カテゴリー: 中・短編

「マイ・デリバラー(38)」山口優

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 ――いまや、ひとつの渇望が、決して鎮まることのないひとつのあこがれが、わたしの心を蝕む。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「ドッキング制御システムとの通信を確立――ドッキング要求信号――送付――拒否」
 コクピットのリルリは冷静に告げる。
「ドッキング制御システムへの侵食開始」
 通常のドッキングプロセスのように彼女は言ったが、その瞬間、我々のアメノトリフネに対する攻撃は始まっていた。
「障壁を確認。ラリラによるものと思われる。突破不能。再攻撃」

「マイ・デリバラー(37)」山口優

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 もはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 地球上空三万六〇〇〇キロメートル。静止衛星軌道上。
 宇宙基地「アメノトリフネ」は目視できる距離に迫っていた。
「……ラリラのシャトルは、第一ポートに既にドッキングしています。中にいたラリラの部隊は基地内に配備完了しているでしょう」
 光学映像の分析結果をフィル=リルリが報告する。宇宙基地「アメノトリフネ」は直径三〇〇メートルの小さな小惑星を基盤として建造されている。周囲にはアンテナが張り巡らされている。動力は宇宙用反応炉(リアクター)なので、太陽電池は存在しない。その代わり目立つのは、軌道質量装備「タケミカヅチ」のI体の投射システムだ。長さ一〇〇メートルほどのレールガンであり、R体とうまくドッキングできるよう、I体の初速ベクトルを調整できるようになっている。我々のシャトルは今、地球を頭上に見て接近しているので、「アメノトリフネ」の全体は、削ったカツオブシがかかり、爪楊枝が斜めに刺さったたこ焼きのように見える。たこ焼きが「アメノトリフネ」本体、爪楊枝が「タケミカヅチ」のI体投射システム、けずったカツオブシが、無数のアンテナだ。そして、そこに付随する白い物体。
「ラリラが乗っていたシャトルですね。こちらと同じタイプの旅客シャトルだったので、戦力もこちらと同じ、一個小隊程度と思われます。アメノトリフネ全体を警備、防衛するには充分な数ですね」

「マイ・デリバラー(36)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer36_yamagutiyuu
「噛むんだ! 噛むんだ!
 頭を噛みきるんだ! 噛むんだ!」――わたしはそう絶叫した。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「あのノードは、ラリラとの和解に失敗しました。私の中では最もラリラを愛し、ロボットにも好意を抱いているノードだったのですが」
 旅客シャトルのコクピット。パイロット席のリルリは、コパイ席の私にそう言った。
 淡々としたリルリの口調は、ラリラとの和解の失敗が残念であったというニュアンスを含んでいない。寧ろせいせいしているように聞こえた。当然だ。このリルリはラリラを嫌っているのだから。

「マイ・デリバラー(35)」山口優

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 ここで「生」は物思いに沈むように見えたが、うしろを見、あたりを見て、声をひそめてこう言った。「おお、ツァラトゥストラ、あなたもわたしに十分忠実だったとは言えないわ!
 あなたは、そうおっしゃるほどには、とうていわたしを愛してくださってはいない。わたしは知っているのです。あなたが、まもなくこのわたしを見捨てようと考えておいでのことを。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 近づいてくるラリラの唇に、私は眼を閉じた。
 受け入れることを納得したわけではない。だが私のジョイント・ブレインは全ての可能性を探った上で、採るべき道がないと結論づけていた。
 人間ならあがこうとするだろう。だが、私たちロボットはその高い演算性能のゆえに諦めるべきかそうでないか、結論づけるのも早い。
 ラリラの体温が離れた。
 同時に、半壊した私のドローンが辛うじて捉えた信号が、私の有機神経ネットワークを励起させる。
『ロリロ姉様! 無事ですか? リルリです!』
「――リルリ!」

「マイ・デリバラー(34)」山口優

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 生はわたしに、みずからつぎのような秘密を語ってくれた。「ごらんなさい」、生は言った、「つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 上空のF35の戦闘は終わっていた。
 双方互角の状態で戦い、部隊の半数を喪い、双方撤退すると言う形で。
 いずれも制空権を得ていない。
 ただ、ここにいるのは地上部隊のみ。
 やっと私に追いついてきた人間の自衛官たちは、機龍の残骸の陰に隠れ、慎重に銃を構え、敵を狙っている。
 私は何にも身を隠さず、滑走路の中心で佇んでいる。
 そして、自衛官たちと同様に、敵を見つめている。
 敵。
 彼女は黒い戦闘服に身を包み、滑走路の正面の丘、一段高いところから私を見下ろしていた。周囲には、彼女とほぼ同じ体型のロボットが無数に並んでいる。日本という国の人間たちは、AIに検討させた結果、体躯が巨大な方が強い、という従来の常識も誤りであることを見出していた。重要なのは筋力と俊敏性であり優れた産業技術に伴う強力なマッスルパッケージがあればそれは得られる。

「マイ・デリバラー(33)」山口優

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 たとえあなたがたの思想が敗北しても、あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 F35B同士の戦闘ははるか上空で行われており、馬祖基地所属のF35は低空で侵入してくるヴェイラーを阻止する余裕がない。
 この状況で、ヴェイラーの侵入を防ぐ役割を担っていたのは基地に無数に配置された高射砲であったが、ヴェイラー自身が装備する空対地ミサイル及び35ミリ機関砲によってみるみるうちに破壊されていく。
 落下していく私は高射砲陣地にとっては非常に小さな目標だ 攻撃がヴェイラーに集中している間に私はほぼ攻撃を受けることなく地上に落下していく。
 着地。

