすぐ、つづいています。
 むこうから、人のこえがしています。
 道をあるいていくと、だんだん人のこえが、大きくなってきました。

「腹の中のネズミ」高橋桐矢


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 猫が、小さなネズミを追いつめました。
 絶体絶命のネズミは、目をいっぱいに見開き、ぶるぶるとふるえています。
「猫さん、どうかお助けください」
 猫は、目を細めました。それほど腹がへっているわけではありません。
 ネズミは祈るように手を合わせました。
「助けていただけたら……」
「助けたら?」
 白いひげの生えた鼻をひくつかせ、ネズミはふるえながら微笑みました。
「あなたの友達になります」
 ネズミの言葉を聞くなり猫は飛びかかりました。
 ごくりとまるのみして、ネズミは腹の中におさまりました。
「ふう……」
 腹がふくれていっぱいになりました。猫は一つ、げっぷをしました。
 猫は友達なんて欲しくありませんでした。
「わたしはたいくつしていたのだ。面白い話をしたら、助けてやってもよかったのに」
 すると、まるまるとふくらんだお腹から、小さな声が聞こえてきました。
「本当ですか? 友達が欲しそうな顔をしていましたよ」

「追想」八杉将司

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 国際自然保護連合(ICUN)がレッドリストを作成したら、人類も掲載されることになるだろう。保全状況カテゴリーCR(絶滅寸前)に。
 もちろん滅びかけている人類が自然保護なんて気にかけるはずがなく、レッドリストに自分たちを載せる自虐めいた冗談なんてやっている余裕もなかった。
 原因は複雑に絡み合った事情が重なっているので簡単には答えられない。というか明確な答えを知っている存在は地球にいなかった。ぼくだってわからない。
 一つはっきりとわかっていることは、寝たきりの年老いた父さんが死んだら、この地域一帯から人類はいなくなるということだ。

「拷問島」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その少女が島唯一の船着場に姿を見せたのは、春まだ浅き三月中旬の午後だった。
 小柄な体にはいささか大きすぎるように感じられる茶色いダッフルコートに、無骨なくらい大きな革鞄。髪は短くカットしていて大きな黒縁眼鏡を掛けていた。
「はじめまして、密原トリカです。しばらくお世話になります」
 出迎えた私に彼女は元気な声で言った。
「ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙な島で若いひとが楽しめるようなところもありませんけど、魚は美味いし宿には温泉もあります。どうぞゆっくりしていってください」
 彼女を案内して私が営んでいる宿屋へと向かった。
「大学では何を勉強されているんですか」
「民俗学です。今は卒論の準備中なんです」
「それでここにいらしたんですか。しかしここに大学で研究するようなものがありましたかねえ」
「ありますとも。わたしがこの島――小紋島に興味を持ったのは、もうひとつの名前を聞いたからです」
「もうひとつの名前というと……」
「拷問島。そう呼ばれてますよね」

「円筒の空/羊たちの雲」伊野隆之

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 最後のイベントである羊の毛刈り体験を終えた視察団のメンバーは、それぞれに満足した様子でくつろいでいた。全員が投資家で、牧場のスポンサーになっている人もいれば、これから投資を検討している人もいる。もちろん、ほぼ全員が羊の毛を刈るのは初めてで、本来なら悲惨なことになっていてもおかしくなかった。
「いやあ、おもしろい体験をさせてもらいました。案外、簡単なものですなぁ」
 そんな声が聞こえてくる。羊の毛を刈るマニュピレーターからのフィードバックは繊細で、どこまでもリアルにできているから、まるで、自分で毛を刈ったような気でいるのだ。
「みなさん、本当にお上手でした」
 牧場管理責任者のジェンキンズが、まるで揉み手をするかのように応じていた。
「それに、全然臭いませんでしたな。動物は臭いものだと思っていたが、そんなにひどくはなかった」
 大口のスポンサーのランド氏だった。ニュージーランド出身で、何代か前の祖先に牧場主がいたというランド氏は、この牧場の最も新しいスポンサーの一人だ。彼は、牧場を持つことが夢だったと言い、今回の視察中ずっと上機嫌にしていた。
「ええ、ここの羊たちは清潔にしていますから」
 ジェンキンスの答えに、つい口を挟みそうになるが、そこは何とか自重した。

