カテゴリー: ショートショート

「こうして僕はここにいる。」伊野隆之

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 幼かった僕は、この公園で戯画化されたモンスターたちを追いかけていた。珍しいモンスターを捕まえるため、日が暮れるまで公園の中を歩き回っていたものだった。その僕が、今はこうして公園のベンチで、空気のように座っている。
「ねえ、いつからここにいるの?」
 等身大のテディベアを従えた少女が目の前にいた。公園の景色にとけ込んでいたはずの僕は、少女の言葉に我に返る。
「えっ、どうしてそんなことを聞くの?」
 質問に質問で返すのはよくないことだ。厳しかった父に言われたことを思い出す。
「だって、ずっといるじゃない」
 少女の時間軸はどれくらいのスケールなのだろうか。彼女は小学校の低学年くらい。この公園で二頭身のモンスターを追いかけていた頃の僕と同じくらいだろう。年齢とともに時間の経過が早くなるというジャネーの法則が正しいなら、ほんの数日でも、彼女にとっては「ずっと」になるのだろうか。
「確かに今日はずっとここにいた」
 昨日もここにいたし、一昨日も、さらにその前の日もここにいた。なのに、そのことを口にするのが、つい、はばかられてしまう。

「みなし教育」窓川要


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 自慢じゃないですが、僕はこれまで、数学のテストは毎回白紙で提出していました。分からないんだから、仕方がありません。名前だけは、いちおう書くんですけどね。
 そんな僕でも、このたびなんとか単位を取得し、留年を回避することができました。これは僕自身の努力だけではなく、《みなし教育》制度のお陰でもあります。野球しか知らない僕に数学を身につけさせたんですから、全くとんでもない制度ですよ、これは。
 その日、僕はいつも通りに授業を寝て過ごし、体力を温存し、放課後の部活に全力で取り組んでいました……。

「左目の異世界」高橋桐矢


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 セミの声がふってくる、夕暮れの公園。
 ひとり、ブランコをこぐ。前に後ろに。
 このまま、どこかに行ってしまいたい。
 地面に影が長くのびている。お母さんとケンカして、何も持たないで飛びだしてきてしまった。でももう家には帰らない。帰りたくない。お母さんのわからずや。わたしがいなくなって心配すればいい。
「斉藤まりかさん、どうしたの」
 声に、おどろいて足をつく。ふりむくと、5年2組の担任の、鈴木先生がいた。ブランコの後ろに。いつのまに。
「もうとっくに5時を過ぎてるよ。家に帰らなくちゃ」
 だまって、首をふる。鈴木先生は、今年の春、転勤してきた、暗くてジミなメガネの男の先生だ。
 鈴木先生が、ブランコの横に立った。鈴木先生の影とわたしの影が、ならんで長くのびている。
「帰りたく……ないのかな?」
 わたしは地面の影を見ていた。鈴木先生の影の手が動いて、メガネを外した。

「しょうちゃんの噂」飯野文彦

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 学生時代、所属していたサークルの仲間たちと飲んでいたときの話である。
 場所は高田馬場駅からほど近い、安居酒屋の座敷席だった。どういう話の流れだったのかまでは思い出せないけれど、仲間の一人が言った。
「吉祥寺で『しょうちゃん』に会ったら、教えてくれ」
「どこのしょうちゃん?」
「だから吉祥寺だよ」
「吉祥寺のしょうちゃんって言われても……」
 仲間たちは苦笑し、すぐに誰かが、
「それって鉄人のか。それともオバQのほうか?」
 と茶化した。『鉄人28号』にも『オバケのQ太郎』にも〈正ちゃん〉という少年が出てきたからである。
 別に面白い切り返しではなかったけれど、仲間たちはそれなりに笑い、場を和ませようとした。
 ところが、この話を切り出した当人は、とつぜん顔を真っ赤にして、
「冗談で言ってるんじゃない。ほんとだ。気をつけないと、飛んでもない目にあう」
 と怒鳴ったため、場は静まり返ってしまった。
「それじゃあ、何をどう気をつけろって言うんだ?」
 誰かが呆れ半分の口調で言った。
 その顔は、明らかに馬鹿にしていた。どうせたいしたことはない。単なる思いつきレベルで口走ったんだろうが――と書いてあるようだった。ほかの面々も、似たようなものである。
 それが、言い出しっぺの気持ちを逆撫でした。彼は、くっとグラスに入っていた焼酎を飲み干すと、時間いっぱいまで仕切った力士のような勢いで、話し出したのだった。

