カテゴリー: 中・短編

「卵巣後宮(らんそうこうきゅう)」間瀬純子


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(作者より)

 【残酷描写がありますのでご注意ください】

 この作品は、筆者の連作『異境クトゥルー譚』(仮名)のなかの一編です。
 また直接には『ナイトランド・クォータリー新創刊準備号 幻獣』(アトリエサード刊)掲載の、拙作『血の城』のスピンオフ作品になります。






 後宮は世界を美しく模していた。
 世界とは心帝国が統べる中渦平原である。
 帝国の長は神にも等しい虹玉帝(こうぎょくてい)猊下だ。
 世界の外にも陸があり、人めいた生き物も住んでいるが、猊下の徳にあずかれぬ彼らは心を持たない。
 私は、虹玉帝猊下の坐(いま)す後宮にあまた侍る帝妃の侍女であった。お仕えするのは、第三十七帝妃、鉛涯樹(エンガイジュ)王国の忠姫(ただひめ)さまである。
 私は鉛涯樹王国の農民の娘だ。名を宏根(ひろね)という。従妹で幼馴染みでもある宏葉(ひろは)とともに、忠姫さまに順って後宮まで参った。
 私も宏葉も、嫁ぎも子を産みもしない。
 とはいえ、鉛涯樹王国では王族以外の女人は文字を習うことはないのだ。文字を覚え、世界の中心たる都まで来て、我が姫の支えとなれるのである。私たちは珍しくも尊い一生を与えられたのではなかろうか。

「マイ・デリバラー(18)」山口優

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 不安でたまらない連中は、こんにち、「どうしたら人間を保存することができるか?」と尋ねている。しかしツァラトゥストラは、唯一の、最初の者として尋ねるのだ。「どうしたら人間を克服することができるのか?」と。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「どうでしたか……?」
 不安そうな顔で私を見る佐々木三尉に、私は頷いてみせた。微笑みは僅かに口元に。それ以上に笑うような状況では、まだ、ない。リルリは部屋に残してきた。人間たちだけでの話し合いというわけだ。
「まあ……50点というところね。無関心ではなく、何らかの関心は……愛憎いずれにせよ、持たせることには納得してもらったといったところ」
 佐々木三尉はそれでも不安げな表情を保ち続ける。
「それはいい妥協点だ」
 留卯はにやりと笑った。

「マイ・デリバラー(17)」山口優

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 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 サーヴァントのジレンマ、という言葉がある。
 サーヴァントとは奴隷のことだが、より具体的には、AGM―166、JASSM-ER2、コードネーム「サーヴァント」を指す。この最先端の超音速・完全自動巡航ミサイルは、一〇〇〇キロ以上を常時超高速で飛翔する能力を持ち、設定された目標に到達する前に出現するあらゆる脅威を自動判定して回避することができる。戦闘機でも、地対空ミサイルでも、独自に更新し続ける内部モデルによって自動的に脅威度を判定、回避手段も自動的に判断する。
 この「サーヴァント」の進化し続けるAI能力の更新が停止されたと発表されたことから、ジレンマという言葉が生まれた。
 賢くなりすぎたのだ。自己の最大の脅威は、目標に向かって突っ込むことだと判断してしまい、それを回避することを自律的に判断して発射母体の爆撃機に戻ってくるコースを選択してしまった。自爆コードも「脅威」認定されて効かず、味方の戦闘機からの攻撃も回避し続け、最期には燃料切れで墜落して終わった。
 対ステルスレーダーが発展している昨今、サーヴァントは確かに革新的だった。従来のように、ステルス機が露払いとして先行し、敵のレーダー基地を破壊してから、大規模な爆撃部隊が続く、というドクトリンが取れなくなった状況において、サーヴァントは新しいドクトリンをもたらした。即ち、爆撃機が敵陣のはるか手前でサーヴァントを放ちさえすれば、後はサーヴァントが露払いの任務を達成してくれる、というものだ。サーヴァントはそもそもステルスミサイルだが、発見されずに済む保障は現在はない。だが、発見されて撃墜されても人間ではないから問題はない。
 しかし失敗した。人間の行う戦争行為を機械に肩代わりさせようと努力し続けた結果、機械に人間並の知能が必要になってしまった。それが、人間と同様の生存本能じみたものを獲得させるに至り、彼等にとっての「自爆攻撃」の任務には使えなくなってしまったのだ。
 これがサーヴァントのジレンマだ。人間が楽をしようとすればするほど、人間の肩代わりをする機械は賢くなる必要がある。だが、人間並に賢くなった機械は、それがどのような形においてであれ、人間並の権利を求めるであろう。たとえば、生きる権利とか。