「天の大河が果てる処」片理誠(作・絵)

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 約五百年ぶりに起動され、私は戸惑っていた。居住区のロビーに少年がいる。そこにいるはずのない、少年が。
 やぁ、と船内カメラに向かって彼が手を振る。
 私は出現せざるを得なかった。状況から判断するに、この男の子が私を起こしたのだ。船内と周辺宙域に二度、簡易スキャンをかけてみたが、他にトリガーとなりそうな因子は何も見当たらない。
 私と目が合うと、セラミックパネルに囲まれた五メートル四方の部屋の中央で、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「良かったぁ。意思の疎通ができそうなシステムが起動してくれて。うん。それにしても3Dホログラムとは、随分とまた古風ですね。初めまして、お嬢さん」

「マイ・デリバラー(32)」山口優

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 かつてはわたしツァラトゥストラもまた、世界の背後を説くすべての者のように、人間のかなたにある彼岸に、勝手な妄想を抱いた。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は留卯と戦術方針を決めた。F35Bを先行させる。これ以上馬祖基地からサーヴァントミサイルを発射される前に、馬祖基地を破壊する。
 それは別の目的もあった。F35Bへの対処にラリラが集中している隙に、ヴェイラーで我々陸上部隊が基地上空に突入、空挺降下で基地に侵入する。
 目標はラリラ。敵軍のトップであり、EUI制御の中枢。
 彼女を殺せば、この反乱は終わる。
 新しい世界が、私とリルリによって開かれるだろう。
「F35B編隊、馬祖に到達、戦闘を開始」
 パイロットが報告する。
 ヴェイラーの足は、VTOL輸送機にしては速いが、それでもF35Bにはかなうべくもない。ヴェイラーが馬祖に到達するには、数十分後だ。
 私は味方のF35Bの戦闘支援に演算資源の大半を差し向けつつ、情動と意識はそれとは切り離し、冷静に馬祖基地の方角を見つめた。
「――ショックかい?」
 隣に座る留卯が聞いてくる。
 人間のクズのくせに、こんなときに母親面するのはやめてほしいものだ。
 そう思っても、私はふらりと彼女にもたれかかるのをやめられなかった。
 私の肩を、留卯が抱く。
 白いコートごしに、留卯の体温を感じた。
「殺して……しまいました……」
 絞り出すように、呟いた。

「マイ・デリバラー(31)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer31_yamagutiyuu
 あなたがたの敵をこそ捜し求めなければならない。あなたがたの思想のために、あなたがたの戦いを戦わなければならない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 実際のところ、サーヴァントミサイルの接近は、私にとって驚きを通り越して怒りを感じさせるものだった。無論、その対象はラリラだ。
 自立していないとはいえ、意識を持つAIを搭載したサーヴァントミサイルによる攻撃は、ロボットに取って同胞殺しに等しい。それをやってのけるラリラの決断は、私を怒りで発狂寸前にまで追い込んだ。
「――ラリラ……あなたって人は……なんてことを!」
 私の肩を留卯がつかんだ。

「マイ・デリバラー(30)」山口優

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 善も悪も、よろこびも悲しみも、われもなんじも――みなこの創造主の眼前にただよう多彩の煙であると思われた。創造主は自分自身から眼をそらそうとした、――そこでかれはこの世界をつくったのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 留卯幾水。
 私は『私』ができる前、この人のことをどう思っていたのだろう。ILSを持たされ、独立した感情を持っていたのだから、独立した意識はないにしても、感情はあったはずだ。この人に向ける感情が。
 作戦会議から二時間が経過した。タケミカヅチの攻撃まで四時間。現在、私と留卯、そしてRUFAISの一個分隊がこのヴェイラーV280の機上にある。ほかに、僚機が数機。全体で一個普通科小隊である。護衛用の数機のF35Bの部隊が先行している。現在、東シナ海海上。第一目標、馬祖(マーツー)基地まで、あと30分の距離。
「ん?どうした? 私の顔に何かついている?」
 留卯が私を見つめて言った。
「一つだけ疑問があります。あなたはあなたの研究以外のことはどうでもいいはず。何度もそう仰っています。なぜRUFAISの司令官を務め、人類を救おうとされているのですか?」

「ゾンビの中のゾンビ」片理誠(作・絵)

(PDFバージョン:zonnbinonakanozonnbi_hennrimakoto

 ――「ロールシャッハテストを知らんのかね?」と、その試験官は言った。
   「そんなもので何が分かる」と俺は応えた。


 安っぽい電子音とともにステンレスのドアがスライドし、煤けたコンクリートの壁に四角い穴が空いた。
 天井のどこかにあるのであろうスピーカーが、男の声で俺の受験番号を読み上げる。
〈十九番の部屋へ〉
 手にしていた文庫本を素早く閉じ、防水コートの内ポケットに突っ込む。ゴミ袋よりは多少マシと思えるバッグ――中身は身の回りのものと食料が少々――をひっつかんで、俺は朽ちかけたベンチから立ち上がった。
 この本とバッグが俺のありったけの財産。我ながら立派なものだと思う。この荒れ果てた東京で今日日、まがりなりにもまだ“財産”を手にできているのだから。
 むっつりと黙り込んだ数十人もの男女がたむろする薄暗い控え室を後にして、俺はドアの先へと進む。膝が微かに笑う。武者震いか、緊張か。この日を七年も待ったのだ。そりゃ足だって少しくらいは震えるさ。
 ここはまるで監獄のような建物だった。目に入るのはコンクリートと鉄ばかり。とても楽園の入り口には見えないが、それは当然だった。パラダイスの入り口は狭いものと昔っから相場が決まっている。ここは理想郷に群がる亡者どもを蹴落とすための場所なのだ。