「ここにいた」大梅 健太郎


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「そういやお前、行方不明者リストに名を連ねてたぞ」
 寺井翔(てらいかける)の言葉に、動橋誠(どうはしまこと)はビールジョッキをあおる手をとめた。一瞬、居酒屋の喧騒が遠くなる。
「行方不明者リスト?」
「ああ、行方不明者リスト」
 物騒な言葉だ。二人分の仕事の愚痴を詰めこんで重くなった動橋の胃が、きゅっと締め付けられる。
「俺は今、ここにいるよな?」
「でも、行方不明みたいだぞ」
 寺井は嬉しそうに笑いながら、最後に残った枝豆のサヤをつまみ上げた。

「アクアリウム」倉数茂

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 その場所で逢おうと決めたのは、場末のビルの水族館という場違いさに惹かれたためかもしれなかった。わたしの思いこみでは、水族館は通常海辺にあるものだったし、大型魚たちがゆったりと遊泳する大水槽や、陽気なイルカやアシカのショーがつきもののはずだった。けれどもその水族館は、みすぼらしい雑居ビルの地下階にあるというのだった。一瞬、どこかの小洒落たバーにありそうな、薄暗い室内に熱帯魚の水槽だけがならぶ息苦しい空間が脳裏に浮かんだが、そんなものではない、七つの海のいきものを蒐めた本格的な水族館だと男はいうのだった。
 好奇心、あるいは懐かしさだろうか。もちろん、そのような見知らぬところに懐かしさを感じるいわれはかいもくないのだが、わたしにはどうやら古びてうらぶれた場所への偏執があるらしい。たとえば閉館寸前の客のいない映画の二番館。地方都市の時代にとりのこされた遊技場。赤錆だらけの鉄工所。そうした場所に行くとなぜだか胸がわくわくしてしまうのだし、二度、三度とおとずれるのも苦ではない、いつか、そう言ったのを覚えていて誘ったのかもしれなかった。

「晴れ、ところにより魚」青木 和

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「やだ。何これ」
 少し前から、なんだか生臭い匂いがして気になっていた。匂いの元を探して窓から顔を出し、何気なくベランダに目をやって、思わず声が出た。
 ベランダのあちこちに、薄汚れてくしゃくしゃに丸まったビニール袋が落ちていた。五枚か六枚はあるだろう。
 あたしはサンダルをつっかけてベランダに降りると、火ばさみで一枚つまみあげた。日が当たっているところはぱりぱりに乾いていたが、内側の方はまだ湿っていて、わずかな水がぺしょっと滴った。さっきから感じていた生臭さが急にきつくなる。
 匂いの元はこれだ。

「AI消費社会」八杉将司

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 俺は無事に蘇生した。
 不治の病に犯され、このままでは余命いくばくもないと知らされた俺は、保険会社の実験的な提案に乗ったのだ。人体の冷凍保存である。未来の治療技術の躍進に命を託した。
 そして、目を覚ました。
 清潔な病室のベッドで俺を出迎えてくれたのは介護ロボットだった。スマートで柔らかそうな乳白色のボディで、目覚めた俺を自然な女性のボイスで優しくいたわってくれた。
 ただそのボディは首元に七色のリボンが取り付けてあったり、頭部には不細工な模様の入った帽子がかぶせてあった。ロボットの洗練された対応はさすが未来と思ったが、そのあたりで台無しになっていた。
 でも、些細なことだ。現在の状況をロボットに教えてもらった。