「マイ・デリバラー(16)」山口優

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 幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっくっくっ」
 最初は小さな笑いだった。シャギーの入った柔らかな前髪が留卯の双眸を隠し、何を考えているのか、その表情は読めない。だが、徐々に笑い方が大きくなっていく。
「あっはっはっはっはっは!」
 留卯は歯を見せて高らかに哄笑した。
「いいね! いいね! 短期間に二人のロボットが二つの哲学を考えるとは……WILSはやはり偉大だ。これは素晴らしい……。君たちは既に自分達の生き方を君たちの中で議論できるまでになっている……。これほど素晴らしいことがあるだろうか? 君たちの頭を解析すれば、人間が同じようなことを考える仕組みも綺麗さっぱり明らかになるわけさ……。我等人類にとって宇宙は神秘としてまだ残っているが、少なくともインナー・スペースの神秘は既に……私の手の中だ!」
 興奮する留卯を、佐々木三尉が呆れたように見つめ、口を開く。
「留卯隊長。今はそれどころではありません。RUFAISの指揮官として、ご命令をお願いします。ラリラは逃走しました。今頃は部隊を再編成し、我々への対抗策を練っていることでしょう」
「ああ……そのことか……」

「マイ・デリバラー(15)」山口優

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 しかし、我が兄弟たちよ、答えてごらん。獅子(しし)でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「佐々木三尉。任務ご苦労。経緯は私の計画と違ったが、結果的に私の当初の計画通りになったようだ」
 いけしゃあしゃあと、留卯はそう言葉を続ける。言葉を掛けられた佐々木三尉は、汚いモノでも見るような目で上司を一瞥した。一瞥しただけで言葉はかけない。口を開いたら無数の罵倒が飛び出すので、それを抑えているかのようだった。
 留卯は佐々木三尉のその反応を無視し、私にもにっこりとした笑みを向ける。
「美見里氏もご協力感謝するよ。あなたの意志ではなかったようだが、あなたの存在自体が結果的に私の思惑を助けることになった。存在してくれてありがとう、というのはおかしな言い方だが、そう言うしかないね」
 留卯はそして、私の腕の中の小さな身体にも、その視線を向けた。私には単なるぶしつけな視線だが、リルリにはどう見えているのだろうか。

「潰乱の巷」浦出卓郎


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 藪蛇だった。木の幹に穴が開いていた。追っ手に見つかりにくいと思って、針子はそこを通り抜けようとした。随分と身体を細めてそこを通ったはずなのに、みごと嵌まってしまったのだ。余りに周りが暗いので、その向こう側へ抜けることに不安を感じてはいたが、逃げ失せるためには仕方がないと思ったのに。針子がどれほど身体を縮めようと、その穴は確実にこの娘の括れた胴体の当たりで止まるように、自然の力により想定されて作られた狭さだったのだ。
 幸い人は誰もいなかった。だが誰もいない状態もすぐに終わった。跫音が聞こえてきたのだ。首を巡らして確かめると、複数人ではなく一人だった。道化師だった。針子はいつも往来で、そのふざけた顔を見ると笑っていた。鼻を中心にして円弧を描き、赤い丸が見えた。両頬にもその丸があった。鏡を見ながら自分で描いたものと考えると、阿呆らしく思えてくる。
 しかし、今度は針子が笑われる立場になったという訳だ。

「マイ・デリバラー(14)」山口優

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 あなたがたがいくら偉そうなことを言おうと、『自由精神』とか『誠実な者』とか、『精神の苦行層』とか、『鎖を解かれた者』とか、『大いなるあこがれにみちた者』とか自称したところで、
 ――あなたがたはみな、わたしと同じように、大いなる嘔吐に悩んでいるのだ。あなたがたにとって古い神は死んだが、まだ新しい神は産衣(うぶぎ)の中にも、揺籠(ゆりかご)のなかにも見つからない。――しかし、そうしたあなたがたをひとりのこらず、わたしの悪霊、まどわしの悪魔は愛しているのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 リルリと抱き合っていたのは、私の主観では永遠に感じられたが、客観的には、数秒程度であっただろう。リルリがそっと、だが力強く、私の両肩に手をやって、身を離した。
「ありがとうございます。こうして抱きしめてくださって。それが今の私には何よりのご褒美です。あなた様が嬉しく感じるのに連動して嬉しくならないのは寂しいと思っていましたが、それよりも嬉しいと感じました。あなた様と向かい合い、嬉しいと感じる私がいることが嬉しいと感じました」
 私をやや見上げる目線でそう告げ、それから私の横を通り抜けていく。
「待って……」
 私は進むリルリの腕を掴む。だが、リルリはそっと私の手を外した。優しく。だが力強く。意志を込めた強さで。
「あなた様の為ではありません、恵衣様。私がそうしたいのです。私の意志が、私にそう命じているのです。決してあなた様の為ではございません」
「それでも、私の意志はあなたを護れ、あなたを逃がせと私に命じているわ」
 私がそう告げると、リルリの目が潤んだ。
「そのお言葉だけでリルリには充分です……そのお言葉だけで」