「緑陰の家」倉数茂


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 初めてその家屋を見たとき、わたしは思わず威彦らしいと微笑まずにはいられなかった。
 繁茂する緑の蔓草が外壁の全体を荒々しく覆いつくし、家という内側に空虚を抱えた存在を、ひとつの旺盛な生命の塊に変えている。もっとも、人さえ住んでいれば、ここまで植物が我が物顔に這い回ることもなく、だからこれはむしろ威彦の不在に由来する事態なのかもしれない。
 なんにしても、近所の住人や大家は苦虫を噛み潰しているだろうと思うと、笑いはすぐに溜息にかわった。なにしろこれから滞納している家賃を払いに行くのは自分なのだ。
 威彦が行方不明になって三ヶ月になると連絡を叔父から受け取ったのは二日前だった。いつものようにニューギニア高地へフィールドワークに向かったのだが、帰国予定日になっても戻らない。帰国の遅延などよくあることだが、問題は、四月からI大学の講師の口が決まっていたことである。恩師であるK教授は、しばらくは事務方をなだめておくとおっしゃってくださったそうだが、このままでは初めての就職口をふいにしかねない。
 しかしそれよりもわたしの耳をそばだてさせたのは、成田からの電話で威彦が告げたという、今度は嫁さんを連れて帰るからということばだった。つまり威彦は現地に恋人がおり、結婚まで考えていたということだ。
 どのような女性なのだろう。わたしの好奇心は刺激された。嫉妬の気持ちは微塵もなかった。威彦とは愛や性よりも、もっと深いもので結ばれていると感じている。
 だから、一部のものが案じるように、すでに死んでいるという可能性も一蹴した。どんなに非科学的と嗤われようが、威彦が死ねば、自分がそれに気づかぬはずがないと思う。

「オメガ・メタリクス」東條 慎生


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 ドリルの高周波もずっと聴いていると気にならなくなってくる。チクリと麻酔を打たれて痛みもない。それ以上に、ガリガリとそんなに削っていいものなのかということに不安を感じる。もちろん医者がやってるんだから大丈夫なんだろうけれど、そうはいっても削りすぎではないか、いいのかそれで、と言葉が頭に渦を巻く。そしてどんどん金属質になっていく自分の歯。どうだ、おれのメタリックな歯は、強そうだろう、という冗談を思いついたものの、いったい誰に言うのか。自分にか。

 叔父がまだゴルフバッグを担いでいなかった頃、自分がまだ酒も飲めない年だった頃、叔父の病室に通されたときの異様な感覚。ひとことでいえば、誰かの体の中に入ってしまった感覚だといえばいいのだろう。けれど、そんな表現が誰かに通じるわけがない。でも、そうとしか言いようがない。
 叔父はそのとき、ベッドに寝たきりで起きあがることができなかった。鼻や口や喉や腕やら体中から管やコードが延びていて、ベッドの脇の大きな機械へとつながれていた。両親に連れられて入ってきた自分を見たとき、叔父のマスクに覆われた顔がわずかに笑みを浮かべたのがかろうじてわかった。喉にも管が通っていて声も出せないので、胸元にあるキーボードを寝ころんだまま起用にたたいて、ひさしぶり、と頭の横のディスプレイに打ち出した。

「ゾガネスの末裔」礒部剛喜

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 ……バビロンでは毎年サカエア祭が行われていた。……そのあいだ……死刑囚は王衣を着せられ、王座について、好き勝手に命令を出し、飲み食いして楽しみ、王の愛妾と寝るのを許される。だが、五日たつと、王衣をはぎとられて鞭打たれ、絞首刑かくし刺しの刑に処されるのである。この短い在位のあいだ、その死刑囚はゾガネスという称号で呼ばれた。