「冥王の樹」八杉将司

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 初めてそれが芽生えたのは、南米アマゾン盆地を覆う熱帯雨林の奥深くだった。
 誰も踏み入ったことのない密林の大地にひっそり生えた樹木の芽は、人類が知るどのような種類のものでもなかった。
 その新種の樹木を発見したのは、ジャングルに住む先住部族の長老の息子であった。部族間の争いに敗れて奥地に追われた先で見つけたのだ。
 すでに芽は大きく育ち、高さは数十メートルにも達していた。幹は周辺の樹木より何倍も太く、空を突き刺しにいくかのようにまっすぐ隆々と立っていた。
 見たこともない大木に、息子は驚愕した。父である長老は大いに恐れ、ひざまずいた。恐怖のあまり魅入られた長老はここを聖なる地とし、部族はこの地に誰も踏み込ませないことを天命とした。
 近づくものは問答無用で襲い掛かり、殺した。そのためほかの部族は怖がって近づかなくなり、観光ガイドやハンターも危険な地域として決して足を踏み入れることはなかった。

 異常に気がついたのは、森林の環境保全調査で人工衛星の観測画像を分析していた女性の学者だった。

「おさげさん」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 放課後、誰にも見つからないように気をつけながら、そっと廊下を歩いていた。なのに見つかった。
「竹内くん、こんな時間にどこへ行くの?」
 びっくりして振り返ると、教生の密原先生が立っていた。
「もうみんな下校したわよ」
「あ……はい、ちょっと忘れ物が……」
 言い訳を考えながら後ずさりする。密原先生は小さな顔に似合わない大きな眼鏡の向こうから英智(ひでとも)の言葉を確かめるように見つめてきた。
「先生こそ、どうしたの?」
 仕返しのつもりで訊いてみた。
「わたし? わたしは昔を懐かしんでたの」
 密原先生は微笑む。
「この学校、わたしのいた頃からずいぶんと変わったなって」
「先生がここの生徒だったの、何年前?」
「もうずっと昔。そんなことより早く帰りなさいね」
 そう言って先生はいなくなった。英智は、ほっと息をつく。どうもあの先生、苦手だな。早く教生が終わればいいのに。
 少し遅れてしまった。慌てて待ち合わせの場所へ向かう。校舎二階の音楽室。入る前に扉を叩くと「いるぞ」と声がした。

「キャンプに行こう」高橋桐矢


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「キャンプに行こう」という父の言葉を思い出す。
 一人息子であるわたしを喜ばせたかったのだろう。キャンプ用品のカタログを見せながら、テントや寝袋や釣り道具……サバイバルキャンプに必要なものを、指折り数えながら、リストアップしていく。方位磁石も忘れずに。寒くなっても大丈夫なように毛布も。それから雨具も必要だ。リストは何十項目にもなった。
 父はいつも仕事で忙しく、週末もいないことが多かった。それなのに、いや、それだから、か。毎年わたしの学校の夏休みが近くなると、父はどこからか、キャンプ用品のカタログを見つけてきた。
「……パパ」
 呼ばれて、ふっと我に返る。
「ああ、そこにいたのか、ごめん」
 小学校3年生の息子が、心配そうな顔でわたしを見上げている。

「〈手段としての音楽〉の演奏」窓川要


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 開演の拍手も止み静まりかえったコンサートホールに、粘液をかき回す湿った音が響き始めた。客席の聴衆はみな一様に息を呑み、ブルーノの一挙手一投足から目を離すことができなくなっていた。
 タクトが緩やかに弧を描いた。遂に両の眼球が摘出されたのだ。左右ともほぼ同時にステージへと落下したそれらは、ほんの数センチだけ転がり、しかしすぐ粘液に囚われて動きを止めた。それはたったいま息絶えた両生類のように見えた。
 自らの眼球を摘出してもなお、ブルーノは仁王立ちしていた。暗い眼窩はもう何も見ていなかった。金色の前髪が上瞼に絡んでいることなど、微塵も気にならないようだった。彼は静かに両手を顔の高さまで上げ、両のタクトを逆手に持ち直した。

