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「ドロップレット・マーダーズ」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:doroppurettomurdersshoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者の朱鷺田祐介による新作『エクリプス・フェイズ』小説、「ドロップレット・マーダーズ」をお届けしたい。

 朱鷺田佑介のユーモアSF、〈ランディ・シーゲル〉シリーズは、これまで5作発表されている。「ミートハブ・マーダーズ あるいは、肉でいっぱいの宇宙(そら)」、「ウィップラッシュ・マーダーズ 殺人鬼はどこにいる?」、「リメンブランス・マーダーズ ~最後の酒杯~」、「品川蕎麦殺人事件(シナガワ・ソバ・マーダーズ)」、「スカイ・アーク・マーダーズ」。

 これらの作品がお気に召した方は、宮内悠介『スペース金融道』やダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイクガイド』といったユーモアSFに進んでみるのも一興だ。

 今作の舞台は海洋惑星ドロップレット。太陽系外に位置する惑星なのだけど、環境的には居住可能で、現住生物や古代の遺跡、失われた文明も存在しており、冒険の舞台にピッタリ。
 実際、本作が公開されるのとちょうど同時期に、「Role&Roll」Vol.150には、朱鷺田祐介が執筆した「海洋惑星ドロップレットの危機」という『エクリプス・フェイズ』の入門用ゲーム・シナリオが掲載される。
 それにあわせ、「Role&Roll」公式サイトのサポート・ページには、サポート・マテリアルとして海洋惑星ドロップレットの設定の抄訳も公開される予定なので、あわせてアクセスしてほしい。

 朱鷺田祐介は、日本SF大賞のスポンサーもつとめる書評SNS「シミルボン」に参加、「トランスヒューマンSF-TRPG『エクリプス・フェイズ』を楽しむためのブックガイド」を寄稿している。(岡和田晃)




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 濃厚な潮の香り。海から響く波の音がもはや大太鼓の鼓動をすぐそばで聞いているように体に直接、響いてくる。
 ああ、海だ。
 もはや、地球で聞くことも出来ない波の音。
 太陽系外惑星ドロップレットならでは風情である。
 タイタン連邦出身の宇宙探検家ランディ・シーゲルが、異星の浜辺に近い建物の屋上で波音の衝撃に体を揺らされながら座っていると、この家の主人がやってきた。シンプルな黒のスーツと真っ白なボソム・シャツを来たジョン・ダンビルは、伊万里の大皿に盛った白身の刺し身をテーブルに置く。宇宙をかける美食家らしい登場だ。彼はさらに、背後についてきた従僕ドローンから、漆塗りの箸、小皿、陶器の醤油さしに続いて、日本酒(サケ)の入った銚子と盃を取る。
「刺し身?」
 と、ランディが問いかけると、ダンビルは微笑み返す。
「今は亡き、日本列島で愛された食の極みだ」

「卵巣後宮(らんそうこうきゅう)」間瀬純子


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(作者より)

 【残酷描写がありますのでご注意ください】

 この作品は、筆者の連作『異境クトゥルー譚』(仮名)のなかの一編です。
 また直接には『ナイトランド・クォータリー新創刊準備号 幻獣』(アトリエサード刊)掲載の、拙作『血の城』のスピンオフ作品になります。






 後宮は世界を美しく模していた。
 世界とは心帝国が統べる中渦平原である。
 帝国の長は神にも等しい虹玉帝(こうぎょくてい)猊下だ。
 世界の外にも陸があり、人めいた生き物も住んでいるが、猊下の徳にあずかれぬ彼らは心を持たない。
 私は、虹玉帝猊下の坐(いま)す後宮にあまた侍る帝妃の侍女であった。お仕えするのは、第三十七帝妃、鉛涯樹(エンガイジュ)王国の忠姫(ただひめ)さまである。
 私は鉛涯樹王国の農民の娘だ。名を宏根(ひろね)という。従妹で幼馴染みでもある宏葉(ひろは)とともに、忠姫さまに順って後宮まで参った。
 私も宏葉も、嫁ぎも子を産みもしない。
 とはいえ、鉛涯樹王国では王族以外の女人は文字を習うことはないのだ。文字を覚え、世界の中心たる都まで来て、我が姫の支えとなれるのである。私たちは珍しくも尊い一生を与えられたのではなかろうか。