――ジェイムズ・ジョージ・フレイザー卿『金枝篇』(一八九〇年)



「地球は狙われている……か」
 全人類の運命に関わるような物語は往々にして、核戦争勃発直前に突如飛来した巨大な宇宙船が、世界から戦争を駆逐して黄金時代をもたらすとか、田舎町に着陸した未確認飛行物体が、そこの住民をみな眠らせてしまい、受胎可能な女性たちに子供を孕ませるとか、中国の奥地に降下した地球外生物と確実に推定される未知の集団が問答無用で攻撃を加えてくるとかで始まるものだが、この驚異に満ちた物語の幕開けは、濃いレイバンのシューティンググラスで双眸を隠した、見るからに精悍そうな若者が、上海の摩天楼に囲まれた古色蒼然たる洋館を見上げながら、そう呟くところから始まる。
「情報のとおりなら、ここにあの娘が囚われているはずだ。そして彼女も……」だが、その青年は自分が複数の影に監視されていることに気付いていなかった……。

「庭の仏様」飯野文彦

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「おい、庭に仏様が来ている」
 祖父が言った。私は答えた。
「そう、良かったね」
「ああ、ほんとうにありがたいことだ」
 祖父は、流しに向かって、コップに水を入れる。
「飲むなら、ここで飲めばいいのに」
 またあちこち零したら、母さんに叱られるから……とまで言う前に、
「おれが飲むんじゃない。仏様にあげるんだ」
 と言って、祖父は台所から姿を消した。
 今度は仏様かと思いながら、私は渋茶を啜った。時刻は午前十一時を回ったところである。私は二階にある自室から降りてきたばかりだ。仕事と称して明け方近くまで起きていた。そのくせ原稿は進まず、隠しておいた焼酎のボトルを一本空けていた。完璧なる二日酔いである。

「誰か私を眠らせて」青木 和

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「猫が死んだの」女は言った。
「仕事が終わって家に帰ったら死んでいたの。お気に入りのベッドで、いつもみたいに丸くなった格好のまま、息だけが止まってた」
「病気?」男は尋ねた。
「そうね。あちこち悪かった。けどもう十七歳だったから、老衰というのかもしれない」
 女は前を見つめたまま短い笑い声をたてたが、ちっともおかしそうには聞こえなかった。
「撫でたらね、まだ温かかったのよ。もう少し待っていてくれたら間に合ったのに。毎日私の帰りを待っててくれたのに、こんな時だけ先に行っちゃうんだから」
 男は、女の笑い声がわずかに震えるのを聞き取ったが、何も言わなかった。男もまた前を見つめていた。フロントガラスに二人の影がぼんやり映っている。車内は暗く、お互いの表情は分からない。
 車の外もまた暗い。正面は海のはずだが何も見えなかった。窓を閉め切ってしまったので、かすかに聞こえていた波の音ももう入ってこない。
「ミャアはね──猫の名前だけど、息子が拾ってきたの。親猫にはぐれたのかしらね、道端で鳴いてたっていってね。汚い子猫だったわ。痩せこけて蚤だらけで、風邪をひいて目脂でぐしゃぐしゃで。私、息子に嫌な顔したの覚えてる」
「猫が嫌いだった?」
「そうじゃないわ。嫌な顔したのは、息子が小さかったから。まだ自分の面倒も見られない年のくせに子猫なんかどうするの、って。でも息子が、触るのもためらっちゃうような猫を可哀想にって抱きしめられる子だということが嬉しくもあった。ちょっぴりね」

