カテゴリー: ショートショート

「桜の花さくころ」高橋桐矢


(PDFバージョン:sakuranohanasakukoro_takahasikiriya

 薄紅色の桜の花は、どれもひかえめに下を向いて咲きます。やわらかな花びらはすきとおるほど薄く、近くで見るとほとんどもう真っ白なのでした。
 緑色の羽のメジロが、くちばしの先を花心の奥にさしこみました。
「ああ、甘い。この季節だけのごちそうだ」
 つぶやいて、次の花にうつります。
 メジロは、次々と、花の蜜を飲みました。その間、花びらの一枚も、こぼれることはありません。
 スズメだったら、桜の花ごとがつがつとついばむでしょう。だから、スズメが甘い蜜のごちそうをいただいたあとには、桜の花が柄ごとぼとり、ぼとりと地面に落ちています。メジロは、そんな下品な食べ方はしないのでした。
 メジロは、枝の先で、ふと立ち止まり、下を見下ろしました。

「パンツと髪の毛と学生証」八杉将司

(PDFバージョン:panntuto_yasugimasayosi
 母さんが顔色を変えてぼくの部屋に入ってきた。
「これ、何」
 怒りに震える声でそう言いながら、手につまんだ小さなパンツをぼくに見せた。
 レースが施され、ピンクの花柄が散りばめられたかわいらしいパンツだった。当然女性用である。正確にはショーツというべきか。母さんのショーツでないことは間違いない。
 ベッドに寝転がってコミックを読んでいたぼくは答えた。
「知らない」
「ウソ言いなさい」と、母さんは決め付けた口調で言った。

「合格の日」飯野文彦

(PDFバージョン:goukakunohi_iinofumihiko
 午前一時近い時刻、サツキの携帯が鳴った。未登録の、覚えのない番号からだった。
 ふだんなら警戒して出ないところだけれど、一瞬、迷っただけで、
「ま、いいか。まちがいなら、まちがいって教えてあげれば」
 と軽い気持ちで、通話状態にした。さすがにこちらから声をかける気にはなれず、黙って耳に押し当てる。
「サツキ?」
 張りのある女の声だった。が、誰だかわからない。
「うん。そうだけど……」
 遠慮がちにつぶやく。
「ごめんね。こんな時間に。でもちょっと前に聞いたばかりで。合格おめでとう」

「セカンドディスク」山口優

(PDFバージョン:sekanndodhisuku_yamagutiyuu
 研究室の後輩の絵琉(える)は、わたしの知る中でも一風変わった雰囲気を持っている。顔はかわいいのだが、何を考えているのか、よく分からない。
 だから、わたしは正直、絵琉がわたしの相談を真剣に取り合ってくれるとは思っていなかった。
「寝坊、ですか?」
「そうなの。いろいろ悩み事が多くて、寝付けないのよ。それで起きれないの」
 そのときわたしがつきあっていた裕太という男が、誰かと浮気をしている証拠を、わたしはいくつか掴んでいた。そのことを考えると、なかなか眠れない。

「神が死んだ日」八杉将司

(PDFバージョン:kamigasinndahi_yasugimasayosi
 唐突に携帯電話の呼び出し音が教室に鳴り響いた。
 アユムは世界史の教科書を眉をひそめて教卓に叩きつけた。生徒たちを睨みつける。
「誰だ、ケータイの電源を切ってないやつ」
 生徒たちは慌てて机の中やカバンに手を突っ込み自分たちの携帯電話を確かめた。誰の呼び出し音でもないらしい。生徒は隣同士で顔を見合わせて困惑した表情を浮かべていた。
「あ」と、アユムはスーツの胸に手を当てて声を上げた。「すまん。先生だ。おかしいなあ、さっき電源を切ったはずなんだが」
 アユムは苦笑いしながら携帯電話を取り出すと、ディスプレイに目を落として眉をひそめた。

「インヴェイジョン」山口優

(PDFバージョン:innveijyonn_yamagutiyuu
 わたしは奇妙な男性を目の前にしていた。スーツにネクタイという、至って平凡なサラリーマン風の服装。顔は整っている、といってもよいが、特徴がなさすぎて、どう表現すればいいのかよく分からない。
 だが、言っていることは平凡では全くなかった。
「侵略、させていただけませんか」
「はあ?」
「この惑星を侵略したいのです」