「手間の多い料理店」林譲治

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「すいません」
「へい、いらっしゃい」
「すいません、食べログで見たんですけど、この辺にリットリオというイタリアンレストランがあるはずなんですけど、知りませんか?」
「リットリオかい、うちだよ。俺がオーナーシェフ」
「えっ、食べログだと50席あるレストランって書いてましたけど。ここ、屋台ですよね」
「まぁ、店舗のことはな、いろいろあるんだよ、税金とかよ」
「屋台で本格イタリアンなんてできるんですか? 道具もないみたいだけど」
「そこはまぁ、色々あるんだよ。うちはな、少しでも安くて美味いものを出すのがモットなんだー、だからだよ」
「まぁ、店舗の固定費を抑えるってのはわかりますけどね。大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ。ほら、これメニュー」
「あぁ、メニューは本格的だな。これ全部、オーナーシェフが調理できるんですか?」
「できるよ、俺はイタリアで10年修行してきたんだぞ。どれにする?」
「セットメニューもあるのか……いや、単品にしますよ。アクアパッツァなんてできるんですか?」
「できるよ、うちはシーフードでは定評があるんだからな。食べログにも書いてるだろう」
「まぁ、それで来たんですけどね。じゃぁ、アクアパッツァ」

「かあさん、俺だよ俺」林譲治

(PDFバージョン:kaasann_hayasijyouji
「かあさん、俺だよ俺」
「どうした? 一郎かい?」
「そうだよ、一郎だよ」
「それにしては声が変だけど」
「風邪引いたんだよ。それより、大変なんだ。会社の集金の金を落としたんだ200万、あれがないと会社をクビになってしまうんだよ」
「あらまぁ」
「お願いだから、200万貸してくれよ。友達が受け取りに行くから」
「お前本当に、一郎かい?」
「疑うのかい、かあさん。一郎だよ」
「そうかい、だったら本人確認のためにマイナンバーをお言い」
「マイナンバー!?」

「鏡よ鏡」林譲治

(PDFバージョン:kagamiyokagami_hayasijyouji
「鏡よ鏡」
「はい、何でしょうか、お后様?」
「お前に一つ訊きたいことがある、お前は私が后として嫁ぐ前からこの城にあったが、もしかして、お前は前の后の持ち物か?」
「はい、左様でございます。前のお后様は、自分に何かあったら、私に次の后に従えとご命令になられました」
「やはりな、前の后も魔女であったか」
「ご推察の通りです」

「〈彼〉」飯野文彦

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〈彼〉は言った。
「今日から、ぼくが君の神になる」
 ほかの者から言われたら吹き出していた。何と陳腐な言葉だろう。何とおろかなんだろう。だが〈彼〉は別格だ。〈彼〉が言ったから真実だ。だから、わたしは信じた。実際、〈彼〉の姿が輝いて見えた。
 ついに救われる。わたしの救世主が、ついに現れたのだ。そう本気で思い、感謝したのである。

「ねがいがひとつ」大梅健太郎


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 商店街入口近くにある小さな公園に、目的の「願掛け地蔵」のほこらがあった。ほこらは腰の高さほどのコンクリート製で、横には石の水鉢が据えつけられている。
 その前にかがむと、中の地蔵が見えた。柔和な表情をしているせいだろうか。すっと、目が合ったような気がする。
 風体は、いかにもお地蔵様といった感じだ。しかし、頭にかぶった真っ赤な頭巾が、地蔵の雰囲気には似つかわしくないベレー帽のような形状をしている。
「こりゃまた、お洒落な地蔵だな」
 僕はつい、目の前の地蔵に向かって呟いた。帽子と同じ赤色のよだれかけには、艶やかな光沢がある。地蔵そのものや土台の古ぼけた感じと、これらの衣装やほこらの新しさはかなりミスマッチに思えた。
「で、どうすればいいんだ」
 あたりを見回すと、地蔵の背後に『願掛け地蔵の参り方』と書かれた看板があった。清らかな水を頭に三回かけ、三回願い事を唱える。そうすれば、願いが叶うらしい。