「数学嫌いの治し方」谷田貝 和男


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 夏休みの午前。カレンダーの8月の日付は、もう残り少ない。
 庭木からは、ツクツクボウシの鳴き声がしきりに聞こえてくる。
 サッシの向こうで、ぎらぎら照らす太陽。
 クーラーから送られる冷風に揺れる風鈴。
 机代わりのお膳の上には、切った西瓜を並べた皿。
 そして……夏休みの宿題。
 この日は朝から、数学のドリルに取り組んでいるのである。
 ……出来ない。
 難しすぎる。そもそも、何を言いたいのか全然分からないのだ。
 複素数。二次方程式。ベクトル。サイン、コサイン、タンジェント……。
 ぼくの両親は理系の研究者。ここは大学の教員住宅だというのに、自分にはなぜか、その方面の資質は遺伝しなかったよう、なのだ。
 冷房は効いているはずなのに、脂汗が出てくる。
 そのとき、お膳の上のスマホが震え、かたかた鳴った。
 メッセージの着信があった。

  イタルへ。まなもです。いまから遊びに行っていい?

「見守り」谷田貝 和男


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「ごめんなさい。もう悪いことはしないよ。これからはおばあさんのお手伝いをするから、ゆるしてよ」
 たぬきはおじいさん、おばあさん、そしてうさぎにあやまったので、うさぎはたぬきを助けてあげました。
 心を入れかえたたぬきは、おばあさんのてつだいをしてくらしたそうです。めでたし、めでたし。

 ぼくの読んだことのある民話『かちかち山』は、こんな終わり方になっている。
 しかし、本当の結末は違うことを、大きくなってから知ることになった。おばあさんは鍋で煮られ、その報いとしてたぬきは泥船に乗せられ、船が溶けておぼれ死ぬのだ、という。
「年齢指定により適切な描写に変更されております」
 それは、電子書籍タブレットに表示された「絵本」の巻末に記されていた文句だが、幼い頃はまだ、その意味が分からなかった。
 オリジナルのラストは子供に読ませるには残酷すぎる、ということらしい。
 だからぼくは、『かちかち山』の本当のラストを読んだことがない。

「井原西鶴が平成に飛ばされて好色シリーズというラノベを書いています。」木本雅彦


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 どうも、西鶴です。
 平成時代というところに飛ばされてきたのですが、することがないので文章を書きました。「小説家になっちゃいな」というサイトにアップロードして公開していたら、B芸社のSさんという編集者の目にとまって文学を書かないかと言われたのですが、西鶴としてはラノベのほうがいいかなって思って、ラノベ書いてます。
 西鶴、そういう路線だから。
 西鶴は西鶴のことを西鶴って呼ぶけれど、それは何ていうの? ポリシー?
 それとも、シーポリ?
 あ、ごめんごめん。平成の時代になって、業界用語はないよね。
 めんご、めんご。
 というわけで、西鶴が書いているラノベについて話そうと思います。

「あの世へ昇るエレベーター」片理誠

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 気がつくと暗がりに一人で立っていた。どこだ、ここは? 辺りを見回す。私は確か法廷にいたはずなのだが。
 何か、硬くて平らなものの上であることは、靴底からの感触で分かる。床、か。周囲はひんやりとしてはいたが、寒いというほどではなかった。完全な無風だからなのかもしれない。音は何も、いや……遠くからかすかに何かを叩くような響きが聞こえる。
 音のする方に振り返ると、遙か彼方に小さな明かりが見えた。