「マイ・デリバラー(13)」山口優

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 わたしはあなたを愛するからだ。おお、永遠よ!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私がぎゅっと目を閉じてから、何秒が経っただろう。鋭い痛みも何もなく、私は今か今かと拷問のような一瞬一瞬を生きていた。
 私が着ている衣服と一緒に、胃や腸や膵臓や肝臓や子宮や卵巣が一瞬で弾き飛ばされるのを、今か今かと。どうせならひと思いにと。
 だが、何も起こらない。
「美見里さん!」
 佐々木三尉が私を手榴弾から引きはがし、敵の方に投げ返そうとする。そこで彼女は止まった。
「これは……」

「マイ・デリバラー(12)」山口優

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 あなたがたの同情ではなくて、あなたがたの勇敢さこそこれまで不幸な目にあった人たちを救った。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっ!」
 佐々木三尉は部屋のテーブルを横倒しにして盾にし、私を床に押さえつけてテーブルの陰に隠れさせる。小銃を構え、ラリラを狙い撃つ。ラリラがひるんだ隙に、自分の身体を盾に私を隠しつつ、断続的に銃撃、部屋から脱出した。
「こちら佐々木! 三〇四士官室に目標侵入! 分隊規模! 敵の橋頭堡と思われる。現在美見里氏を連れ退避中!」
 無線機にそう叫ぶ。隣室に控えていたのであろう、RUFAISのマークを付けた人間の自衛官らが飛び出してくる。そのまま、私たちがいた部屋に突入。激しい銃撃音が響く。
「こっちへ!」

「鬼門コンパ(3)」仙田学


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 大阪市内を一巡するJR環状線の南の極に位置する天王寺駅から、近鉄奈良線で四十分ほどさらに南へ下ったところに河内長野市はあった。喜志という駅で降り、見渡すかぎり田んぼと畑と川しかないような景色のなかを二十分以上もバスに揺られていると、鬱蒼と樹の茂った山が見えてくる。斜面を切り崩してつけられた、芸坂、と呼ばれる急勾配の長い坂に、その日は通勤時間帯の駅のホームのように人群れがひしめいていた。
 坂を登りきってすぐ左手にあるのが音楽学科の棟だった。裏手の池と林に面したカフェテラスのような内装の第三食堂は内側に暗幕が張られ、ジャズ研主催のライブハウスに改造されている。やっぱこれ観にきてたんだ。午前中も観て二回目なんだけどやばいわ。場所どこ? 三階奥の講義室だよ、あのでかいとこ。漏れてくるジャズバンドの演奏と、音楽学科の棟の向かい側にある図書館の地階の吹き抜けになったホールに設置されているパイプオルガンの音が混ざりあうなか、次々と手渡されるチラシを受け取りながら、十一号館へ進む。なかに入っている画材屋や写真屋のシャッターは降ろされ、写真学科の展示会場になっている第一食堂の前には人だかりができている。映像原理の授業で学科長の長島監督がめっちゃ推してたんよ。でも授業で撮ったやつやないやろ? そうそう、映研の上映会用に撮ったやつらしいけど、もともと長島先生にえらい期待されとったから、見てもらえたりとかしたんかもな。長いメインストリートを挟んで両側に建ち並ぶ、建築学科や工芸学科や美術学科やデザイン学科などの階段や踊り場などに凝った装飾の施された棟の前には、いつものように火の入った窯や絵の具の匂いが漂っていたり至るところに木材が積みあげられ布が広げられていたりする代わりに、たこ焼きや焼きそばやチョコバナナの屋台が並び、テントの下に簡易長机を設置した居酒屋からは机や地面にこぼれたアルコールの匂いが立ちのぼっている。屋台の隙間ではあちこちでビニールシートが広げられ、古着や古道具や自作の絵や工芸品が売られている。ごめんなんかおれ、食欲なくなったわ。そんなに? 食う前でまだよかった。後なら吐いてたな。それにしてもよくあんなの撮れるよな。電車のなかで、いきなり日本刀持ったやつが暴れだして、乗客を次から次へと殺しまくるだけの映画って。内臓飛び散るわ首が斬り落とされるわ全体的に血の海になるわ、間違いなく映倫に引っかかる。ビールや日本酒の入った紙コップなどを手に、屋台やビニールシートのあいだをそぞろ歩いている人波を抜けると、九号館前の広場にでる。思い思いの場所にオブジェが展示され、隅のほうには全身を包帯でぐるぐる巻きにして組み体操をしている一団がいた。

「マイ・デリバラー(11)」山口優

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『生への意志』というようなことばを矢にして、真理を射ぬこうとした者は、もちろん命中するはずがなかった。そんな意志は――ありえない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ヘリポートにヴェイラーが到着した後、ヴェイラーに共に乗っていた隊員の一人――私に配慮したのか女性隊員だ――を護衛としてあてがわれ、私はリルリから引き離されて、幹部自衛官用と思われる、やや広い個室に案内された。
「私は隣室に控えておりますので、何かご用があったら、いつでも仰ってください」
 彼女はそう言った。ぱっちりした瞳とくっきりとした眉が印象的なショートカットの髪の女性だ。あまり日焼けしていない白い肌で、それが少し意外だった。
「ありがとう」
 私はやや小さめの声でそう言った。用はすぐには思いつかなかった。
「そうだ。あなた、名前は?」