「夜道で」飯野文彦

(PDFバージョン:yomitide_iinofumihiko
 夜道を歩いていると、子どもが泣いていた。
 私は子どもから四、五メートル離れたところで足を止めた。しばらくじっとしていた。子どもは泣きやまない。
 声を限りに大泣きしているわけではない。うずくまって、頭を深く垂れ、顔を両手でおおっている。小さな肩が震えている。しくしくと小さく喉を鳴らして、泣いているのだった。
 幾つくらいだろう。ずいぶんと小さな身体だった。隠すようにうずくまっているのと、辺りは暗くてぼんやりとしているので、どんな服を着ているのかわからない。
 数十メートル離れた場所に外灯があるのだが、その明かり自体、薄ぼんやりと弱々しく揺れ動き、わずかしか届いていない。そのうえ、子どもがいるのは光が直接届かない奥まった場所である。
 いくら目を懲らしても、それ以上はっきりと見えず、次第に私は焦れた。神経がざわりざわりと不協和音をあげはじめたのだった。

「ホテル豆腐洗い猫」―豆腐洗い猫その7―間瀬純子


(PDFバージョン:hoterutoufuaraineko_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』

 前回までのあらすじ→ 豆腐洗い猫は久留米ツツジ六〇本を背中に挿し木され、ツツジになかば運動神経を乗っ取られている。
 

一、豆腐洗い猫・悪口の間(ま)

 
 世界各国の都市にあるホテル、どこの都市であろうとホテルのうち一軒には、或る空間が存在する。
 洗いたてのシーツや枕カヴァーを積んでおくリネン室、フロントのキーの保管所、貴重品入れ、従業員用エレヴェーター、そういった、利用客が意識しないホテルならではの設備の合間に、ひっそりとそれはある。
 仮面をつけた人々が深夜につどう。ホテルで行われ得るどんなエロティックな行為よりも刺激的に……背徳的に……、人々はその空間で、或る行為に熱中する。

「天使にいたる病」片理誠

(PDFバージョン:tennsiniitaruyamai_hennrimakoto
 後背上部翼状変形症候群、というのが医師の告げた病名だった。それも典型的なね、のおまけ付き。
 ほら、ご覧なさい、とレントゲン写真の一部を指さす。
「ここ。まだ小さいですが骨格が形成されつつある。こりゃ、生えますね」
 そんな、と俺。合成革張りのスツールから思わず腰が浮き上がる。

「かなちょろ」高橋桐矢


(PDFバージョン:kanachoro_takahasikiriya


 長い雨があがって、久しぶりによく晴れた春の日のことです。
 かなちょろが一匹、草地のはじっこの平たい石の上でひなたぼっこしていました。
 かなちょろは小さなトカゲです。トカゲは、寒くなると体が冷えてしまうので、こんなよいお天気の日には、かならず体をあたために出てくるのでした。
 おひさまにてらされて、ちょうどいいぐあいにじんわりあたたかくなった石に、おなかをぺったりおしつけ、かなちょろはぬくぬくと目を閉じていました。
 それを、じっとねらっているものがいました。草地のケヤキの木にとまったカラスです。

「城の中の男」太田忠司

(PDFバージョン:sirononakanootoko_ootatadasi
 雷鳴が聞こえた。
 聳え立つ城は稲妻に照らされて一瞬その姿を露わにしたかと思うと、すぐ闇と雨の中に紛れ込んでしまう。だがその一瞬で、私は城の全容を脳裏に焼き付けた。
 城門の跳ね橋は上げられている。
「城壁を登るか、それとも裏手に廻ってみるか」

「クリスマスの発祥」―豆腐洗い猫その6― 間瀬純子


(PDFバージョン:kurisumasunohasshou_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』

 前回までのあらすじ/豆腐洗い猫は、背中にツツジの枝を六十本挿し木された。


一、幻覚街

 
 捨てられていた子猫の時、冬の冷たい雨の日だった。
 公園の植え込み、常緑の久留米ツツジのこんもりした株の下に、子猫はうずくまっていた。
「雨音は雨がやむまでやまないにゃー」と子猫はさびしく思った。ぎっしりついたツツジの葉っぱが冷たい雨を遮り、今にきっと良いことがあるよと励ましてくれた。

