カテゴリー: ショートショート

「縁日」井上剛

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 十歳ぐらいの少女が白い浴衣の右袖をたくし上げる。好奇心をいっぱいに湛えた瞳。『がんばれ』という男の声に励まされて、紙製の網をおずおずと水槽に差し入れる。
「あの子、上手に掬えるかなあ」
 固唾を呑んで見守りながら愛子が尋ねる。私は何も言わず、静かに頷き返す。
 お目当ての金魚が決まったらしく、少女は袂を押さえて、慎重に腕を動かし始めた。
 が、ほどなく少女は口をへの字に曲げる。水槽の中の網は見えないが、どうやら取り逃がしたらしい。『惜しい』と男の声がした。

「我が子」飯野文彦

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 井之妖彦が庭を掘り起こすと、地中から壺が出てきた。蓋を開けた途端、中から盛りのついたような泣き声がする。壺の中には赤ん坊がいた。
 なぜこんなところに赤ん坊が――と驚かない訳がない。けれども、そのままにしておくこともできず、壺から赤ん坊を取りだした。何も身につけておらず、全身、紅を落とした柔らかい水飴のような液体でおおわれている。あたかもたった今、生まれ落ちたばかりのような有り様だった。

「ロボット」山口優

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「掃除と洗濯はお願いね、それから夕ご飯はスパゲッティがいいかな」
 わたしはそう、人間そっくりのメイドロボに指示を与えた。メイドロボは丁寧に一礼し、わたしの指示に従って、まずは掃除のために箒を取りにでかけた。それを見送り、わたしは自室に引きこもり、先程までやっていた作業の続きを開始した。
 わたしは、ロボット製造工場の技師をしている。といっても、工場に直接勤務することはない。今の時代、工場はすべてオートメーション化されているのだ。わたしのすることは、ロボットの基本的な設計図の作成だけである。後はすべて工場のロボットがやってくれる。

「手品師の憂鬱」太田忠司

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 拍手が聞こえた。
 さして多いとは言えない観客の、あまり熱心とは思えない拍手だ。それでも私はシルクハットを脱ぎ、丁寧に頭を下げた。
 そして手にしたハットを天井目掛けて放り投げた。
 ハットは宙を飛び、高さ三メートルほどのところで停止した。私は取り出した懐中時計で時間を計る仕種をし、二十秒ほど経ってから片手を差し出した。ハットは木の葉のようにひらひらと舞いながら私の手に収まる。
 また拍手。

「地獄のクリスマス」―豆腐洗い猫その5― 間瀬純子


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『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』


一、地獄の葉緑素


 豆腐洗い猫は、上司である一神教の神によって、宇宙の公団住宅の地下にある地獄に派遣されることになった。
 
 そのいきさつはこうである。
 一神教の神は宇宙の公団住宅の一階に住んでおられた。一神教なので一人暮しで、お部屋は簡素であった。豆腐洗い猫は庭のすみっこに宅配ピザの空箱を敷いて寝床にしていた。
 庭に、色々な種類の『つる植物』が生え広がってきたので、下僕の豆腐洗い猫はせっせと草むしりをした。
「取っても取っても生えてくるにゃー」と猫はひとりごとを言った。

「Buy‐Buy!」木立嶺

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「またまたやっちまったーっ! これで今年に入って三人目!」
 そう喚くと、大宮千里は泡の残る大ジョッキを、テーブルにドンと叩きつけた。
 ここは駅前の小さな居酒屋、対面に座る水原瑞乃は、ウーロン茶のコップを両手で支えていたが、周囲の視線を気にしてか、おずおずと笑みを形作った。
「千里が何をやっちゃったのか、このお店に誘われた時点で想像は付いているんだけど、一応訊いとくね。どうしたの?」
「昨日ね、琴美がお目当てのバッグを買いに行くから付き合ってって言うから、わざわざ講義ブチって付き添ってあげたのよ。友達だし、時間もかからないと思ってさ」
 何時ものことだが、大宮は酔いの回りが光速だ。顔は早くもりんご、目の焦点も狂い始めている。