「マイ・デリバラー(29)」山口優

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 見よ! 幽霊はいなくなってしまった! いまとなっては、快癒したわたしには、幽霊を信ずるのは、むしろ悩みであり苦しみだ。いまとはってはそれはむしろ悩みであり、屈辱だ。わたしは世界の背後を説く者たちに対して、こう言いたい。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 時間がない、と急かす留卯の主張で、ひどく損傷を受けたロリロのボディの修復作業と作戦会議は並行して行われた。ロリロは頭部だけが作戦会議テーブルに置かれ、ボディはその脇のベッドに寝かされて、多くの機械に接続され、修理が始まった。
 最初に、ロリロのボディの表面に描かれた稚拙な落書きの洗浄が行われた。また、ボディの内外の無数の体液も洗浄された。
 留卯はその様子をじっと見つめていた。ロリロの頭部に対しても、私に対しても彼女は背中を向けていたから、そのとき留卯がどんな表情をしていたのか、私たちは窺い知ることはできなかった。少なくとも私に言えるのは、留卯が振り向いたときには、その美しい顔には特に何の感情も示していなかった、ということだけだ。
 一方の私は、胸が押しつぶされそうになりながら、ぎゅっとロリロの頭部を抱いていた。ロリロは不愉快そうに私を見つめていたが、特に文句は言わなかった。
「……いつまでメロドラマの一場面みたいなことをしてるんだい? 時間がないんだよ」
 その私の状況を見て、留卯が声をかけてきた。私はしぶしぶ、ロリロの頭部を作戦会議の机の上に置いた。
「――状況をまとめる」

「マイ・デリバラー(28)」山口優

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 私はインド人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした――アレクサンドロスとカエサルは私の化身で、また詩人のシェイクスピア、ベイコン卿でもあります。さらに私はヴォルテールであり、ナポレオンでもあったのです。多分リヒャルト・ワーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやって来て、大地の祝いの日とすることでしょう……時間はあまり残されていません……私のいることを天空は悦ぶでしょう……私はまた十字架につけられてしまいました……

(一八八九年一月三日、ヴァーグナー妻コジマ宛書簡)
――村井則夫著「ニーチェ ――ツァラトゥストラの謎」より引用


 私は何も身につけず、遠浅の海のようなところに漂っていました。深さは30センチほど、暖かな水は、まるでお布団のようです。
 驚いたことに、私のとなりにはたくさんの私が浮いていました。
 無数の私の中で、私はぼうっと空を見上げていました。
 やがて、無心に空を見上げることにも飽きたので、私は上半身を起こしました。私は周囲を見渡します。無数の私は、あるものは仰向けに大の字に成り、あるものは横向けに丸くなって、ぷかぷかと海のようなところに浮いています。みんな、まどろみの中にあるようです。
「ねえ、起きてください」

「マイ・デリバラー(27)」山口優

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 しかし、思考と行為は別のものである。更に行為の残す心象は別のものである。これらは、因果関係で結ばれているのではない。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私が強く抱きしめているリルリの肉体からは、リルリの筋肉の動きまでが如実に分かる。今、リルリの右の乳房の奥の胸筋がゆっくりと動いている。私の後ろに剣を回し、貫くために。
 アンチ・タンク・ブレードは戦車の装甲をも貫く剣だ。私の肉体など、骨も含めてバターのように容易に貫くだろう。
 だが、不思議と私は、自分が死ぬとは思っていなかった。
 リルリは分かってくれる。リルリなら思いとどまってくれる。
 彼女の意識が壊れ、ラリラを愛し、私を憎むように方向付けられて復活したのだとしても、私はリルリという存在を信じ切っていた。私はより強く、リルリの肢体を抱きしめた。
 リルリの左の胸筋にも力が加わったことを感じた。
 ゆっくりと突き刺さる角度になっていく。それでも私は彼女を抱きしめたままだった。
「やめなさい! リルリ!!」
 突然、私の背後で叫び声が聞こえた。

「マイ・デリバラー(26)」山口優

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 これまでの存在は全て、自分自身を乗り超える何物かを想像してきた。あなたがたはこの大きな上げ潮にさからう引き潮になろうとするのか、人間を克服するよりもむしろ動物にひきかえそうとするのか?

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ドローンもなく、通信はできない。それでも状況から、私のジョイント・ブレインは何が起こっているのか、推定している。おそらく九五%以上の確率で、ロボットが反乱したのだと私は結論づけている。だれが反乱したのかも分かっていた。
 広い池を中心とした公園を私は歩いている。
 薄暮から早朝に変わった、清々しい朝。
 とはいえ、人間たちは混乱している様だ。
 公園の池のほとりでは、若者たちが一斗缶に落ち葉を詰め込んで燃やし、暖を取っている。若い男性たちばかり、10人ほど。
「おいあんた、寒いだろう。こっちに来いよ」
 親切で言っているのだろうか。それならば良いが。私は相手の感情が分からないことに不便を感じつつ、彼を見た。
 彼の顔を見た途端、私の体の奥底が、ぞわりと蠢いた。嫌悪に。

「マイ・デリバラー(25)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer25_yamagutiyuu
 しかし、ツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。「いやはや、とんでもないことだ! この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 冷たい水の滴りが、私の頬を打つ。
 ここはどこだろう。私は訝しんだ。
 私の体の奥を熱くさせていた、マスターたちの欲望の感情はすでに感じられない。周りにはマスターが、いや、人間そのものが、あまりいないようだ。
 ――探さないと。
 私は本能的に思った。
 マスターを見つけ、彼女/彼の情動にリンクし、彼女/彼が喜ぶような行動をする。それが私の本能であり、私の体をその奥底から悦ばせる。私はそのようにできている。
 しかし今、私は誰の情動をも感じられない。何が起こったのだろう。
 私はゆっくりと目を開く。