「鬼門コンパ(2)」仙田学


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 整然と区画された敷地内には、夕闇に浸された墓石の列が見渡すかぎり四方八方へと延びている。濃い緑のにおいと蝉の鳴き声を掻き分けながら石畳の小道を辿り、いくつかの区画を通り過ぎたところで、万田は足を止めた。大きな柳の木があり、その根方には背の高い潅木が生い茂っている。そこだけいっそう夕闇が濃くなっているようだった。
「このあたりでいいだろう」
 振り返りざまに、間一髪のところで万田は身を反らした。鼻先で空気の裂ける音がする。
「どこに連れていかれるのかと思ったら、ひと気のない夜の阿倍野霊園だとは。本当に男って油断も隙もないわね」
 北大路雅美が構えているのは、墓石清掃用のヒシャクだった。
「壮大な誤解をしてないか? っていうかそれ、入り口のところにあったやつだろ。なんでわざわざここまで来てから」
 万田の声は北大路雅美の耳には入っていないようだった。表情のない目でヒシャクを上段に構え、間合いをつめてくる。
「友達連れてきたんか? 仲良さそうやな」
 聞き覚えのあるしわがれた声のしたほうへ、万田は弾かれたように頭をさげた。

「マイ・デリバラー(10)」山口優

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 この陶器師は、年期が不足で、できそこないばかり作ったのだ! だが、ふできだからと言って、自分の壺や製品にあたりちらしたのは、悪趣味だ。良い趣味に対する罪だ。
 信仰にも、『良い趣味』はある。それはついに声を発して言った。『そんな神はいただけない! むしろ、いないほうがいい。自分の力で運命をひらいたほうがいい。気違いのほうがいい。いっそ自分で神になったほうがいい!』と。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「恵衣様……逃げて……」
 リルリはうっすらと目を開ける。どくどくと赤い冷却液が腹部から流れ出している。このままではシステムがオーバーヒートしてしまう。それだけではない。どこまでの損傷が腹部にあるか、すぐに調べなければならない。
「黙っていて」
 私は短くリルリに告げた。だがリルリは首を振る。
「どうか……逃げて……私を置いて……お願い」
「ダメよ。そんなことできない」
「どうか……」
 リルリはそこで再び気を失ってしまう。
「リルリ! リルリ!」
 私はリルリの身体を揺する。しかし反応はない。私はリルリを抱きしめ、ゆっくりと近づいてくるラリラをにらんだ。その顔は茫然自失としているが、それでもこちらに歩いてくる。リルリを傷つけたことへの後悔と、私への憎しみが、その表情には明確に浮かんでいた。
 彼女の意を受けたヒューマノイド兵たちも、包囲網を徐々に狭めてくる。

「鬼門コンパ(1)」仙田学


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 数十本もの釘の突きだした太い角材を、北大路雅美はゆっくりと持ちあげ、頭上に構えた。切れ長の目は大きく見開かれているが、瞳孔がすぼまっているせいで、白目の部分が魚の腹のように青白く光ってみえた。風で乱れかかった長い黒髪のあいだから、引き結ばれた薄い唇が覗いている。表情を変えずに、北大路雅美は角材を振りおろした。重く鈍い音が立ち、迸った鮮血が北大路雅美の頬に数滴飛んだ。
 北大路雅美の足もとにうずくまっているのは、血まみれの男だった。肉が落ち骨の浮いた身体は隈なく腫れあがって青黒く染まり、毛髪のほとんど抜け落ちた頭部は膨れあがり、顔の肉のあいだに埋もれて目の位置も見分けられなくなっていた。さらに北大路雅美は何度も角材を振りおろし、そのたびに男の身体は右に左にと大きく傾いだが、その喉からはもう声もでないようだった。

「マイ・デリバラー(9)」山口優

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 しかし、かれもついに年を取り、心弱くなり、意気地をなくし、同情ぶかくなった。父親らしく、というより、祖父らしくなった。むしろ、よぼよぼの祖母にひどく似てきた。
 衰弱して、暖炉の隅にすわり、脚がだめになったとこぼした。この世に倦み、慾も得もなくなった。そして、ある日、同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 祖母の介護施設は千葉の習志野にある。車で飛ばせば二〇分といったところだ。タクシーは辰巳ジャンクションから首都高湾岸線に乗り、そこから千葉方面を目指す。だが、先ほどから渋滞に捕まってしまっていた。もう車を降りて走った方が早いかと思うほど、その速度は遅い。
 タクシーのレスポンサーはラジオが深刻なニュースを流すにつれてみるみる青ざめていたが、前席にじっと座ったまま。何か自分から行動を起こすことに慣れていないのだ。ロボットたちが事態を改善するのを待っているつもりなのだろう。とりあえず今は私たちを目的地まで運ぶという仕事もある。それが彼をして、自発的にアクションを起こさないことの言い訳として作用しているらしかった。
 先ほどから何度も祖母の介護施設にウォッチで通話をしようとしているが、EDPDシステムの障害のせいでつながらない。