「アガペ」山口優

(PDFバージョン:agape_yamagutiyuu
 科学部部長の絵夢先輩は、いつも興味深い発明をする。
 その日、彼女が作っていたのは、いわゆる惚れ薬だった。が、彼女の説明には、不可解な点があった。
「ただ、飲めばいいのよ。そうすれば惚れることになるわ。それだけ」
 彼女はいった。彼女はフラスコの中の、果汁一〇〇パーセントオレンジジュースのような液体を私に示して見せた。
「こわい?」

「電話」井上剛

(PDFバージョン:dennwa_inouetuyosi
『誕生日なのにごめんよ』
 電話の向こうで彼が言った。気にしないで、とあたしは送話口を手で覆って囁くように答えた。彼にはあたしの声以外、聞かせたくはなかったから。彼に向けたあたしの言葉を、他の誰にも聞かれたくはなかったから。
 今どき大学受験に専念するために逢うのを我慢するなんて流行らない。でも、そんな彼の生真面目さが好きだった。医学を学び、命を救うために働きたい。照れ臭い台詞がよく似合った。あたしもいつしか、彼と同じ道を歩きたいと思うようになっていた。

「ノミの大地」高橋桐矢


(PDFバージョン:nominodaiti_takahasikiriya
 犬の首すじのあたりに、ノミがいました。
 ノミは、お腹いっぱい血を吸うと、仲間に話しかけました。
「どうも最近、味が薄いと思わないか?」
 そばにいた仲間のノミが、こたえます。
「ああ、おれもそう思っていた」

「愛玩妖精カウ・アイー」黒葉雅人

(PDFバージョン:aigannyouseikauaii_kurobamasato
>入力確認

>検索中

>データ開示

――――――――――――――――――――

≪愛玩妖精カウ・アイー≫

〈概要〉
 アーク・アイランズで発見された動物。
 多彩な毛色、瞳の色を持つ。
 小型なものは、身長一メートル。
 大型では、一・三メートル規格となっている。
 オプションとして、オスタイプの下半身、メスタイプの胸の大きさは、買い手の希望サイズに変更可能(ただし別料金)。

「縁日」井上剛

(PDFバージョン:ennniti_inouetuyosi
 十歳ぐらいの少女が白い浴衣の右袖をたくし上げる。好奇心をいっぱいに湛えた瞳。『がんばれ』という男の声に励まされて、紙製の網をおずおずと水槽に差し入れる。
「あの子、上手に掬えるかなあ」
 固唾を呑んで見守りながら愛子が尋ねる。私は何も言わず、静かに頷き返す。
 お目当ての金魚が決まったらしく、少女は袂を押さえて、慎重に腕を動かし始めた。
 が、ほどなく少女は口をへの字に曲げる。水槽の中の網は見えないが、どうやら取り逃がしたらしい。『惜しい』と男の声がした。

「我が子」飯野文彦

(PDFバージョン:wagako_iinofumihiko
 井之妖彦が庭を掘り起こすと、地中から壺が出てきた。蓋を開けた途端、中から盛りのついたような泣き声がする。壺の中には赤ん坊がいた。
 なぜこんなところに赤ん坊が――と驚かない訳がない。けれども、そのままにしておくこともできず、壺から赤ん坊を取りだした。何も身につけておらず、全身、紅を落とした柔らかい水飴のような液体でおおわれている。あたかもたった今、生まれ落ちたばかりのような有り様だった。

「ロボット」山口優

(PDFバージョン:robotto_yamagutiyuu
「掃除と洗濯はお願いね、それから夕ご飯はスパゲッティがいいかな」
 わたしはそう、人間そっくりのメイドロボに指示を与えた。メイドロボは丁寧に一礼し、わたしの指示に従って、まずは掃除のために箒を取りにでかけた。それを見送り、わたしは自室に引きこもり、先程までやっていた作業の続きを開始した。
 わたしは、ロボット製造工場の技師をしている。といっても、工場に直接勤務することはない。今の時代、工場はすべてオートメーション化されているのだ。わたしのすることは、ロボットの基本的な設計図の作成だけである。後はすべて工場のロボットがやってくれる。

「手品師の憂鬱」太田忠司

(PDFバージョン:tejinasinoyuutu_ootatadasi
 拍手が聞こえた。
 さして多いとは言えない観客の、あまり熱心とは思えない拍手だ。それでも私はシルクハットを脱ぎ、丁寧に頭を下げた。
 そして手にしたハットを天井目掛けて放り投げた。
 ハットは宙を飛び、高さ三メートルほどのところで停止した。私は取り出した懐中時計で時間を計る仕種をし、二十秒ほど経ってから片手を差し出した。ハットは木の葉のようにひらひらと舞いながら私の手に収まる。
 また拍手。