「場末の小さな嵐ヶ丘」木本雅彦


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 このメタヴァースが、何世代目のメタヴァースなのか、もはや住人たちは把握していない。バージョン管理システムの記録を遡れば、どこでブランチが作られ、どこでタグが作られ、どこでフォークし、どこのバージョンがデプロイされたのか、解析することは可能なのだろうが、日常と区別のつかなくなった仮想現実空間に多少のテコ入れがされたところで、住人は気にとめない。
 人類は、実世界をほぼ捨てた。完全にではない。摂食行為と繁殖行為、それにともなう物理的移動などは、実世界から離れられないが、逆を言えば、実世界は食事とセックスのためだけを目的として、社会システムそのものが作り直され、経済活動をはじめとした諸々の創造的な活動は、すべて仮想現実空間メタヴァースで行われるようになった。
 そんな広大なメタヴァースの片隅に、小さな店がある。
 その店の名前は「嵐ヶ丘」――ネカマバーであった。
 ネカマバーとは、ネカマのバーである。ママはネカマ、店の女の子もネカマ。影を抱えながらも笑うことを忘れない、そんな陽気なネカマとの会話を楽しむための、大人の社交場である。

「愛しのスノーホワイト」青木 和

(PDFバージョン:itosinosnowwhite_aokikazu
「下がってよい」
 王子様が言うと、心得た小姓は黙って一礼し、静かに扉を閉めて出ていきました。
 扉の外は控えの間で、王子様の寝室を警護する家来たちが夜通し詰めていますが、一度扉を閉めてしまえば、王子様が中からベルを鳴らして呼ばない限り開けられることはありません。
 ようやく一人になった王子様はほっと溜息をつくと、ベッドを滑り降り、ガウンをまといました。燭台を手に、壁のタペストリーに向かいます。
 王子様の部屋には、金糸を織り込んだ豪華なタペストリーが二枚かかっていました。分厚い毛織物であるタペストリーの目的は、もちろん石壁の冷たさから部屋を守るためもありますが、もう一つには扉を隠すためでもあります。
 王子様の部屋には、家来たちの控えの間に通じる、いわば表の扉のほかに、もう二枚の扉がありました。
 狩りの風景を描いたタペストリーの裏にある扉は、お姫様の部屋に通じています。姫とは言いますが、つい先ごろ王子様が妻に迎えられた、未来のお妃様です。まだ十六歳とたいそうお若いため、姫様と呼ばれているのです。
 王子様は狩りの風景のタペストリーをほんの少しの間見つめていましたが、すぐに視線をそらせてしまいました。もう何日も、王子様はお姫様の部屋に通じる扉を開けていません。それは王子としての義務をないがしろにすることであり、よくないことです。しかし、王子様はどうしても、お姫様を避けてしまうのでした。お姫様も、そろそろ不審に思い始めているかもしれません。

「ある欠陥物件に関する関係者への聞き取り調査」林譲治

(PDFバージョン:arukekkannbukkenn_hayasijyouji
取材陣:今日はありがとうございます。個人を特定できないように画像、音声はエフェクトがかけられてます。

関係者:どうも。例の物件の建設現場にいたものです。

取材陣:具体的には、どのようなお仕事を?

関係者:いや、それは身バレするので勘弁してください。広義の管理業務を担当してました。

取材陣:なるほど。まず、基本的な確認ですが、やはり官需の方が業界としては、なんと言いますか、美味しい仕事なんでしょうか?