「優しい母さん」高橋桐矢


(PDFバージョン:yasasiikaasann_takahasikiriya
 しとしとと冷たい雨が降っています。
 お腹をへらした子ギツネが、とぼとぼと山の道を歩いていました。一日ずっと歩き通しなのに、朝から何も口にしていません。
 雨で、えもののにおいが消えてしまっています。痛いほどお腹がすいて、寒くて、しまいには眠くなってきました。でも、このまま巣穴に帰ることはできません。
 子ギツネは、今朝、母さんに「えものを取るまで絶対に帰るな」と、恐ろしい形相でにらまれて追い出されたのです。
 涙で視界がにじみます。
 すると、
「あらあら、もう暗くなるわよ。どうしたの」
 優しい声に顔を上げると、知らないキツネのおばさんがいました。
 子ギツネは、思わず声をあげて泣いてしまいそうになりました。寒くて心細い体と心に、優しい声が、じんとしみます。
 でも、ここで泣いてしまったら、今日一日、苦労して歩き回ったのが無駄になってしまうような気がしました。
 だから足をふんばり、胸を張って答えました。
「えものを探してるんです」

『ソルジェニチン作「桃太郎」』林譲治

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 これら群島に収容されたとき、あなたはこう思うだろう。「これは何かの間違いだ。明日になれば、内務省局員が、いや、申し訳ない、こちらの手違いでした。よく似た名前の人物が多いのは、あなたもご存じでしょ、と言って釈放してくれるの」と。そう逮捕されたときの私が、まさにそうだった。革命後の世代、赤軍将校として戦った私が、なぜ逮捕されると?
 ここで私が指摘したいのは、群島における、密告屋の存在と、内務省局員の能力、特にその技術面である。私が最初に収容された群島には、桃太郎という内務省に属する将校がいた。彼はその立場にもかかわらず、非常に好ましい人物に私には思えた。
 告白しよう。私はその時、桃太郎だけは同じ種類の人間だと思っていたことを、そして彼もそう思っていてくれると確信していたことを。

「太郎」春名功武


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 昔々、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。川辺で洗濯をしていると川上から、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな大きな桃が流れて来ました。お婆さんはそれを家に持ち帰り、お爺さんと一緒に桃を割ると、中から「オギャーオギャーオギャー」と元気な赤ちゃんが出てきました。そして、2人はその赤ちゃんを『桃太郎』と名づけて育てる事にしたのです。
 一方。東北の山あいの村でも、お婆さんが川で洗濯をしていると川上から、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな大きなスイカが流れて来ました。お婆さんはそれを家に持ち帰り、お爺さんと一緒にスイカを割ると、中から赤ちゃんが出てきました。そして、その赤ちゃんを『スイカ太郎』と名づけて育てる事にしたのです。
 美しい湖がある小さな村でも、お婆さんが川で洗濯をしていると、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな大きなバナナが流れて来ました。お婆さんはそれを持ち帰り、お爺さんと共にバナナを剥くと、中から赤ちゃんが出てきました。そして、その赤ちゃんを『バナナ太郎』と名づけて育てる事にしたのです。
 その年はこのような異常現象が全国各地の村で起こり、果物から生まれた赤ちゃんの豊作となったのです。不思議な事に川から流れてきた果物は全て違う種類で、2つとして同じ物はありませんでした。見た目は人間とほとんど変わりはありませんが、大きくなってからも彼らの身体からはそれぞれの果物の匂いがしたそうです。

「名前のないゾウ」高橋桐矢


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 広いサバンナに、名前のないゾウがいました。
 昼間はひとりで草を食べながら歩き、夜はひとりでねむりました。
 名前なんてなくても平気でした。
 名前というのは、ほかの誰かが呼ぶときにいるものです。そのゾウを呼ぶものは誰もいなかったので、名前なんて必要ないのです。
 おぼえているかぎり、ずっと昔からひとりでした。
 でも、困ることは何もありません。
 大きくて重いゾウがサバンナを歩くとドシン、ドシンと地面がゆれます。とてもりっぱな二本の牙は、するどくとがっています。長い鼻は、サバンナの一番高い木のてっぺんにもとどきます。
 おいしい草の生えている場所も知っているし、どんな日照りのときにも枯れない川も知っています。
 サバンナの動物たちにとって、水場はとても大切です。川の一番つめたくてきれいな水を飲める場所が、ゾウの水場でした。のんびりしているように見えて怒りっぽいカバも、さわがしいシマウマも、すばやいハイエナも、ライオンだって、ゾウの水場には近付きません。
 何にも困ったことはないし、名前をほしいと思ったこともありませんでした。