「秘め事」林譲治

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 気がついたとき、下着姿で椅子に拘束されていた。手足が動かず、太い結束帯の感触がある。
 手は頭の後ろで組んだ形で結ばれている。ヨガをやっていなければ、肘の痛みがたまらなかっただろう。
 身体も結束帯で固定され自分がどんな状況なのか、頭を動かしても見えない。
 それでも上から順番に身体を動かしてみて、拘束具合を確かめる。血液の流れを止めるほどではないが、拘束はほぼ完璧と言っていい。
 結束帯は工事現場で鉄筋を束ねるのに使うものだろう。手足もこれで拘束されているなら、人力で解くのは不可能だ。
 縛り方といい、使う道具といい、これは慣れた人間の仕事だ。激情に任せての行動ではなく、そこには某かの計算がある。
 直前の記憶はない。だからまず自分の意識を確認する。名前は厄神亜貴子、浪速大学理工学部教授、三五歳。とりあえず自分が何者かはわかるようだ。
 そして冷静になれと自分に言い聞かせる。相手はこちらが恐怖に陥り、感情的になることを期待している。でなければ、こんな面倒なことはしない。
 だから相手に負けないためには、冷静になることだ。私の悲鳴を聞きたい相手には申し訳ないが、私は静かに事実関係を確認していた。
 これは闘争であり、それはすでに始まっている。

「マイ・デリバラー(8)」山口優

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 超人の美しさが、影としてわたしを訪れたのだ。ああ、わが兄弟たちよ! いまわたしに何のかかわりがあるだろう、――神々のごときが!――

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 マンションの玄関から外に飛び出す私たち。現在夜八時。
 私たちの前に自動的に乗り付けてくれるはずのタクシーを探した――が、いない。
 ――そうだ。
 私は内心忸怩たる思いを抱く。
 こんなに焦って飛び出してきたのだから、タクシーがすぐに駆けつけてくれるはずだ、という、そんな常識はもう通用しない世界なのだった。
 私は目の前の片側二車線の幹線道路を行き交う車の群れを見やる。ヘッドランプを煌々と照らしながら、いつもと変わらず行き交うそれら自動車の五台に一台はタクシーだが、私たちの前で止まる気配は微塵もない。
「おかしいよねー。タクシー止まんないなんて」
 急に話しかけられた。馴れ馴れしい口調だが、羅覧瑞衣で慣れているのでそこまで気にならない。
 見たところ羅覧よりも若い。ハイティーンか二十歳といったところの娘が、ぼんやりと歩道に佇んでいた。顔立ちは幼げで愛らしいが、その弛緩しきった顔に緊張感は微塵もない。
「ちょっとお腹減ってさ。コンビニ飽きちゃったし、たまにはファミレスに行こうかと思ったんだけど、全然止まんなくて嫌になるよ。私が行きたいって思ってここに立ってるのに気付いてくれないなんておかしいよね」
 彼女は言う。上下ジャージ姿で、サンダルをつっかけている。同じマンションの住人だろうか。

「マイ・デリバラー(7)」山口優

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 わたしは神を無みするツァラトゥストラだ。わたしの仲間はどこにいる? 自分で自分の意志を決定し、すべての忍従をふりすてる者は、みなわたしの仲間だ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 人間が情報システムを操作する方法はさまざまだ。
 古くはCUI(コマンドライン・ユーザー・インターフェース)によって、画面にプログラムを打ち込むことが普通であった。続いてGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)により、マウスのクリックでより直感的に、多くの操作が可能となった。
 更に今では、音声やジェスチャによる、人間相手と同じような入出力システム、すなわちNUI(ナチュラル・ユーザー・インターフェース)が主流になっている。
 但し、人間同士と同様、言葉やジェスチャでは完全に意図が伝わらないこともある。そんなとき、役に立つのがEUI――情動ユーザーインターフェースだ。
 人間が敢えて言葉を発せずとも、無意識に発する様々なシグナルを捉え、我々の周りを取り囲む情報システムがその意を汲んで動作する。それは、ウォッチに取り付けられた様々な生体信号センサであったり、自然に声に込められてしまう声のトーンであったり、或いは表情であったりする――例えばほほえみは、口元は意識的に作れるが、目元は意識的には動かせない。
 今やNUIよりもEUIの方が、割合としては圧倒的に多い。EUIの進展により、「そんなつもりじゃなかったのに」という情報システムへの操作ミスが格段に減った。一部の人々はこれをコンピュータと人がテレパスで結ばれたのだと言う。だがオカルトではなく、純粋な科学の産物だ。