「地獄のクリスマス」―豆腐洗い猫その5― 間瀬純子


(PDFバージョン:jigokunokurisumasu_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』


一、地獄の葉緑素


 豆腐洗い猫は、上司である一神教の神によって、宇宙の公団住宅の地下にある地獄に派遣されることになった。
 
 そのいきさつはこうである。
 一神教の神は宇宙の公団住宅の一階に住んでおられた。一神教なので一人暮しで、お部屋は簡素であった。豆腐洗い猫は庭のすみっこに宅配ピザの空箱を敷いて寝床にしていた。
 庭に、色々な種類の『つる植物』が生え広がってきたので、下僕の豆腐洗い猫はせっせと草むしりをした。
「取っても取っても生えてくるにゃー」と猫はひとりごとを言った。

「Buy‐Buy!」木立嶺

(PDFバージョン:buy-buy_kodatiryou
「またまたやっちまったーっ! これで今年に入って三人目!」
 そう喚くと、大宮千里は泡の残る大ジョッキを、テーブルにドンと叩きつけた。
 ここは駅前の小さな居酒屋、対面に座る水原瑞乃は、ウーロン茶のコップを両手で支えていたが、周囲の視線を気にしてか、おずおずと笑みを形作った。
「千里が何をやっちゃったのか、このお店に誘われた時点で想像は付いているんだけど、一応訊いとくね。どうしたの?」
「昨日ね、琴美がお目当てのバッグを買いに行くから付き合ってって言うから、わざわざ講義ブチって付き添ってあげたのよ。友達だし、時間もかからないと思ってさ」
 何時ものことだが、大宮は酔いの回りが光速だ。顔は早くもりんご、目の焦点も狂い始めている。

「小雪」飯野文彦

(PDFバージョン:koyuki_iinofumihiko
 小雪がひとりになって、二十年近い歳月が過ぎた。幸い、すべての段取りを夫が済ませてから逝ったため、生きていく上で不自由はない。これから安心して三十年、否、四十年は生きられる。何か不都合が生じたら、月に一度様子をうかがいに来る弁護士に告げれば、解決できる。
 見晴らしの良い個室を与えられていた。三度食事を与えられ、入浴も週に三度できる。もっとも食事はきちんと取っていたけれど、入浴のほうは週に一度入れば良いほうだ。というのも三ヶ月前までの話である。三ヶ月前、新たに小雪の担当になった看護師は、若い生意気な女だった。
 担当になって三日と経たないうちに、検温をしなかった小雪にむかって、
「あなただけの面倒を見ているんじゃないですからね」
 と文句を言った。それ以来、入浴を止めただけでなく、糞尿の始末も自分ではしていない。
「自分でできるんだから、自分でしたほうが自分のためにもなる」
 自分と言う言葉を何度も言いながら、医師が説明したとき、小雪は言った。
「あの看護師さんはぜったいにわたしの担当から外さないでくださいね」

「幽霊」八杉将司

(PDFバージョン:yuurei_yasugimasayosi
 ぼくは本を読んでいた。
 読書が趣味で、休みの日は一人で買い込んだ本を読み漁っていた。
 でも、今、手にしている本はあまり面白い内容ではなかった。本屋でタイトルを見てつい衝動買いをしてしまったノンフィクションだったが、その著者の持って回った言いまわしにうんざりしていた。表現が違うだけで同じことを繰り返していたり、テーマと関係ない独りよがりな日常の持論を延々と語っていたりするのだからたまらない。とはいえ買ってしまったので読まなくてはなんだかもったいない。
 時刻は夕方で、小春日和の天気は部屋を気持ちよく暖めてくれた。
 そんな中でその本は、当然のごとく、ぼくを居眠りへといざなう。
 うとうとし出した。もう文字は目に入ってこない。まぶたが半分閉じていた。
 起きなければと思った。こんな中途半端な時間に昼寝なんかしたくなかった。
 だけど、体は動かなかった。
 指先一つ曲げられない。
 そこで人の気配がした。