「骸の船」伊野隆之

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 急に、いろんなことが変わってしまったの。町の人はみんないなくなってしまうし、それに、いつまでも夜が続いているのよ。街灯はいまにも消えてしまいそうに瞬いて、冷たい風もどんどん強くなる。お店はみんな閉まっていて、これからどうすればいいかわからないの。
 放送は聞かなかったのかい。港に集まるように、繰り返して放送していたはずだよ。この町はもうすぐ住めなくなるから、それまでにこの町を離れなければいけないんだ。だから急がないといけないんだ。
 悪い噂を聞いたのよ。港に行った人は、誰も帰ってこないというの。埠頭には、骸骨のような、気味の悪い船が泊まっていて、港に行くとその船に、無理矢理乗せられてしまうのだって。船に乗る人たちは、みんなが死人のように歩くのだって。
 噂を気にしちゃいけないよ。港には船が来ているし、町の人は船に乗り込んでいる。だから、なにも心配することはないんだ。この町にいたままでは、町と一緒におしまいになってしまう。船は、みんなを助けにきたんだよ。

「浮気」春名功武


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 いい加減にしてくれ。私は目の前の光景に、うんざりした気分になった。予定より早く出張先から戻ってみれば、またこの仕打ちか――
 寝室のベッドで女房とあいつが裸で寄り添い寝ている。どう見ても、男女がコトを終えた後としか思えないありさまだ。きつく鼻をつく生々しい異臭が、絡み合う2人を容易に想像させる。何度も頭を振り、脳ミソから追い出そうとするが、叶わなかった。
 私の留守をいいことに男を連れ込むなんて、許せるわけがない。腕の中で眠る女房の顔は、無邪気な子猫のようで、私に見せるどの顔とも違っていた。それがまた腹立たしかった。
 もう何度目になるだろう。私は女房を叩き起こして怒鳴りつけた。しかし相変わらず反省の色は見えない。眠りを遮られた事への不満からか、ふてぶてしい顔で睨みつけてきた。そして、若かった頃からするとすっかり変わってしまった、丸い身体にガウンを羽織り、タバコをくゆらし始める。動じることなく堂々としているのは、女房には、浮気をしているという実感がないからなのだろう。それでも女房の横にいるこいつは、生身の人間の男だ。この男を選んだ事自体が、今の私への否定に他ならない。

「ゼロ2」山口優

(PDFバージョン:zero2_yamagutiyuu
「天頂方向、誤差修正プラス2・〇、宜候――。着艦角度問題なし。発着電磁管レール電圧正常。光帆たため」
 私は「光帆たため」の指令に合わせてスイッチを押す。薄いナノ反射膜である光帆はほぼ一瞬で収納され、途端に、今まで航宙母艦「赤城」から受けていたコヒーレントなガンマ線ビームに伴う減速がなくなる。母艦と私の航宙戦闘機「ゼロ」の相対速度は未だに三〇〇メートル毎秒。その状態で、我が「ゼロ」は「赤城」の航宙機発着管に飛び込んだ。
 凄まじい減速。私の機械の体はパイロットシートに押しつけられる。長さ三〇〇メートルの航宙機発着管いっぱいに電磁レールで減速され、発着管の底に到達したときには、彼我の相対速度はほぼゼロになっている。
 ずん――。
 鈍い音と共に、残りの相対速度が発着管の底の衝撃吸収剤によって解消されたことを感じる。
「レイ」
 先に着艦していたい日向絵留少尉が通信してきた。
「報告してくる。また後で。――今夜、二人で祝勝会よ」
「了解しました」
 私は自分の機械の頭脳の情動パラメータがおかしな値を取っているのを自覚しながら、そう応答した。