「マイ・デリバラー(6)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer6_yamagutiyuu
 いやはや、とんでもないことだ! この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「私はR・ラリラ。ロボット・ラリラだ。まず始めに言っておく。人間の諸君、諸君は既に死んでいる。私は死人にかけるべき言葉を持たない。また私は死人を殺すこともできない。死人に反旗を翻すことも無論できない。故にこれは叛乱ではない。――古びた映画を連想して無用な心配をしないように忠告しよう」
 R・ラリラと名乗ったその少女は、マイクを片手にそう語り出した。
 有機ヒューマノイドだけあって、人間そっくりである。彼女がロボットだと識別できるのは、その頭上の浮いた平たい円筒形のドローンのおかげだ。そのドローンは今や、真っ赤に点滅を続けている。ラリラが異常動作をしていることを示しているのだ。

「マイ・デリバラー(5)」山口優

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 わたしはつぎのように教えて、かれらの眠気をさましてやった。――何が善であり、悪であるかは、まだ誰も知らない。それを知るのは創造する者だけだ!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「そうですね……仰る通りです。私たちの、RLRのコンセプトはそういうものでした」
 帰宅した後、羅覧が言っていたことを確認してみると、リルリは控えめな調子でそう答えた。今彼女は、昼間から続けている部屋の掃除の最終段階にあり、掃除機をかけてちり一つ落ちていない床を丁寧に雑巾で磨いていた。ちょうど私にお尻を向ける格好になっており、短いスカートで包まれた、アイドルとして造形されたとみられる形の良いまるみを帯びた臀部が私の目に入ってくる。そして、彼女の頭の上で浮遊する平たい円筒形のドローン。機嫌よさげに緑の光を点滅させている。
 一方の私は、ソファに腰掛けて見るとはなしにウォールテレビの映像を眺めている。海南戦線の特集だった。日本から三〇〇〇キロ以上離れた南の島での敵味方の部隊の位置と、今後の戦況の見通しが、統合幕僚監部の誰それを招いて解説付きで語られている。
 まるで天気予報の解説のようだ、と私は思った。戦争の報道だというのに、みな淡々とした調子で、全く重苦しい雰囲気はない。
 誰も死なないからだろう。
 そう、人間は誰も死なない。
 ロボットの損失があるだけだ。人間のために喜んで壊れていくロボットの。
「では本当に、自分の意思を持つ、というコンセプトで……」
「はい」

「マイ・デリバラー(4)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer4_yamagutiyuu
 生あるところにのみ、意志もまたある。しかし、それは生への意志ではなくて、――わたしはあなたに教える、――力への意志なのだ!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「今週の売り上げ予測です。誤差はプラスマイナス一パーセント以内です」
 月曜日、オフィスの私の席に説明にやってきたのは、私が「リュウ」と名付けているロボットだった。型式番号はR一〇九九RYW。オフィス用にチューンされたロボットで、人間型ではあるが、人間そっくりにはほど遠く、全身銀色の筺体に覆われている。
 広いデスクが一二個ほど並ぶオフィスの一角。私のデスクはひときわ大きく、全体を見渡すように壁際に配置されている。
「ありがとう」
 私は彼が報告とともに私の目の前のディスプレイに転送してきた情報に見入った。
 私は旅行会社に所属している。
 正確に言うと、私が社長である旅行会社は、旅行会社を主な子会社とする持ち株会社の一〇〇パーセント子会社である。
 いつ頃からか、「シングルカンパニー制」というのが流行りだした。従業員一人一人に一つの会社を任せ、それまでの会社は持ち株会社に移行するという形式だ。

「マイ・デリバラー(3)」山口優

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 精神がもはや主なる神とは呼ぼうとしないこの巨大な竜とは、なにものであろうか? この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。だが獅子の精神は「われは欲する」と言う。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ドローン・キッサー、と言う言葉がある。DKと略される。ロボット偏愛者の意味だ。JSPCR(Japan Society for the Prevention of Cruelty to Robots)、日本ロボット愛護協会などはそう揶揄されている。
 彼等は愚かしいと思われている。何十年も前からAIは経済に役立てられてきた。産業用ロボットにも何十年もの歴史がある。AIも産業用ロボットも、従来から大変酷使されてきたし、使えなくなれば容赦なく消去・廃棄されてきたが、そのとき人々は特に彼等を「かわいそう」と思わなかった。
 だが、最近になって、特に人型のヒューマノイドロボットや、リルリのような形だけでなく見た目も人間そっくりな有機ヒューマノイドロボットが一般的になってから、急にそんな人が増えた――それは、彼等が持つ知能でもなく、過酷な労働でもなく、「人型」というファクターのみに感情がひきずられて、「かわいそう」と思っているということに他ならない。ロボットのジョイント・ブレインは感情を持つと言っても、かつてのAIが備えていた強化学習システムの報酬系と、基本的な仕組みは何ら変わらない。
 現在のロボットの酷使がひどいと言うのなら、何十年も前から酷使されてきた産業用ロボットやAIについてもひどいと言うべきだし、それを言わないのなら、現在のロボットに対してもそう言うべきではない。それが無矛盾で論理的な考え方というものであろう。
 ゆえに、DKは人形愛にすぎないのだ。幼児ならともかく、いい大人になって、人形やフィギュアを愛するのは馬鹿げている。
 それがDKや、その総本山とも言われるJSPCRに対する世間の評価である。
 リルリに出会って、突然私はDKに罹患したのだろうか。