「士農工商……あと何だっけ?」木本雅彦


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 教科書から、士農工商が消えた。
 だったら、残された犬とSFは、どうすればいいというのだ。
 僕はいわゆるSF読者だった。そしてSF作家でもあった。だからといって、僕がSFそのものかと問われれば、それはさすがに言い過ぎだろうと思うし、そもそもSFそのものとはなんぞやという質問で切り返したくはなる。
 一方で、この問題について誰も語らないのであれば、僕がSF的なものを代表して考察してみたりしても、それほどバチは当たらないのではないかとも思う。
「なあ、どう思う、マツコ?」
 僕は、隣に座る白い犬に問うた。

「歓迎の作法」大梅 健太郎


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 ある山奥の電波天文台で、今まで観測されたことのない電波が受信された。
「ついに宇宙人からの電波を受信したかもしれません」
 観測技師は、興奮気味に天文台長へと報告した。技師が手にしたデータには、射手座の方向に周期的に電波を発する物体が存在することが、はっきりと示されている。
 台長はそのデータに誤りがないことを確認し、ため息をついた。
「まずは、関係機関に報告だ。君は、このデータが自然現象とは関係のない人工的なものであることを証明するために、観測を続けるように」
 台長の顔が浮かないことに気がついた技師は、恐る恐る尋ねた。
「台長は、嬉しくないのですか」
「そりゃ嬉しいさ。だが、このデータは地球外の知的生命の存在を示しているだけではない」
「ええ。電波の発信源は高速で移動しているので、宇宙船の可能性があります」
「宇宙船を持つような知的生命だぞ。そんな高度な科学力をもった生物が、地球に来たらどうなる」

オトベ ジュンコ


乙部順子

1950年東京都生まれ。成城大学経済学部卒業。株式会社イオ代表取締役。SF作家小松左京氏の秘書、マネージャー等を務めた。小松作品とそのメッセージを後世へ伝える仕事を続けている。

「小松左京さんと日本沈没 秘書物語」乙部順子




 書名:『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』
 著者:乙部順子
 単行本(ソフトカバー): 218ページ
 出版社: 産経新聞出版 (2016/11/10)
 ISBN-10: 4819112937
 ISBN-13: 978-4819112932
 発売日: 2016/11/10


「内容紹介」

 小松さんは
 日本列島に恋していた!

 没後5年、日本SF界の巨匠が最後に残したのは希望のメッセージ。
 34年にわたり、ともに仕事をした女性秘書が初めて語る人間・小松左京

【主な内容】
   ■宇宙へ旅立った「私のボス」―はじめに
   ■第1章 日本列島に恋していた
   ■第2章 未来を見通す「前向き思考」
   ■第3章 お酒と冗談が生みだした「知」
   ■第4章 人間でいることのおもしろさ
   ■第5章 最後まで「人間を信じたい」

 未来を、人間をあきらめなかった人

「潰乱の巷」浦出卓郎


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 藪蛇だった。木の幹に穴が開いていた。追っ手に見つかりにくいと思って、針子はそこを通り抜けようとした。随分と身体を細めてそこを通ったはずなのに、みごと嵌まってしまったのだ。余りに周りが暗いので、その向こう側へ抜けることに不安を感じてはいたが、逃げ失せるためには仕方がないと思ったのに。針子がどれほど身体を縮めようと、その穴は確実にこの娘の括れた胴体の当たりで止まるように、自然の力により想定されて作られた狭さだったのだ。
 幸い人は誰もいなかった。だが誰もいない状態もすぐに終わった。跫音が聞こえてきたのだ。首を巡らして確かめると、複数人ではなく一人だった。道化師だった。針子はいつも往来で、そのふざけた顔を見ると笑っていた。鼻を中心にして円弧を描き、赤い丸が見えた。両頬にもその丸があった。鏡を見ながら自分で描いたものと考えると、阿呆らしく思えてくる。
 しかし、今度は針子が笑われる立場になったという訳だ。

ウラデ タクロウ


浦出 卓郎(うらで たくろう)

1987年生まれ。
2014年第五回創元SF短編賞日下三蔵賞を『懐柔』で受賞。
2015年第三回京都大学新聞文学賞に『壊乱の巷』が最終候補に残る。

「人類の進化」高橋桐矢


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 部屋に入るなり、強い視線を感じた。
 わたしは視線の主に目を向けた。
 窓際に、大きな犬が前足をきちんとそろえて座っていた。シェパードに似ているがもっと大きく、目つきが鋭い。黒曜石のような目で、わたしのことを値踏みするかのようにじっと見つめている。
「これがうわさのウルフドッグか」
「ああ。そろそろ君が来る頃だと思っていたよ。キャサリンも君に会いたがってる。今、コーヒーをいれるよ」
 朝田教授は、愛想良くほほえんで、手招きした。
「アメリカのブリーダーから手に入れたんだって?」
「ああ、ジョンには、アメリカアカオオカミの血が2分の1入っている」
「それにしては、なかなか賢そうだな。犬の血が強いのかな?」