「小雪」飯野文彦

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 小雪がひとりになって、二十年近い歳月が過ぎた。幸い、すべての段取りを夫が済ませてから逝ったため、生きていく上で不自由はない。これから安心して三十年、否、四十年は生きられる。何か不都合が生じたら、月に一度様子をうかがいに来る弁護士に告げれば、解決できる。
 見晴らしの良い個室を与えられていた。三度食事を与えられ、入浴も週に三度できる。もっとも食事はきちんと取っていたけれど、入浴のほうは週に一度入れば良いほうだ。というのも三ヶ月前までの話である。三ヶ月前、新たに小雪の担当になった看護師は、若い生意気な女だった。
 担当になって三日と経たないうちに、検温をしなかった小雪にむかって、
「あなただけの面倒を見ているんじゃないですからね」
 と文句を言った。それ以来、入浴を止めただけでなく、糞尿の始末も自分ではしていない。
「自分でできるんだから、自分でしたほうが自分のためにもなる」
 自分と言う言葉を何度も言いながら、医師が説明したとき、小雪は言った。
「あの看護師さんはぜったいにわたしの担当から外さないでくださいね」

「幽霊」八杉将司

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 ぼくは本を読んでいた。
 読書が趣味で、休みの日は一人で買い込んだ本を読み漁っていた。
 でも、今、手にしている本はあまり面白い内容ではなかった。本屋でタイトルを見てつい衝動買いをしてしまったノンフィクションだったが、その著者の持って回った言いまわしにうんざりしていた。表現が違うだけで同じことを繰り返していたり、テーマと関係ない独りよがりな日常の持論を延々と語っていたりするのだからたまらない。とはいえ買ってしまったので読まなくてはなんだかもったいない。
 時刻は夕方で、小春日和の天気は部屋を気持ちよく暖めてくれた。
 そんな中でその本は、当然のごとく、ぼくを居眠りへといざなう。
 うとうとし出した。もう文字は目に入ってこない。まぶたが半分閉じていた。
 起きなければと思った。こんな中途半端な時間に昼寝なんかしたくなかった。
 だけど、体は動かなかった。
 指先一つ曲げられない。
 そこで人の気配がした。

「浴室の宇宙」太田忠司

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 悲鳴が聞こえた。
 妻の声だ。たしか今、風呂に入っていたはずだが。
 また聞こえた。只事ではない。メールチェックをしていたスマートフォンを持ったまま、慌てて階段を駆け下りた。
 浴室の扉が開いて、全裸の妻が廊下に立ち尽くしていた。
「何だ? どうした?」

「ミドリ(ガ)(ノ)ドクハク」黒葉雅人

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 わたくし、クロロ、と申します。
 気がつけば――気がついたときにはもう生きておりました。
 わたくしの体の一番外側は、いろんな形に変化変形する不定形な膜でできておりまして、その膜の中を満たしているのは透明な粘液でございました。
 その粘液の中で、タンパクの粒とともに、わたくし自身の本質でありますところの細長い体を環状型にゆるく丸めたまま、ゆらゆら、ゆらゆらと漂わせておりました。
 わたくしが生きるのに必要なエネルギーを得るためのエサは、光と二酸化炭素、この二つさえあれば充分。他にはなにも要りません。それだけで満足。わたくしはなんの不満を感じることもなく、また特になにするでもなく、長いあいだ、ただ漂いつつ、生きておりました。