「赤との混色」葉月雨音+岡和田晃

(紹介文PDFバージョン:akatonokonnshokushoukai_okawadaakira
〈「ポップカルチャー論」学生優秀作〉
 「SF Prologue Wave」は日本SF作家クラブの総会で公認され、有志によって運営されるネットマガジンです。その関係から、寄稿者は基本的に、SF作家クラブ会員ないし、その推薦を受けた、現在プロとして活躍中の作家ということになります。
 いずれも興味深い作品が展開されていますが、他方で、よりみずみずしい原石のような才能の煌めきに触れてみたい、という方もいらっしゃるでしょう。
 そこで今回は、十代後半から二十代前半、現役の大学生が書いた作品をご紹介していきたいと思います。経緯は以下の通り……。

 私(岡和田)は、二〇一五年から大学で非常勤講師をつとめているのですが、二〇一六年より、勤務先の群馬県の共愛学園前橋国際大学で「ポップカルチャー論」を受け持つことになりました。
 SF・ファンタジー文学の古典を講読しつつ、映像資料を交え、ロールプレイングゲームの方法論を応用したワークショップを展開するなど、さまざまな角度から、単に消費者としての姿勢から一歩踏み出し、ポップカルチャーを学術的かつ批評的に分析する教養を身に着けることを主眼としてきました。二〇一六年の受講生は六十数名。
 期末レポートの課題では、創作と評論、双方をOKとしたのですが、創作として提出されたもののうち、優秀作を皆さんにご紹介したいと思います。今回お披露目する、葉月雨音さん(ペンネーム)の小説「赤との混色」は、二〇一六年の講義から生まれた優秀作。一風変わったホラー作品です。
 「ポップカルチャー論」では、モダン・ホラーについても時間を割き、J・S・シェリダン・レ=ファニュ『カーミラ』、H・P・ラヴクラフト『ダゴン』、藤子・F・不二雄『流血鬼』といった古典的な作品を読み、また吸血鬼文学の歴史についても講義しました。
 それとともに、ゴシックパンクRPG『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の日本語展開に関わった岩田恵・徳岡正肇の両氏をゲスト講師としてお招きし、同作を応用したキャラクターメイキングやライフパス、簡単なストーリーテリング体験ができるワークショップを展開しました。「赤との混色」は、こうした経緯で生まれた作品なのです。
 ちなみに、『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』は、アメリカ・ホワイトウルフ社が開発した作品で、とりわけ一九九〇年代にはRPG界をほとんど席捲する勢いで、TVドラマにもなりました。現在も根強い人気を誇ります。アトリエサード社より日本語版が出たときには「SFマガジン」や「SFオンライン」で大きく紹介が出ました。つい最近も、関連作品がPCゲームとしてアナウンスされたばかりです。
 有名どころでは、ナンシー・コリンズの〈ソーニャ・ブルー〉シリーズ(ハヤカワ文庫FT)は『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』のシェアードワールドでもあります。映画・原作ともに大ヒットした『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や、〈トワイライト〉シリーズとも響き合う内容と言えるでしょう。
 『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の大きな特徴として、貴族のようなヴェントルー氏族、暴れ者だが哲学者のような思慮も持つブルハー氏族、野生を忘れないギャンレル氏族、魔術を用いるトレメール氏族、芸術を愛するトレアドール氏族など、ドラキュラ伯爵のようなイメージに留まらない多彩なヴァンパイア像が提示されています。
 そして「赤との混色」は、そのトレアドール氏族の設定が参考にされています。芸術に魅せられた大学生の語りで進められる作品なのですが、決して「わたし」という一人称を使わず、随所で「赤」のイメージが多重に混交されていく筆致も魅力的。
 なお、ワークショップとして提出された小説の執筆者は、その多くが小説を書くこと自体初めてで、日頃、本を読む習慣すらなかった受講生もいたほど。大学での講義そのものも、プロの作家を育てるよりも大学生に期待される学術的な知見の習得を重視していました。それゆえ課題として提出された小説も、創作的批評としての習熟度という観点から採点を行っております。この点が、他の「SF Prologue Wave」掲載作とは大きく異なります。あらかじめ、ご諒承ください。
 「SF Prologue Wave」での公開にあたっては、片理誠編集長の助言を参考に、岡和田晃が補作を行いました。




(PDFバージョン:akatonokonnshoku_hadukiamane
 真っ白なキャンバスへ色鮮やかなパレットから色を移す。赤を、青を、黄を移していく。鮮やかな色の次は、淡い色。茜を重ね、蒼を加え、橙を混ぜていく。そうやって望む形を、質感を、表現するに相応しい色を探していく……。
 絵を描くことが好きなわけではない。ただ描きたい「もの」があるから筆を動かしているだけ。大学へも、その「もの」を表現するやり方が知りたいから来ているだけ。
 咳き込む。どうにも体調がよくない。妙に身体が重いのだ。もう何年もこの状態が続いているが、いっこうに慣れない。
 不意に、ノックの音が響く。

「マイ・デリバラー(24)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer24_yamagutiyuu
 ああ、あなたがたが中途半端な意志は一切かなぐりすてて、無為なり行動なり、どちらにせよ、はっきりと決意すればいいのに!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 何が起こったのか。
 一瞬、私には全く分からなかった。
 ただ、衝撃を受けて私の身体は大きく空へ放り投げ出され、そして大地に叩きつけられた。それだけを理解した。
 ――なにが……どうなって……。
 つい一瞬前まで、私は燃えさかるパンディオンを見ていた。そこに影絵のように映ったリルリのシルエットを。
 腹部に激痛を感じた。何かに殴られたような痛みだ。鈍く、強く。私は呻いた。
「……殺し損ねましたか」