「スカイ・アーク・マーダーズ」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:skyarcmurdersshoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者の朱鷺田祐介による新作「スカイ・アーク・マーダーズ」をお届けしよう。

 今回の「SF Prologue Wave」が更新される頃には、アナログゲーム総合情報書籍「Role&Roll」Vol.144が発売されていることだろう。そこには本作と舞台を共有するゲーム・シナリオ「スカイ・アーク・クライシス」が掲載されている。もちろん、朱鷺田祐介の筆になる作品だ。
 映画『ジュラシック・パーク』や、デジタルゲームの『ディノクライシス』を彷彿させるシナリオとなっているので、ぜひ遊んでみてほしい。

 宇宙もののSF-RPGは大きく分けて、太陽系を舞台にする作品と銀河系を舞台にする作品がある。『エクリプス・フェイズ』は前者に相当するが、ワームホールである「パンドラ・ゲート」を利用すれば、太陽系を何百光年も離れた銀河の彼方にまで旅をすることが可能になる。

 このパンドラ・ゲートについては、未訳サプリメント『Gatecrashing』に詳述されているが、「Role&Roll」Vol.144では、同書からスカイ・アークの設定に該当する箇所を抄訳しているので、わざわざ英語の本を読まずとも太陽系外惑星での冒険を堪能することができるようになっている。活用していただきたい。

 朱鷺田祐介は、書評サイト「シミルボン」で『エクリプス・フェイズ』に関連したブックガイドを書いている。こちらも参考になるかもしれない。(岡和田晃)




(PDFバージョン:skyarcmurders_tokitayuusuke
「美味とは環境だよ」
 美食家のジョン・ダンビルは浜辺のコテージのテラスで言った。彼の前には、あまり見慣れない野菜を刻んだ小皿と背の低いグラスに入った透明な酒があった。
「夏のスカイ・アーク、赤道直下のジュラシックの浜辺は、気温や湿度、風の向きから言って、かつての那覇に近い」
 ランディ・シーゲルの頭の中で、支援AI(ミューズ)が、那覇は日本列島の南端、沖縄諸島の地名だと捕捉し、脳内にマップと経験記録(XP)を展開する。
「そんな日は、塩もみしたゴーヤに鰹節と醤油を振って、泡盛をオンザロックで飲むのがいい」
 ランディの前にも同じものが置かれる。少し苦味のあるゴーヤは歯ごたえがある。それをシャキシャキと噛みながら、沖縄の蒸留酒である泡盛をすする。冷たくスッキリした強い酒。海辺にも関わらず、からりとしたジュラシックの風が心地よい。
「琉球の人なら、三線(サンシン)を奏でて手踊りでもするところだ」

「みなし教育」窓川要


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 自慢じゃないですが、僕はこれまで、数学のテストは毎回白紙で提出していました。分からないんだから、仕方がありません。名前だけは、いちおう書くんですけどね。
 そんな僕でも、このたびなんとか単位を取得し、留年を回避することができました。これは僕自身の努力だけではなく、《みなし教育》制度のお陰でもあります。野球しか知らない僕に数学を身につけさせたんですから、全くとんでもない制度ですよ、これは。
 その日、僕はいつも通りに授業を寝て過ごし、体力を温存し、放課後の部活に全力で取り組んでいました……。

「左目の異世界」高橋桐矢


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 セミの声がふってくる、夕暮れの公園。
 ひとり、ブランコをこぐ。前に後ろに。
 このまま、どこかに行ってしまいたい。
 地面に影が長くのびている。お母さんとケンカして、何も持たないで飛びだしてきてしまった。でももう家には帰らない。帰りたくない。お母さんのわからずや。わたしがいなくなって心配すればいい。
「斉藤まりかさん、どうしたの」
 声に、おどろいて足をつく。ふりむくと、5年2組の担任の、鈴木先生がいた。ブランコの後ろに。いつのまに。
「もうとっくに5時を過ぎてるよ。家に帰らなくちゃ」
 だまって、首をふる。鈴木先生は、今年の春、転勤してきた、暗くてジミなメガネの男の先生だ。
 鈴木先生が、ブランコの横に立った。鈴木先生の影とわたしの影が、ならんで長くのびている。
「帰りたく……ないのかな?」
 わたしは地面の影を見ていた。鈴木先生の影の手が動いて、メガネを外した。