「雨宿り」飯野文彦

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 俗に昔から夏の雨は馬の背を分けるといわれているものだけれど、それは現代にも当てはまることだろう。
 特に最近は夕立、俄雨などとは言わずにゲリラ豪雨などと名づけられた凄まじい降雨が、局地的とはいえ、大きな被害をもたらしている。ある夏の日の昼下がりに私が遭遇したのも、その類だったのだろう。
 この日私は、編集者との打ち合わせのため、神田G町を訪ねていた。出版社に直接出向いて、小一時間話し、そこを後にしたのは午後五時近い時刻であった。
 ずいぶんと日は西に傾いていたものの、まだまだ野外は蒸し風呂のごとき状況を呈していた。出向いてきたときよりも、じりじりと心身を蝕む蒸し暑さが増している気がした。

「し み」荒巻義雄(魚澄昇太郎:名義)

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 恐らく信じやしまいね。
 近ごろ、長雨がつづいているだろう。てっきりしみだとばかり思っていたよ。そう、丁度その辺だね、壁紙がちょっとばかり破れているあたりだよ。
 その晩、俺は例によって無電機(原文ママ)いじくっていたな。これだけが俺の道楽、ちゃんと、ハムの免許は持っているよ。
 いきなり、そいつのつぶやきが聴こえてきたんで、俺はびっくりしたね。

「豆腐洗い猫その4 『豆腐洗い猫トーテム』」間瀬純子


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『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』


 トーテム【totem】
社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結びつけられている自然界の事物。
主として動物・植物が当てられ、集団の祖先と同定されることも多い。(広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店)


一、雛祭りの午後の優美な豆腐洗い儀式


 豆腐洗い猫をトーテムとする一族などが繁栄するはずはなかった。
 幡倉真弓(はたくら・まゆみ/人間/オス)は、豆腐洗い猫を崇拝する一族の末裔であり、現在、彼の知る限り、唯一の生き残りだった。
 幡倉真弓の、何となく立派な名前から察せられるとおり、幡倉家は、かつては明治の元勲の親戚の出入り商人の番頭という栄華を手にしていた。山手線の内側に建つ、広壮な屋敷で過ごした少年時代を、真弓は夢のように覚えている。

「はるかな町」瀬名秀明

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 少年はまっすぐ前を見据えて青い空の下を走っていた。
 いや、彼はすでに高校二年生であり、少年と呼ぶには成長していた。だから少年ではなく彼と呼ぼう。慶長年間に火災で天守を失った城跡の周りを、お堀に沿って左回りに走る。二度息を吸い、二度息を吐き、遮るものもなく見晴らしのよい車道を、次の曲がり角へ向けてただ前へ進む。そこへ到着したら、彼の前には次の視界がはるかに広がる。
 彼はいつも正面を見つめて走った。登下校で自転車のペダルを踏み込むときも、まっすぐ続く長い道をとらえて駆けた。

「裂島」伊野隆之

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 峡谷をわたる風はひゅうひゅうと冷たい。
 僕は、荒々しい岩肌を見せる谷を見下ろす場所にいて、この谷はいくつの命を飲み込んだのだろうと考えている。
 眼下に鋭く切れ込んだ谷は、超然としている。南から吹く風は、複雑な谷の地形に合わせ、時に渦巻き、時に吹き上げている。だからこそ、ハンググライダーで挑むには危険であり、その一方で魅力的なのだ。
 切り立った崖から飛翔し、上昇気流に乗って舞い上がる。谷底から崖の上までの高度差に加え、上昇気流が高みへと連れて行ってくれる。
 僕は佑樹が見ていたであろう光景に、思いを馳せる。

「猫と鼠の等速運動」片理誠

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 駿河湾は今日も良い天気だった。
 水面を吹き渡る涼しい風が目深に被った麦わら帽子の縁をもてあそぶ。さざ波がキラキラと輝き、ゆっくりとしたうねりが海のあちこちに斑模様を描いている。足下のテトラポッドでは波が打ち寄せる度にフナムシが逃げたり戻ったりを飽くことなく繰り返していた。
 磯の香りを胸一杯に吸い込むと私は防波堤の先端に向けて歩を進めた。

「悪い星」―豆腐洗い猫その3―間瀬純子


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『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』