「建売館の殺人」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:tateurikannnosatujinn_ootatadasi

 その女性は日曜の昼下がり、私が妻と遅い昼食を終えてコーヒーを楽しんでいるときに我が家のインターフォンを押した。
 女性と言ったが、第一印象はむしろ少女と呼ぶべきものだった。小柄でショートカットの髪。小さな顔には不釣り合いに大きな黒縁眼鏡。身に着けているダッフルコートはいささか大きめだった。そしてそんな愛らしい風貌に似合わない、無骨で大きなバッグを抱えている。
「密原トリカと言います。黒死館大学の建築科に在籍する学生です」
 玄関先で彼女は自己紹介した。はきはきとした物言いだ。なかなか好感が持てる。問題は、彼女のことをまったく知らないことだった。
「どういうご用件ですか」
「わたし、卒論で城之内実朝の研究をすることになりました。それで協力してほしいんです」
「じょうのうち……誰ですか、それ?」
「日本最高、いえ、世界屈指の建築科です」
 トリカと名乗る少女は頬を紅潮させて言った。
「彼が設計した建築物は他に類を見ないユニークなものなんです。なのに今まで誰も彼の作品について研究調査をしていません。わたしが城之内実朝研究のパイオニアとして建築界に名乗りを上げるためにも、そしてもちろん卒論を完成させて大学を無事卒業するためにも、ぜひとも山田さんのお力添えをいただけませんか」
「力添えって……何をすれば?」
「お宅を調べさせてください」
「この家を? どうして?」
「だから、このお宅が城之内実朝の作品なんですよ」
 トリカはじれったそうに言った。
「うちが? だってここ、五年前に買った建売住宅ですよ。そんな立派な建築家に作ってもらったような建物なんかじゃ――」

「わたしを数える」高島雄哉


(PDFバージョン:watasiwokazoeru_takasimayuuya
 まどろみながら今日もわたしは井戸の底で皿を数えている。
 計算機が形成するこの架空のお化け屋敷を訪れる人間は少なく、まして屋敷の最奥のわたしの井戸までやってくるのは余程の趣味人か暇人、あるいは迷子だけだ。
 人間は思考補助機によって仮想現実に意識を移し、手軽に現実以上の体験ができるようになった。計算機は仮想の遊戯プログラムを増やし続けている。人間はそれらで遊ぶのに忙しく、わたしが暮らすお化け屋敷はすっかり閑散としているのだった。
 だが人間が来ても来なくても、わたしはただ皿を数え続ける。数えることがわたしのすべてであるかのように。
「あの、お姉さん」
 縁台に男の子が立っていた。わたしはいつものように眠たくて今まで気付かなかった。

「追憶負債者」窓川要


(PDFバージョン:tuiokufusaisha_madokawakaname
「それではいつも通り、楠木さんからは――息子さんとの記憶を、息子さんからは――楠木さんとの記憶を、それぞれ消去いたします」
 はい、と私は答えた。女性係官はキャリーバッグから認証用のタッチパッドを取り出し、目も合わせずにこちらへ寄越した。私はそれを受け取り、掌を重ねて認証を済ませ、そっと壁に立てかけた。手狭なアパートの玄関だ。私と息子と係官、三人も腰を下ろしていれば、物も置けないほど窮屈になる。
 係官はバッグを開き、二組の装置を取り出し、私と息子に差し出した。フルフェイスヘルメットのようなそれは、俗に「壺」と呼ばれている。私は「壺」を被り、アジャスターを締めた。真っ暗な「壺」の内側を見つめた。顔の前面には空間があるが、後面から首筋にかけてはジェルクッションが密着している。ひんやりとした感触が背筋を震わせた。
「起動します」
 係官の声と共に「壺」の中にゆらゆらと光が漂い始め、顔面を撫でた。青く冷たい光は水底のようだった。