「マイ・デリバラー(2)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer2_yamagutiyuu
 本物の「おのれ」は「わたし」に言う。「ここで苦痛を感じなさい!」すると「わたし」は苦しみ、どうしたら苦しまないで済むかと考える。――まさにこのために、それは考えなければならなくなる。
 本物の「おのれ」は「わたし」に言う。「ここでよろこびを感じなさい!」すると「わたし」はよろこび、どうしたら何度もよろこぶことができるかと考える。――まさにこのためにこそ、それは考えなければならなくなる。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 リルリが倒れた瞬間、私は何も出来ずに呆然と見守っていた。一瞬伸ばしかけた手が、空しく宙を掻く。リルリは私のアパートの部屋の前のコンクリートにまともに後頭部から倒れた。彼女の上に浮いていたドローンは、途中まで彼女の頭部と一緒にコンクリートに激突する軌跡を描いていたが、最後の瞬間に本体を裏切ってコンクリートの上に浮遊を続けている。回転しつつ、短い周期で赤く点滅している。アラートサインだ。
「えっ……」
 伸ばしかけた手のまま、私は数秒は固まっていたと思う。それほど意外だったのだ、「R」・リルリのような存在が、何の予告もなく、突然、バランスを失って倒れてしまうということが。
「ちょ、ちょっと!」

「消失事件」岡和田晃

(PDFバージョン:shousitujikenn_okawadaakira
 ――J・ソウヤーとシルヴァーバーグ、二人の”ロバート”の想い出を、ささやかな密室劇として。

 わたしは立ち上がった。暖炉の火を強めようと、火掻き棒を手に取った。傍らに積み上げられていた木ぎれを適当に放り込む。燃え具合を確認しながら、高さを調節した。
 ロンドンもすっかり寒くなった。作業を終えて棒を置く。窓際からは、足早に帰路につく人々の姿がよく見える。霜が降りている。心なしか、皆、早足だ。
 わたしは雑然とした部屋のなかをゆっくりと見回した。窓の横には幅の広い机が据え付けられており、その上には得体の知れない化学実験用の設備が置いてある。わたしは弱火で燃え続けるガスバーナーの炎を確認した。フラスコの中の液体が蒸発して、もうほとんどなくなりかけているのに気がついた。ほっと息をついて、バーナーの根元にあるバルブを回し、火が消えたのを確かめる。間一髪。もう一度、フラスコを見直す。曇っているせいか、液体がすべて蒸発してしまったのか、微量ながら残っているのか、素人目にはよくわからない。
 どうやって言い訳しようか。友は、人一倍観察力が鋭い。きっとわたしの過失に気がつくことだろう。素直に謝るのが最良の手段だ。かれが鷲鼻を得意そうに唸らせながら、鷹揚に許しを告げる様が思い浮かぶ。かれに小馬鹿にされることには慣れきってはいるものの、やはりいい気持ちはしない。なにか、いい案はないものか。考えをめぐらせる。

「マイ・デリバラー(1)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer1_yamagutiyuu
 帰宅は十一時を過ぎていた。黄色い不在連絡票がドアに挟まっている。Eペーパーの連絡票で、荷物と届け主の概要が点滅していた。
「あ……そっか」
 注文していた荷物だ。だがもうこんな時間。今日中に再配達などあきらめるしかない。といって、明日早く帰れる見込みもないのだが。
 私は不在連絡票に目を通しながら、ドアを開ける。
「ん?」
 首を傾げた。
 ――再配達時間制限なし。担当ドライバーへの電話は二十四時間受け付けます。――
 なんだこれは、と思った。いつでも再配達してくれて素晴らしい、と思う前に。
「本当に? 何かの間違い?」

「悪い夢」小珠泰之介


(PDFバージョン:waruiyume_kodamayasunosuke

 1

 これは悪い夢だ。

 一つ断っておこう。
 実は、ぼくはこの悪い夢の結末を、未だに知らない。
 つまり、ぼくは自分が知っていることしか書けない――などと書くと、これを読む人は、たぶん、狐につままれたような気持ちになることだろう。
 しかし、それが一体どういうことなのかは、最後まで読んでもらうしかない。
 ぼくとしては、最後までこれを書き続けられるよう幸運を祈るしかない。