一、宇宙の公団住宅の一神教の神


 宇宙の公団住宅の、その神の部屋にはほとんど荷物がない。蛍光灯が点滅している。ふすまがはずれた押し入れには布団もなく、棚板には昔の新聞紙が敷いてある。一面トップは『浅間山荘事件』だ。すべての窓ガラスは割れ、畳は黄色くなっている。
 その神の部屋は十四号棟の一階であった。ゆがんだアルミサッシ越しに見える狭い庭の真っ黒い濡れた土には、苔が生えていて、六畳の部屋の点滅する蛍光灯が苔の緑を鮮やかに照らした。
 庭には、ピザの包み紙や丸めたレシートが落ちていた。

「夏の落語会」飯野文彦

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 その落語会に出向いたのは八月の末、残暑厳しき日のことだった。
 場所は横浜の、大桟橋近くにある会場である。このとき私は連日の猛暑にくわえ、ビールの呑みすぎが祟って、ずいぶんと夏バテ状態だったが、ふだんなかなかチケットが取れない若手人気噺家の独演会である。やっとのこと取ったこともあったし、どうしても生で聴いておきたかったため、片道二時間近く電車を乗り継いで、出向いたのであった。
 開始時間は午後五時からであったが、それよりも早く会場に着くようにした。落語家の粋な計らいで、暑いなか足を運んでくれる客へのサービスとして、開演一時間前からロビーで縁日をやるという趣向だったからである。

「豆腐怪獣トフラーと行く銀河鉄道の終点」―豆腐洗い猫その2― 間瀬純子


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『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』

 一、薄気味悪いほど眩しい豆腐ユートピア


 空港から、その湖までは、定期的にバスが出ている。バスの名前は『豆腐洗い湖号』だ。真新しい水色の車体には、四角い豆腐の絵が大きくペイントされている。
 世界中から集まったバックパッカーたちが、リュックサックを背負い、いきおいよくバスに乗りこんできた。乗客たちの中には、恋人どうしもいるし、子連れやペット連れの人もいる。一人で来た人もたくさんいるが、あっという間にみんな友達になる。
 バスが発車すると、後部座席で、ロック青年のすっとんきょうな声がした。「あなたは! 『スクリーミング・トーフ・クイーンズ』の……」

「ハック」山口優

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「ただいま」
 そう言って、彼は、彼女の体を抱きしめた。彼の穏やかで優しい声、包み込むように背中に回された温かい腕の感触が、彼女の神経系を通じて直接私に伝わってくる。
 M大統領。軍隊あがりの残忍な独裁者であり、支配下の民衆を虐殺した疑惑がある。
 我が情報部は、数ヶ月前、大統領夫妻の外遊先で彼の夫人の脳内に神経細胞型通信ナノマシンを送り込むことに成功し、以来、私が専任の担当官として、夫人の感覚神経から流れ込んでくる大量の情報を直接私の感覚神経で受け取り、M大統領の監視を続けている。情報部の長官からの指令があれば、ただちに夫人の運動神経系をもハックし、速やかに妥当な手段で彼を『除去』することも、私の任務には含まれている。

「ムカエニキタヨ」八杉将司

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 何事もない日曜の朝のはずだった。
 大学の男子寮のベッドで目を覚ましたぼくは、隣のベッドを見た。いつもなら同級生であるルームメイトが寝ているのだが、空っぽだった。日曜なのに珍しく早起きしたらしい。先に食堂にでも行って朝食を食べているのだろう。
 パジャマを着替え、洗面用具を持って部屋を出た。
 共有の洗面所には寮生の先輩がいた。

「懐かしい樹」飯野文彦

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 久しぶりに小学校に来た。かれこれ三十年ぶりになる。わたしの通っていた小学校である。と同時に、幼い頃のわたしのいちばんの遊び場でもあった。わたしは幼い頃、この小学校の隣に住んでいたのだった。
 わたしが中学に進学する直前、祖母が病死した。その数日後、祖父も死んだ。夕暮れどきにふらふらと路上に飛び出し、走ってきたトラックに轢かれたのだった。