関係者:まぁ、ケースバイケースなんですけど、基本的に国の仕事は、我々のような業界では、うま味が大きいですね。

取材陣:それは、どういう理由なんでしょうか?

「ことわざの真偽はいかに」飯野文彦

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 その日、私は前後不覚に酔っていた。なぜあれほど飲んだのかは、この際、重要ではない。ただ一切の記憶をなくすほど酔ったということだけだ。
 それでも帰宅できるのは、どういうことか。酔っぱらいには渡り鳥のような帰巣本能があるようだ。とはいえ、渡り鳥ほどしっかりしたものではなく、個人差がある。
 私の友人に、酔えば帰宅どころか所かまわず寝入ってしまう者もいる。必ず反対方向の電車に乗る者もいる。行き当たりばったりの家に上がり込んで寝こんでしまい、幾度となく警察の厄介になっている者もいる。
 彼もしくは彼女たちと比べれば、私の帰巣本能は極めて優秀だった。若い頃からどんなに泥酔していても、朝目が覚めれば必ず自分の部屋にもどり、自分の布団の中にいた。そんな風だから、絶対に自信を持っていたのである。
 ところが、その日、私は気がついたら布団の中にいた。それがどこなのか判断する余裕はなかった。何しろ、女性と一緒だったからである。

「螺旋の恋」倉数茂

(PDFバージョン:rasennnokoi_kurakazusigeru
 少年は劣等生だった。決して不真面目でも愚鈍でもなかったのに、教室で聞く教師の言葉は、耳から流れ込む端から忘却の井戸に吸い込まれてしまって、脳髄にかすかな引っかき傷も残すことができなかった。黒板に書かれた図形は、未知の海域の航図にしか見えなかったし、プリントの問題は、石板に刻まれた古代文字のように意味不明だった。少年は教科書の余白を、空想上の獣たちで埋め尽くした。グリフォンが放物線を齧り、火蜥蜴がアルファベットのあいだにすべり入った。漢字の森で遊んでいた白澤(はくたく)は、偏や旁(つくり)の向うから九つの眼でこちらを睨んでいた。
 注意力に障害があるようです。それと、極度の内向性。調査結果を記した書類を見ながら医者はそう言った。目の前のものごとに集中できず、いつでもぼんやり空想世界をさまよっているんですな。もっともお子さんの年頃ではきわめて珍しいというほどでもない。まあ、しばらく様子を見てみましょう。
 自分が頭蓋の内側に棲まっていることを見抜かれて少年は動揺した。けれど医者にもわからなかったのは、そこがどれほど豊饒かということだった。そこには砂漠と氷山と沈んだ海賊船とがあって、それと比べたら、頭蓋の外の日常など、食卓に残された鳥の骨のように貧相でみすぼらしい存在に過ぎなかった。もっとも彼は努力もした。両親に叱られ、教師に注意されて、今日こそなんとか現実のかけらにしがみついていようと頑張っても、十五分もしないうちに空想の海に漂いだしているのだった。

「風よりも速いシカ」高橋桐矢


(PDFバージョン:kazeyorimo_takahasikiriya
 年老いたシカの耳に、トンボが止まりました。
 耳を動かすと、トンボは、つうと飛んでいきました。
 のんびりとした森の午後です。
 年老いたシカは、立ったまま、うつらうつらとしています。このごろは、一日の大半をそうしてすごしています。
「おじいさん。こんにちは」
 声に目を開けると、目の前に、若いシカが立っていました。体は一人前の大きさですが、まだ角は短く、やっと二年目の枝が生えてきたばかりです。鼻先はつやつやとしたピンク色で、体中に若さがみなぎっています。
 若シカは礼儀正しく前足をそろえてたずねました。
「風より速いシカ、を知りませんか?」

「ゆうやけ」東條慎生(画・寮美千子)