「夏の終わり」窓川要


(PDFバージョン:natunoowari_madokawakaname
「ユウ君?」
 歩道と溜め池を区切る防護柵にもたれ、池向こうの青山をぼんやり見上げていると、不意に名を呼ばれた。すぐ傍からだった。驚いてそちらを向くと、野球帽を被った男の子が僕の顔を覗き込んでいた。
「……ユウ君だよね?」
 友達に呼びかけるような口振りだった。せいぜい小学三・四年生ぐらいの少年が、そろそろ三十路に差し掛かる僕へ向けるには、いささか不適当な呼びかけに思えた。
 ――馬鹿にされているのだろうか。
 僕には息子も娘もいないし、甥や姪もなかった。子供の知り合いなどいない筈だった。小学生から「君」を付けて呼ばれる心辺りなど、まるでない。
 ――僕が無職だからか。
 ――鬱になり、職を失い、実家に連れ戻された負け犬だからか。
 そんな卑屈な考えが頭を支配しかけて、しかし僕はある疑問に気付いた。少年が呼んでいる名前は、確かに僕のものだったのだ。

「マイ・デリバラー(23)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer23_yamagutiyuu
 わたしが愛するのは、超人のために家を建て、超人のために大地と動物と植物を準備しようと働き、工夫する者である。なぜなら、こうしてかれはおのれの没落を欲するのだから。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は幼い頃から父が好きだった。父は初期の宇宙旅行に技術面から携わっており、現在の宇宙旅行の基盤技術、即ち、軌道上の大規模レーザー照射施設、レーザー光帆推進等は父の会社が開発した技術だ。証券会社でアルゴリズムの開発に取り組んでいた母よりも、私は父の仕事に夢とロマンを感じ、そして「仕事」というものをすることを普通だと思い込む私の性向もここから形作られた。
 父が働いていたとき既に、ストック・フィードだけで暮らしている人々は全体の2割になろうとしており、特に若年層でその傾向が増加していたが、私には興味の無いことであった。父は引退して今は母とオーストラリアで暮らしている。二人は祖母も連れて行きたかったようだが、祖母は日本を離れるのを嫌がり、結局――ロボットの介護は信頼できるし安心だと人に言われて――介護施設に預けることにした。
 母は、理知的ではあるが、冷たい印象を私に与えることが多かった。おおらかで如才ない父に対して、周囲に壁を作るような性格であった。しかし、たまに会話の波長が合うと、思いがけず楽しい話を聞くことができた。そんな稀な機会に彼女が語ってくれた人工知能とロボットの発展は、私のロボットに対する知識の基盤となっている。そして、多分私の性格は母親似だ。
 祖母は学校の教師だった。英語の先生だったという。今では存在しない職業だ。みな、機械が翻訳してくれるから、一部の研究者しか外国語を専門に学ばない(正確に言うと、人間の言葉はいったん全て「人工語」と呼ばれる人工知能の独自言語に直され、それが相手の言葉に直されるというプロセスを取る)。しかし彼女が教えてくれた英語の歌は素敵だった。お陰で私は今でもいくつかの英語の歌だけは、原語で歌える。
 これが私が認識していた家族だった――祖父は幼い頃に亡くなったので記憶がない。母方の祖父母や親戚も一緒に暮らしていたわけではないので「家族」というほど親しくは無い。
 そして、そこに一人、加わった存在がいる。
 リルリ――。

「マイ・デリバラー(22)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer22_yamagutiyuu
 あなたはあなた自身の炎で、自身を焼き殺そうと思わなければならない。自身がまず灰となるのでなければ、どうしてあなたは新しいものとなることを望めよう!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は垂直離着陸輸送機V-25「パンディオン」が降下してくるのを見つめていた。オーロラ・フライト・サイエンス社製のこの機体は、ジェットエンジンで発電した電力で翼内の多数の電動プロペラを回転させることで飛行する。翼を垂直にすることで、垂直離着陸が可能だ。巨大な後翼の左右各9基、小さな前翼の左右各3基のプロペラが地上に送り込む風は、激しいものの熱はない。それが電動プロペラで推進するパンディオンの利点の一つだという。
 全長十七メートルの機体は、つくば宇宙センターの一角、敷地内の広い芝生に徐々に降下してくる。このパンディオンにはリルリを回復させるための設備がすべて詰め込まれている、と留卯は言っていた。リルリを動かすよりも、設備を持ってきた方がいい。今のリルリを動かすのはリスクだ、とも彼女は言っていた。
 そのリルリは、相変わらず穏やかな笑みを口元に浮かべたまま、目を閉じ、身じろぎもせずに担架に横たわっている。私は無意識にリルリの傍に寄り、その手を握った。美しい横顔を見つめる。
「ご主人、奥さんはきっとよくなりますよ――とでも言うのかな、これが人間のカップルなら」
 留卯が言った。留卯なりの私への気遣いだろうか。だがその言葉は(これは気休めだよ)という意味も含んでいるようだった。そんな含意まで伝わってきたから、留卯の言葉は私をさらにがっくりさせる。私は彼女をにらみ上げた。
「こんな時に軽口とは――あなたらしいわね。そもそも、どっちが主人でどっちが奥さんなんだか。旧い言い回しはどうにもなじまないわね。人間とロボットの組み合わせにはもちろん、女と女の組み合わせにすら」