「浴室の宇宙」太田忠司

(PDFバージョン:yokusitunouchuu_ootatadasi
 悲鳴が聞こえた。
 妻の声だ。たしか今、風呂に入っていたはずだが。
 また聞こえた。只事ではない。メールチェックをしていたスマートフォンを持ったまま、慌てて階段を駆け下りた。
 浴室の扉が開いて、全裸の妻が廊下に立ち尽くしていた。
「何だ? どうした?」

「ミドリ(ガ)(ノ)ドクハク」黒葉雅人

(PDFバージョン:midoriganodokuhaku_kurobamasato
 わたくし、クロロ、と申します。
 気がつけば――気がついたときにはもう生きておりました。
 わたくしの体の一番外側は、いろんな形に変化変形する不定形な膜でできておりまして、その膜の中を満たしているのは透明な粘液でございました。
 その粘液の中で、タンパクの粒とともに、わたくし自身の本質でありますところの細長い体を環状型にゆるく丸めたまま、ゆらゆら、ゆらゆらと漂わせておりました。
 わたくしが生きるのに必要なエネルギーを得るためのエサは、光と二酸化炭素、この二つさえあれば充分。他にはなにも要りません。それだけで満足。わたくしはなんの不満を感じることもなく、また特になにするでもなく、長いあいだ、ただ漂いつつ、生きておりました。

「雨宿り」飯野文彦

(PDFバージョン:amayadori_iinofumihiko
 俗に昔から夏の雨は馬の背を分けるといわれているものだけれど、それは現代にも当てはまることだろう。
 特に最近は夕立、俄雨などとは言わずにゲリラ豪雨などと名づけられた凄まじい降雨が、局地的とはいえ、大きな被害をもたらしている。ある夏の日の昼下がりに私が遭遇したのも、その類だったのだろう。
 この日私は、編集者との打ち合わせのため、神田G町を訪ねていた。出版社に直接出向いて、小一時間話し、そこを後にしたのは午後五時近い時刻であった。
 ずいぶんと日は西に傾いていたものの、まだまだ野外は蒸し風呂のごとき状況を呈していた。出向いてきたときよりも、じりじりと心身を蝕む蒸し暑さが増している気がした。

「し み」荒巻義雄(魚澄昇太郎:名義)

(PDFバージョン:simi_aramakiyosio
 恐らく信じやしまいね。
 近ごろ、長雨がつづいているだろう。てっきりしみだとばかり思っていたよ。そう、丁度その辺だね、壁紙がちょっとばかり破れているあたりだよ。
 その晩、俺は例によって無電機(原文ママ)いじくっていたな。これだけが俺の道楽、ちゃんと、ハムの免許は持っているよ。
 いきなり、そいつのつぶやきが聴こえてきたんで、俺はびっくりしたね。

「豆腐洗い猫その4 『豆腐洗い猫トーテム』」間瀬純子


(PDFバージョン:toufuarainekototem_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』


 トーテム【totem】
社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結びつけられている自然界の事物。
主として動物・植物が当てられ、集団の祖先と同定されることも多い。(広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店)


一、雛祭りの午後の優美な豆腐洗い儀式


 豆腐洗い猫をトーテムとする一族などが繁栄するはずはなかった。
 幡倉真弓(はたくら・まゆみ/人間/オス)は、豆腐洗い猫を崇拝する一族の末裔であり、現在、彼の知る限り、唯一の生き残りだった。
 幡倉真弓の、何となく立派な名前から察せられるとおり、幡倉家は、かつては明治の元勲の親戚の出入り商人の番頭という栄華を手にしていた。山手線の内側に建つ、広壮な屋敷で過ごした少年時代を、真弓は夢のように覚えている。

「はるかな町」瀬名秀明

(PDFバージョン:harukanamati_senahideaki
 少年はまっすぐ前を見据えて青い空の下を走っていた。
 いや、彼はすでに高校二年生であり、少年と呼ぶには成長していた。だから少年ではなく彼と呼ぼう。慶長年間に火災で天守を失った城跡の周りを、お堀に沿って左回りに走る。二度息を吸い、二度息を吐き、遮るものもなく見晴らしのよい車道を、次の曲がり角へ向けてただ前へ進む。そこへ到着したら、彼の前には次の視界がはるかに広がる。
 彼はいつも正面を見つめて走った。登下校で自転車のペダルを踏み込むときも、まっすぐ続く長い道をとらえて駆けた。