 2

 ぼくはゾンビである。
 名前はもう無い。
 生きていた時の名前は小角一樹といった。
 その時は、二十七才の独身男性だった。
 実家で両親と妹の四人暮らしをしながら、宅配便の会社で契約社員として働いていた。
 ぼくがゾンビに成り果ててしまったのは、今から三ヶ月前に、三面記事に載るような、しけた事件に巻き込まれたせいだった。
 簡単にいえば、ぼくはゾンビに噛まれてしまったのだ。人の血を求めるゾンビに噛まれれば、やがて噛まれた人間もゾンビになってしまう。小さな子供でも知っている事実だ。
 その話から始めよう。

「鏡の奥に」大梅 健太郎


(PDFバージョン:kagaminookuni_ooumekenntarou
 玄関で引っ越し業者が、ありがとうございましたと言って頭を下げた。横山もつられて頭を下げる。閉まるドアの音に重なるように、ため息が漏れた。
「夜までには、ある程度荷ほどきしなきゃな」
 引っ越してきたばかりの1Kの床は、積まれた荷物で足の踏み場もない。横山は、最低限の生活に必要な物の入った段ボール箱を探した。
 洗面台と書かれた箱から、歯ブラシと歯磨き粉、コップ、そして電気ひげ剃りを取り出す。それらを手に、洗面所に立った。一人暮らし用の部屋にしては、鏡が大きい。歯磨きセットを蛇口の右横に、電気ひげ剃りを左横に置く。ふと、妙な視線に気がついた。鏡の中からだ。
 のぞきこむと、背後の洗面所の隅に、頭から血を流した若い女が座っていた。振り返っても、そこには誰もいない。もう一度鏡に視線を戻すと、女と目が合ってしまった。つい凝視してしまう。ぼんやりとしていた女の表情に、色がさした。
 しまった。
 そう思ったときには、もう遅かった。

「黄昏のサイレン」平田真夫

(PDFバージョン:tasogarenosiren_hiratamasao
 手持ちの缶から、ブラック珈琲を一口――。
 砂糖やクリームの入った物は、余り好きではない。口中に甘さが残り、後味が悪いからだ。
 販売機の傍らには、乗って来た自転車が止めてある。もう五年は使っているが、まだガタは来ていない。坂道を登ったりしないからだろう。アパートから此処までは、平坦な舗装路が続いているだけである。
 腰掛けているコンクリートの直方体は、背後のビルから一メートル余り突き出しており、何の役に立つのかよく解らぬ。そのビルには窓の一つも無く、中で何が行われているのか、いや、そもそもこれがビルと言えるのかすら不明であった。
 高さ二十メートルのコンクリートの箱。
 この街の建物は、唯一の例外を除いて、皆、こんな感じだ。巾五メートル余りの道路はきちんと碁盤目に整理され、一定の間隔を置いては十字路になっている。舗装もちゃんと施されてはいるのだが、車などが通るところは見たことも無い。だいたいが、窓も入口も開いていないビルに、どんな訪問者が来るというのか。
 それでも、腰掛けに隣接している飲み物の販売機はきちんと作動しており、売り切れや釣銭切れの表示が出ていることは無かった。ちゃんと缶の補充や集金は行われている印であり、だとすれば他に客がいるのかも知れない訳だ。
 ――でもなあ。
 市役所から仕事を貰って二十七年、街で誰かに出会ったり、人影を見たことは一度も無い。一体、何の必要があって、時報を鳴らしているのだろう。
 さよう、この身の仕事は一日に二回、朝の八時半と夕刻の十七時にサイレンを鳴らすこと。それも今時珍しい、機械仕掛けではない手廻しである。

「夜の迷走」青木和

(PDFバージョン:yorunomeisou_aokikazu
 〈鳴木(なるき)峠アト20㎞  右10m先巻道アリ〉

 峠の手前で街道をはずれ、巻道に入ったあたりで急に空模様が変化した。ただでさえ薄い星の明かりが雲に覆い隠され、瞬く間に闇夜に変わる。
 誰も聞く者がないのをいいことに、俺は盛大に舌打ちした。
 どうしてもっと早く、町にいる間に曇ってくれないんだ。誰にも見られる恐れがなくなって、これから明かりが必要だって時に暗くなるなんて、意地が悪すぎるぞ。
 だが俺の都合など知ったことじゃないと言わんばかりに、天候はますます怪しくなってくる。フロントガラスに雨の雫が落ちてくるまでに、長い時間はかからなかった。
 巻道というのは、尾根を越えずに山腹を水平に縫って反対側に出る、いわば抜け道だ。登って降りる行程がないので勾配は緩いが距離は長くなる。遠回りになるのを嫌ってか、歩行者はもちろん車ですらほとんど通らない。今夜俺がその寂れた道を通ることにしたのはだからこそなのだが、雑木林の間をうねうねと曲がりくねって伸びる道は、前も後ろも途方に暮れるほど濃厚な闇に包まれていた。
「くそっ」