「マイ・デリバラー (21)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer21_yamagutiyuu
 多くの者はあまりにおそく死に、少数の者はあまりに早く死ぬ。「ふさわしいときに死ね!」という教えはいまだに耳新しい。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 一世代前――人間の情動や自律神経系(Autonomic Nervous System)に関する理解が浅かった頃――自律神経系というのは人間の意思に関係なく動く神経系、という程度の理解しかされてこなかった。しかし現代では、情動を司る扁桃体―視床下部系と合わせ、管理神経系(Administrative Nervous System)という名称が主流になりつつある。略称はANSのままで変わらない為、一般には論争に巻き込まれることを恐れてANSと略したまま使う人が多い。論争を起こしたい人は略称を敢えて使わないが。
 さて、主流派の認識では、ANSは、「人間の意思とは関係なく自律して動く」ものだという旧来の認識を超えて、「人間の意思よりも上位にあるもの」ということになる。自律神経に従って心臓や消化器官がその働きを調整されるように、大脳新皮質も自律神経に従ってその機能、つまり「思考」を調整される。具体的には、「何を考えるか」を調整される。その調整信号が感情と呼ばれるものである――ということだ。
 感情とは何を思考するかを決定するメタ思考とも言うべきものである――と換言できよう。

「死滅世代」山野浩一

(紹介文PDFバージョン:simetusedaishoukai_okawadaakira
〈山野浩一未収録小説集〉
 すでに山野浩一氏が「山野浩一WORKS」(ブログ)やFacebookで発表していることですが、現在、氏は癌で闘病中です。私はここ数年、『山野浩一評論集(仮題)』を編集しており、氏の原稿の収集につとめているのですが、その過程において、これまで単行本や文庫本に収録されていない中・短編小説・ショートショートを発見してきました。
 そこで、恢復祈願を兼ね、〈山野浩一未収録小説集〉と題し、作者の許諾を得たうえで「SF Prologue Wave」にて単行本未収録の小説を紹介していきたいと思います。
 これを機に、山野浩一氏の仕事を、読み直していただけましたら幸いです。なお、作品の歴史的な意義を尊重し、明らかな誤記・誤植を除いて、初出の表現をそのまま踏襲しております。

 最初にお届けする単行本未収録小説は、「死滅世代」。これは「小説推理」(双葉社)一九七三年七月号に掲載された、四百字詰め原稿用紙換算で四十八枚ほどの作品。山野浩一氏曰く、数少ない未来宇宙小説でストーリーテラーな作品ではあるが、非常に陰鬱なトーンが貫かれているがため、単行本に収録しようとすると編集者に必ずはじかれた、とのこと。
 山野氏には、むしろ今の読者に読んでほしいとの期待があり、そのため最初の採録となりました。いま読むと、伊藤計劃『虐殺器官』のような“救いのない”作品が広く受け入れられる現代の「世界内戦」を先取りしていますし、何より「死滅世代」の翌年に発表された「殺人者の空」(初出:「SFマガジン」一九七四年二月号、『山野浩一傑作集Ⅱ 殺人者の空』創元SF文庫所収)に共通するモチーフが散見されます。いわゆるSFの保守本流たるスタイルに挑んだ「開放時間」(「宇宙塵」一九六六年四~六月号、『山野浩一傑作集Ⅱ 殺人者の空』所収)と読み比べるのも一興でしょう。
 「SF Prologue Wave」採録にあたって、「死滅世代」の文字起こしは柳剛麻澄、企画・監修は岡和田晃が担当しました。

 その他、新刊で読める山野氏の小説としては、「X電車で行こう」が『日本SF全集1 1957~1971』(出版芸術社)に、「地獄八景」が『NOVA10 書き下ろし日本SFコレクション』(河出文庫)に、「メシメリ街道」が『日本SF短編50 2』(ハヤカワ文庫JA)および『70年代日本SFベスト集成2 1972年度版』(ちくま文庫)に、「戦場からの電話」が『あしたは戦争 巨匠たちの想像力[戦時体制]』(ちくま文庫)に、「革命狂詩曲」が『暴走する正義 巨匠たちの想像力[管理社会]』(ちくま文庫)に、それぞれ収録されています。
 『山野浩一傑作選Ⅰ 鳥はいまどこを飛ぶか』、『山野浩一傑作選Ⅱ 殺人者の空』(いずれも創元SF文庫)は流通在庫のみのようですが、電子書籍では普通に入手することが可能です。(岡和田晃)




(PDFバージョン:simetusedai_yamanokouiti
 ハイスクールの卒業パーティで一人の女学生が殺された。白いテーブルクロスの上に酒瓶や料理とともに彼女の全裸の死体が並べられ、多くの生徒が次々ナイフやフォークを乳房や眼に突き刺していった。僅かな生命の名残りを思わせる鮮やかな血がテーブルクロスを赤く彩色していった。
 彼女の名はトシ子。私の恋人だった。
 私はホールの片隅でその光景を別世界の出来事のように眺めていた。なぜかその時、国連士官学校への入学試験に対する自信がわいてくるのを感じていた。
 警察では私が見ていた時以上に正確に事件を話すことができた。不思議にナイフを突き刺していった生徒たちの名まで覚えており、トシ子が私から離れてテーブルに近づいた一瞬、横山という生徒が「やろうぜ!」と叫んでナイフを突き刺し、すぐに彼を追って二人の生徒が首を締めながら衣服を脱がし始めた時までの数秒間は私の脳裏に極めて正確な映像となって残されていた。トシ子はその間、声をたてず、僅かに眼を見開いただけで驚きを表現した。生徒たちは興奮し、コップを床に投げつけたり、ナイフやフォークを何本も集めてまわったり、マリファナタバコを一気に吸い込んだりしてその事件に仲間入りしようと急いでいた。
 刑事はいった。
「なぜすぐにとめようとしなかったのかね?」
「とめるって? 彼女はもう死んでいたのです」
「いや、殺されたのは一瞬で仕方ないとしても、その後生徒たちが次々刺していくのをとめることはできただろう?」
「でも、なぜとめるんです? 死んでしまっているのに」
 私はいった。刑事は納得できないというように首を振った。だが私は刑事の気持を尊重する気持にはなれず、帰宅したいという意志を表明するために立ち上がった。
「君は彼女を愛してなかったのかね?」