「悪魔」井上剛

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「好きな願いを一つだけ叶えてやろう」
 悪魔が俺のところへやって来てそう言った。
「どうせ、死後に魂を奪うとか言うんだろ?」
「ま、それは当然だな。あと、『不老不死』と『願いの数を増やす』は禁止だからな」
 前者は魂を奪えなくなるし、後者は有名な〈禁じ手〉らしい。
 死んだ後に魂がどうなろうがその時はその時だ。それより、何を願おうか。俺は悩んだ。

「夜の豆腐洗い湖」―豆腐洗い猫その1―間瀬純子


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『読めば読むほどむなしくなる! ばかばかしくて、ものがなしい連作小話』


 むかしむかし、豆腐を洗う猫の妖怪がいました。猫ちゃんは、豆腐洗い猫と呼ばれています。これから延々と語られるのは、この『豆腐洗い猫』のサーガ・叙事詩である。

 さて、豆腐洗い猫は、毎日、豆腐屋さんの厨房で、水槽の中に、手というか両前足を突っこんで、豆腐を洗っています。しかし、猫の手からはするどい爪が飛びでているので、しょっちゅう豆腐にひっかき傷をつけてしまいます。

「世界の底のガラス瓶」片理誠

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 横殴りの雨が古びたアクリル板の上に不規則な波紋を描く。流れ落ちてゆく水がそこにいびつな波を立て、遠くに見える繁華街の明かりをゆらゆらと歪めた。時々刻々と姿を変えてゆくその光の環は、まるで踊っているかのようだった。時刻は午前二時。寒い。俺はコートの襟を立てる。
「……こんなところに電話ボックスがあるなんてな。近頃じゃ携帯電話に押されてすっかり姿を見なくなってたが。まだ、あったんだな」

「抱擁」井上剛

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 秋の気配を馥郁と漂わせた風が緩やかに吹き渡る草原。周囲に人の姿はない。
 その風に身を委ねて、女は佇んでいた。何かを一心に祈っているようにも見える。
 男は、離れた場所から女の姿を眺めていた。

「リサイクル」山口優

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 人がロボットと共に暮らすようになって久しい。人とロボットは、お互いにお互いを知らなければならない、と現在は言われている。ロボットが人に合わせて進化することは、プログラミングによって容易に可能だが、人がロボットの考え方を学ぶには、ロボットと暮らす経験が必要である。
 そんなわけで、私は、六歳の時から九年間、ロボットの家庭でお世話になってきた。外見上は人間と同じ、お父さんとお母さん。そして息子さん——歳が一つ上なので、私は『お兄さん』と呼んでいる。お父さんとお母さんと、お兄さんは、全く似ていないけれど、お父さんとお母さんは、お兄さんの設計に深い誇りと愛着を持っているし、お兄さんは、ご両親に設計され、製造されたことにとても感謝している。

「ミサゴの空」伊野隆之

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 白い波頭が海岸線と並行に北に向かって延びている。穏やかな海風が、日差しに暖められた陸(ルビ おか)で上昇気流にかわり、翼を柔らかく押し上げる。
 ミサゴは大きく旋回しながら高く、より高く空へと昇る。
 背中に感じる熱。それは不快ではない。羽毛に暖められた空気をはらみ、力強く羽ばたく。
 上空の空はどこまでも青く、まっ白な雲がゆっくりと風にながれている。

「ブライアン」八杉将司

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 それは中性子星が発する強力な電磁波ジェットに触れたのかもしれないし、巨大恒星による想定されていないほど強烈な恒星風のプラズマをかぶったのかもしれなかった。
 とにかく私が生活していた都市型の移民宇宙船は突然すべての機能が停止した。暗闇が訪れ、生命維持システムも故障する重大な事故が起きた。その後、火災や爆発が居住区画のあちこちから発生し、私たちは船から脱出しなければならなくなった。