「クリスマスプレゼント」春名功武


(PDFバージョン:christmaspresent_harunaisamu
 12月最初の日曜日。3歳の息子はオモチャ屋の広告に魅入っていた。クリスマス前になると、どこの家庭でもよく見られる光景だろう。そしてその日、私宛に一通の妙な手紙が届いた。封筒に差出人は書かれておらず、代わりに西洋柊とベルの模様が入っていた。どうせどこかのクリスマスセールの案内状だろうと安易に考えていた。ビリビリと封を破ると、便箋と千円札が3枚入っていた。新手のクリスマス戦略なのかとも思ったが、どうも様子が違うようだ。便箋は2枚にも渡り、達筆な文字で丁寧に書かれてあった。
 私はゆっくりと読み始めた。手紙を読み終えると、すぐさまライターで火をつけて燃やした。燃えゆく炎を見詰めながら、ふと幼い日のことを思い出した。

「クリスマスキャロル」飯野文彦

(PDFバージョン:christmascarol_iinofumihiko
 昼近くに目を覚ました。どこぞへ飯でも食いに行こうとした。いつもの習慣で、玄関先のポストを覗くと、引っ越し、宅配ピザのチラシといっしょに一通の封筒が入っている。
 表に〈井之妖彦様〉と私の名前が書いてあるだけだった。住所も書いてなければ、切手も貼ってない。怪しげな勧誘、案内の類かと想いながらも、裏返した途端、私の目はくぎ付けとなった。
 H・N子と書いてある。表の私の名前同様に、淡い青インクで書かれていることも、ますます私を動揺させた。
 辺りを見回した。私が住むぼろ長屋の前の露地に、人けはなかった。十メートルあまり離れた場所にいた三毛猫が、立ち止まり、私を見ていた。動物の勘というやつで、ただならぬ気配を感じたのかもしれない。
 一瞬、迷った。投函した主が、まだそこら辺りにいるかもしれない。追いかけようか。だが足は動かなかった。代わりに外出を止め、家内に戻った。
 玄関戸を閉めるなり、ふたたび封筒に目を戻した。どちらも達筆だ。大人の書いた文字である。四十になる私より三つ年下だから、それもとうぜんか。しかし……。

「電子記憶媒体」大梅健太郎


(PDFバージョン:dennsikiokubaitai_ooumekenntarou
 息苦しい。
 僕は腹部に重みを感じ、ゆっくりと目を開けた。季節は秋なので、暑さで寝苦しいわけではない。電気を消した部屋の天井は、窓からの夜明かりに照らされている。視界をさえぎるように、黒い影があった。
 深く息をつき、腕を動かしてみる。予想はしていたが、ぴくりともしない。身もよじれない。金縛りだ。
 壁にかかる時計の針は午前二時過ぎを指していた。
 腹部に正座している幽霊を観察してみる。淡い輪郭が部屋の暗闇に溶けそうだが、判別はつく。短髪で、男だ。
「にし、わき」
 名前を呼ばれた気がした。
 はて。どこかで見たことがある気がする。少し考えて、はたと思い至った。
「い、ち、は、ら」
 声を絞り出すと、幽霊は僕の顔をのぞきこんできた。そして、今度ははっきりと聞き取れる声で言った。
「本当に、見えるのか」

「計画殺兎」春名功武


(PDFバージョン:keikakusatto_harunaisamu
 うさぎは純白な毛並みで、つぶらな瞳がとてもチャーミングであった。
 両親は娘にペットを通して命の大切さを学んで欲しいと思いうさぎを買い与えた。
 娘はたいそう喜んだ。うさぎを抱きかかえて、頬ずりする。娘が最近気に入っている愛情表現であった。うさぎが来てから、家庭がパッと明るくなったように感じる。両親はうさぎを飼って正解だったと思っていた。
 不意に母親が、娘にこんな事を言った。
「うさぎはね、寂しいと死んじゃうんだよ」
「大丈夫。ワタシずっと一緒にいるから」