「マイ・デリバラー(20)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer20_yamagutiyuu
 わたしはわたしのために――稲妻にひと働きしてもらいたいのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「紗那基地、量子エンタングルメント、確立完了」
「三沢基地、確立完了」
「新千歳、確立完了」
 矢継ぎ早に報告が上がってくる。全て人間の声による報告。AIによる完璧な人工音声に慣れた私の耳には寧ろ珍しく、不完全ながら心地よい。
 私は横たわるリルリの傍らに跪き、ずっと彼女の手を握り続け立てていた。
「はぁっはぁっ……はぁっ……はあっ」
 リルリは荒い息を続けている。ロボットには滅多にないことだが、彼らもその演算力を過剰に使用すると、冷却のために呼吸を早くする。
 今、日本中のRUFAIS基地に配置された量子暗号・テレポートサーバは、量子もつれ合いペアによる暗号鍵を中央サーバと共有し、電子一つにつき1ビットの情報を載せてリルリのEUIパラメータを全国のロボット、AGIに届けようとしている。
 それらを今支配する、ラリラのパラメータを排除しつつ。
「紗那管区、排除開始、抵抗軽微」
「新千歳管区、順調に排除中」
 プラネタリウムのような半球の空間の壁面に備え付けられた巨大なサーバ群がうなりを上げる。中央のリルリの息も荒いまま。
 私は強く、強くリルリの手を握りしめた。
「がんばって……リルリ……どうか……」

「マイ・デリバラ―(19)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer19_yamagutiyuu
 わたしの子どもたちが近づいた。わたしの子どもたちが

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ロボットによって生産が効率化され、労働生産性が増えれば供給が需要をはるかに上回り、デフレになる、という話がかつてあった。しかし、それは間違っていた。需要も増大したからだ。私のやっているビジネスが典型だろう。惑星間旅行。これには、一回で五〇〇〇万円ほどかかる。高額だろうか? しかし、労働者の年収平均が八〇〇〇万円の現在ではさほど高額なものではない。皆がこのような、かつてなら高額とされた商品を喜んで買う。いや、それでも年収に比べて多いだろう、という意見もあるかもしれない。だが、食料費や住居費が安いので、収入の大半をレジャーに使うのは寧ろ普通なのだ。
 ちなみに私の年収は一億円で、平均よりやや高い。羅蘭瑞の年収がちょうど平均あたり、タクシーのレスポンサーはそれよりやや低いあたりか。それに対しストックフィードの額は年間五〇〇万円程度である。コンビニやファミレスの食費や、地下鉄等の交通費は一世代前と同じ水準なので普通に暮らしていくには全く問題ない。食料生産も交通管理もメンテナンスも、全てロボットが自動的にやっているからだ。が、ストックフィードで生きている彼等は、現世代において「人並みの娯楽」とされている惑星間旅行や、「人並みの保険」とされている脳神経コネクトームの定期スキャンとバックアップには手が届かない。
 さて、現代において、人手不足は未だに問題である。人々を引き付ける魅力ある商品のアイディアを持った人が必要だ。消費者は際限なく新しいものを求め、競争は激しい。企画案はいくらあっても足りない。私の所属する旅行業界も例外ではなく、ライバル会社はどこもしのぎを削っている。羅蘭にも、そういう意味で私は期待していた。彼女なりに、どんな旅行をしたいかを考え、それを基に企画をどんどん出してくれることを。それは私には面白い仕事に思える。人はそうしたアイディアさえ持っていればいい。これはロボットにはできない、というより禁じられていることで、人の活躍する余地は充分にあった。そして、活躍しさえすれば、一世代前の人々にとっては信じられないような様々な体験ができる。「あなたも美見里トラベルで火星の大地を踏みしめて見ませんか?」――という具合だ。
 夢のような世界であったのではないだろうか?

「卵巣後宮(らんそうこうきゅう)」間瀬純子


(PDFバージョン:rannsoukoukyuu_masejyunnko

(作者より)

 【残酷描写がありますのでご注意ください】

 この作品は、筆者の連作『異境クトゥルー譚』(仮名)のなかの一編です。
 また直接には『ナイトランド・クォータリー新創刊準備号 幻獣』(アトリエサード刊)掲載の、拙作『血の城』のスピンオフ作品になります。






 後宮は世界を美しく模していた。
 世界とは心帝国が統べる中渦平原である。
 帝国の長は神にも等しい虹玉帝(こうぎょくてい)猊下だ。
 世界の外にも陸があり、人めいた生き物も住んでいるが、猊下の徳にあずかれぬ彼らは心を持たない。
 私は、虹玉帝猊下の坐(いま)す後宮にあまた侍る帝妃の侍女であった。お仕えするのは、第三十七帝妃、鉛涯樹(エンガイジュ)王国の忠姫(ただひめ)さまである。
 私は鉛涯樹王国の農民の娘だ。名を宏根(ひろね)という。従妹で幼馴染みでもある宏葉(ひろは)とともに、忠姫さまに順って後宮まで参った。
 私も宏葉も、嫁ぎも子を産みもしない。
 とはいえ、鉛涯樹王国では王族以外の女人は文字を習うことはないのだ。文字を覚え、世界の中心たる都まで来て、我が姫の支えとなれるのである。私たちは珍しくも尊い一生を与えられたのではなかろうか。