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 石けりあそびにあきたとき、きがつけば、ボクはどこにいるのか、わかりません。
 石けりあそびにむちゅうになって、しらないばしょに、きてしまったようです。
 空がオレンジ色になっていました。そろそろ、かえるじかんです。
 けれども、道がわかりません。
 道をききたくても、だれもいません。
 かべばっかりで、せまい道が、まっすぐ、まっすぐ、つづいています。
 むこうから、人のこえがしています。
 道をあるいていくと、だんだん人のこえが、大きくなってきました。

「腹の中のネズミ」高橋桐矢


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 猫が、小さなネズミを追いつめました。
 絶体絶命のネズミは、目をいっぱいに見開き、ぶるぶるとふるえています。
「猫さん、どうかお助けください」
 猫は、目を細めました。それほど腹がへっているわけではありません。
 ネズミは祈るように手を合わせました。
「助けていただけたら……」
「助けたら?」
 白いひげの生えた鼻をひくつかせ、ネズミはふるえながら微笑みました。
「あなたの友達になります」
 ネズミの言葉を聞くなり猫は飛びかかりました。
 ごくりとまるのみして、ネズミは腹の中におさまりました。
「ふう……」
 腹がふくれていっぱいになりました。猫は一つ、げっぷをしました。
 猫は友達なんて欲しくありませんでした。
「わたしはたいくつしていたのだ。面白い話をしたら、助けてやってもよかったのに」
 すると、まるまるとふくらんだお腹から、小さな声が聞こえてきました。
「本当ですか? 友達が欲しそうな顔をしていましたよ」

「追想」八杉将司

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 国際自然保護連合(ICUN)がレッドリストを作成したら、人類も掲載されることになるだろう。保全状況カテゴリーCR(絶滅寸前)に。
 もちろん滅びかけている人類が自然保護なんて気にかけるはずがなく、レッドリストに自分たちを載せる自虐めいた冗談なんてやっている余裕もなかった。
 原因は複雑に絡み合った事情が重なっているので簡単には答えられない。というか明確な答えを知っている存在は地球にいなかった。ぼくだってわからない。
 一つはっきりとわかっていることは、寝たきりの年老いた父さんが死んだら、この地域一帯から人類はいなくなるということだ。

「拷問島」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その少女が島唯一の船着場に姿を見せたのは、春まだ浅き三月中旬の午後だった。
 小柄な体にはいささか大きすぎるように感じられる茶色いダッフルコートに、無骨なくらい大きな革鞄。髪は短くカットしていて大きな黒縁眼鏡を掛けていた。
「はじめまして、密原トリカです。しばらくお世話になります」
 出迎えた私に彼女は元気な声で言った。
「ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙な島で若いひとが楽しめるようなところもありませんけど、魚は美味いし宿には温泉もあります。どうぞゆっくりしていってください」
 彼女を案内して私が営んでいる宿屋へと向かった。
「大学では何を勉強されているんですか」
「民俗学です。今は卒論の準備中なんです」
「それでここにいらしたんですか。しかしここに大学で研究するようなものがありましたかねえ」
「ありますとも。わたしがこの島――小紋島に興味を持ったのは、もうひとつの名前を聞いたからです」
「もうひとつの名前というと……」
「拷問島。そう呼ばれてますよね」