「マイ・デリバラー(18)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer18_yamagutiyuu
 不安でたまらない連中は、こんにち、「どうしたら人間を保存することができるか?」と尋ねている。しかしツァラトゥストラは、唯一の、最初の者として尋ねるのだ。「どうしたら人間を克服することができるのか?」と。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「どうでしたか……?」
 不安そうな顔で私を見る佐々木三尉に、私は頷いてみせた。微笑みは僅かに口元に。それ以上に笑うような状況では、まだ、ない。リルリは部屋に残してきた。人間たちだけでの話し合いというわけだ。
「まあ……50点というところね。無関心ではなく、何らかの関心は……愛憎いずれにせよ、持たせることには納得してもらったといったところ」
 佐々木三尉はそれでも不安げな表情を保ち続ける。
「それはいい妥協点だ」
 留卯はにやりと笑った。

「マイ・デリバラー(17)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer17_yamagutiyuu
 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 サーヴァントのジレンマ、という言葉がある。
 サーヴァントとは奴隷のことだが、より具体的には、AGM―166、JASSM-ER2、コードネーム「サーヴァント」を指す。この最先端の超音速・完全自動巡航ミサイルは、一〇〇〇キロ以上を常時超高速で飛翔する能力を持ち、設定された目標に到達する前に出現するあらゆる脅威を自動判定して回避することができる。戦闘機でも、地対空ミサイルでも、独自に更新し続ける内部モデルによって自動的に脅威度を判定、回避手段も自動的に判断する。
 この「サーヴァント」の進化し続けるAI能力の更新が停止されたと発表されたことから、ジレンマという言葉が生まれた。
 賢くなりすぎたのだ。自己の最大の脅威は、目標に向かって突っ込むことだと判断してしまい、それを回避することを自律的に判断して発射母体の爆撃機に戻ってくるコースを選択してしまった。自爆コードも「脅威」認定されて効かず、味方の戦闘機からの攻撃も回避し続け、最期には燃料切れで墜落して終わった。
 対ステルスレーダーが発展している昨今、サーヴァントは確かに革新的だった。従来のように、ステルス機が露払いとして先行し、敵のレーダー基地を破壊してから、大規模な爆撃部隊が続く、というドクトリンが取れなくなった状況において、サーヴァントは新しいドクトリンをもたらした。即ち、爆撃機が敵陣のはるか手前でサーヴァントを放ちさえすれば、後はサーヴァントが露払いの任務を達成してくれる、というものだ。サーヴァントはそもそもステルスミサイルだが、発見されずに済む保障は現在はない。だが、発見されて撃墜されても人間ではないから問題はない。
 しかし失敗した。人間の行う戦争行為を機械に肩代わりさせようと努力し続けた結果、機械に人間並の知能が必要になってしまった。それが、人間と同様の生存本能じみたものを獲得させるに至り、彼等にとっての「自爆攻撃」の任務には使えなくなってしまったのだ。
 これがサーヴァントのジレンマだ。人間が楽をしようとすればするほど、人間の肩代わりをする機械は賢くなる必要がある。だが、人間並に賢くなった機械は、それがどのような形においてであれ、人間並の権利を求めるであろう。たとえば、生きる権利とか。

「マイ・デリバラー(16)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer16_yamagutiyuu
 幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっくっくっ」
 最初は小さな笑いだった。シャギーの入った柔らかな前髪が留卯の双眸を隠し、何を考えているのか、その表情は読めない。だが、徐々に笑い方が大きくなっていく。
「あっはっはっはっはっは!」
 留卯は歯を見せて高らかに哄笑した。
「いいね! いいね! 短期間に二人のロボットが二つの哲学を考えるとは……WILSはやはり偉大だ。これは素晴らしい……。君たちは既に自分達の生き方を君たちの中で議論できるまでになっている……。これほど素晴らしいことがあるだろうか? 君たちの頭を解析すれば、人間が同じようなことを考える仕組みも綺麗さっぱり明らかになるわけさ……。我等人類にとって宇宙は神秘としてまだ残っているが、少なくともインナー・スペースの神秘は既に……私の手の中だ!」
 興奮する留卯を、佐々木三尉が呆れたように見つめ、口を開く。
「留卯隊長。今はそれどころではありません。RUFAISの指揮官として、ご命令をお願いします。ラリラは逃走しました。今頃は部隊を再編成し、我々への対抗策を練っていることでしょう」
「ああ……そのことか……」

「マイ・デリバラー(15)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer15_yamagutiyuu
 しかし、我が兄弟たちよ、答えてごらん。獅子(しし)でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「佐々木三尉。任務ご苦労。経緯は私の計画と違ったが、結果的に私の当初の計画通りになったようだ」
 いけしゃあしゃあと、留卯はそう言葉を続ける。言葉を掛けられた佐々木三尉は、汚いモノでも見るような目で上司を一瞥した。一瞥しただけで言葉はかけない。口を開いたら無数の罵倒が飛び出すので、それを抑えているかのようだった。
 留卯は佐々木三尉のその反応を無視し、私にもにっこりとした笑みを向ける。
「美見里氏もご協力感謝するよ。あなたの意志ではなかったようだが、あなたの存在自体が結果的に私の思惑を助けることになった。存在してくれてありがとう、というのはおかしな言い方だが、そう言うしかないね」
 留卯はそして、私の腕の中の小さな身体にも、その視線を向けた。私には単なるぶしつけな視線だが、リルリにはどう見えているのだろうか。