「円筒の空/羊たちの雲」伊野隆之

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 最後のイベントである羊の毛刈り体験を終えた視察団のメンバーは、それぞれに満足した様子でくつろいでいた。全員が投資家で、牧場のスポンサーになっている人もいれば、これから投資を検討している人もいる。もちろん、ほぼ全員が羊の毛を刈るのは初めてで、本来なら悲惨なことになっていてもおかしくなかった。
「いやあ、おもしろい体験をさせてもらいました。案外、簡単なものですなぁ」
 そんな声が聞こえてくる。羊の毛を刈るマニュピレーターからのフィードバックは繊細で、どこまでもリアルにできているから、まるで、自分で毛を刈ったような気でいるのだ。
「みなさん、本当にお上手でした」
 牧場管理責任者のジェンキンズが、まるで揉み手をするかのように応じていた。
「それに、全然臭いませんでしたな。動物は臭いものだと思っていたが、そんなにひどくはなかった」
 大口のスポンサーのランド氏だった。ニュージーランド出身で、何代か前の祖先に牧場主がいたというランド氏は、この牧場の最も新しいスポンサーの一人だ。彼は、牧場を持つことが夢だったと言い、今回の視察中ずっと上機嫌にしていた。
「ええ、ここの羊たちは清潔にしていますから」
 ジェンキンスの答えに、つい口を挟みそうになるが、そこは何とか自重した。

「緑陰の家」倉数茂


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 初めてその家屋を見たとき、わたしは思わず威彦らしいと微笑まずにはいられなかった。
 繁茂する緑の蔓草が外壁の全体を荒々しく覆いつくし、家という内側に空虚を抱えた存在を、ひとつの旺盛な生命の塊に変えている。もっとも、人さえ住んでいれば、ここまで植物が我が物顔に這い回ることもなく、だからこれはむしろ威彦の不在に由来する事態なのかもしれない。
 なんにしても、近所の住人や大家は苦虫を噛み潰しているだろうと思うと、笑いはすぐに溜息にかわった。なにしろこれから滞納している家賃を払いに行くのは自分なのだ。
 威彦が行方不明になって三ヶ月になると連絡を叔父から受け取ったのは二日前だった。いつものようにニューギニア高地へフィールドワークに向かったのだが、帰国予定日になっても戻らない。帰国の遅延などよくあることだが、問題は、四月からI大学の講師の口が決まっていたことである。恩師であるK教授は、しばらくは事務方をなだめておくとおっしゃってくださったそうだが、このままでは初めての就職口をふいにしかねない。
 しかしそれよりもわたしの耳をそばだてさせたのは、成田からの電話で威彦が告げたという、今度は嫁さんを連れて帰るからということばだった。つまり威彦は現地に恋人がおり、結婚まで考えていたということだ。
 どのような女性なのだろう。わたしの好奇心は刺激された。嫉妬の気持ちは微塵もなかった。威彦とは愛や性よりも、もっと深いもので結ばれていると感じている。
 だから、一部のものが案じるように、すでに死んでいるという可能性も一蹴した。どんなに非科学的と嗤われようが、威彦が死ねば、自分がそれに気づかぬはずがないと思う。

「オメガ・メタリクス」東條 慎生


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 ドリルの高周波もずっと聴いていると気にならなくなってくる。チクリと麻酔を打たれて痛みもない。それ以上に、ガリガリとそんなに削っていいものなのかということに不安を感じる。もちろん医者がやってるんだから大丈夫なんだろうけれど、そうはいっても削りすぎではないか、いいのかそれで、と言葉が頭に渦を巻く。そしてどんどん金属質になっていく自分の歯。どうだ、おれのメタリックな歯は、強そうだろう、という冗談を思いついたものの、いったい誰に言うのか。自分にか。

 叔父がまだゴルフバッグを担いでいなかった頃、自分がまだ酒も飲めない年だった頃、叔父の病室に通されたときの異様な感覚。ひとことでいえば、誰かの体の中に入ってしまった感覚だといえばいいのだろう。けれど、そんな表現が誰かに通じるわけがない。でも、そうとしか言いようがない。
 叔父はそのとき、ベッドに寝たきりで起きあがることができなかった。鼻や口や喉や腕やら体中から管やコードが延びていて、ベッドの脇の大きな機械へとつながれていた。両親に連れられて入ってきた自分を見たとき、叔父のマスクに覆われた顔がわずかに笑みを浮かべたのがかろうじてわかった。喉にも管が通っていて声も出せないので、胸元にあるキーボードを寝ころんだまま起用にたたいて、ひさしぶり、と頭の横のディスプレイに打ち出した。