「夢みる葦笛」上田早夕里




書名 :『夢みる葦笛』
著者 :上田早夕里
出版社:光文社
出版日:2016年9月15日
価格 :1500円(税別)
ISBN-10: 4334911218
ISBN-13: 978-4334911218


 個人短篇集です。
 ジャンルSFの書籍ですが、今回は、四六版ハードカバーでの発刊という僥倖に恵まれました。
 2009年から2015年にかけて、ホラーやSFのアンソロジーや文芸雑誌などに掲載された作品9本+未発表作品1本、合計10本が収録されています。
 古い作品に関しては、今回の収録に際して文章や構成などを大きく変えました。幻想的な作品から宇宙を舞台にしたSFまで、さまざまな趣向の作品が収録されています。
 カバー表紙画は山本ゆり繪さん。既刊のカバー表紙画や雑誌掲載時の挿絵などで、何度もお世話になっている方です。収録作は下記をご参照下さい。

「鬼門コンパ(3)」仙田学


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 大阪市内を一巡するJR環状線の南の極に位置する天王寺駅から、近鉄奈良線で四十分ほどさらに南へ下ったところに河内長野市はあった。喜志という駅で降り、見渡すかぎり田んぼと畑と川しかないような景色のなかを二十分以上もバスに揺られていると、鬱蒼と樹の茂った山が見えてくる。斜面を切り崩してつけられた、芸坂、と呼ばれる急勾配の長い坂に、その日は通勤時間帯の駅のホームのように人群れがひしめいていた。
 坂を登りきってすぐ左手にあるのが音楽学科の棟だった。裏手の池と林に面したカフェテラスのような内装の第三食堂は内側に暗幕が張られ、ジャズ研主催のライブハウスに改造されている。やっぱこれ観にきてたんだ。午前中も観て二回目なんだけどやばいわ。場所どこ? 三階奥の講義室だよ、あのでかいとこ。漏れてくるジャズバンドの演奏と、音楽学科の棟の向かい側にある図書館の地階の吹き抜けになったホールに設置されているパイプオルガンの音が混ざりあうなか、次々と手渡されるチラシを受け取りながら、十一号館へ進む。なかに入っている画材屋や写真屋のシャッターは降ろされ、写真学科の展示会場になっている第一食堂の前には人だかりができている。映像原理の授業で学科長の長島監督がめっちゃ推してたんよ。でも授業で撮ったやつやないやろ? そうそう、映研の上映会用に撮ったやつらしいけど、もともと長島先生にえらい期待されとったから、見てもらえたりとかしたんかもな。長いメインストリートを挟んで両側に建ち並ぶ、建築学科や工芸学科や美術学科やデザイン学科などの階段や踊り場などに凝った装飾の施された棟の前には、いつものように火の入った窯や絵の具の匂いが漂っていたり至るところに木材が積みあげられ布が広げられていたりする代わりに、たこ焼きや焼きそばやチョコバナナの屋台が並び、テントの下に簡易長机を設置した居酒屋からは机や地面にこぼれたアルコールの匂いが立ちのぼっている。屋台の隙間ではあちこちでビニールシートが広げられ、古着や古道具や自作の絵や工芸品が売られている。ごめんなんかおれ、食欲なくなったわ。そんなに? 食う前でまだよかった。後なら吐いてたな。それにしてもよくあんなの撮れるよな。電車のなかで、いきなり日本刀持ったやつが暴れだして、乗客を次から次へと殺しまくるだけの映画って。内臓飛び散るわ首が斬り落とされるわ全体的に血の海になるわ、間違いなく映倫に引っかかる。ビールや日本酒の入った紙コップなどを手に、屋台やビニールシートのあいだをそぞろ歩いている人波を抜けると、九号館前の広場にでる。思い思いの場所にオブジェが展示され、隅のほうには全身を包帯でぐるぐる巻きにして組み体操をしている一団がいた。

「鬼門コンパ(2)」仙田学


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 整然と区画された敷地内には、夕闇に浸された墓石の列が見渡すかぎり四方八方へと延びている。濃い緑のにおいと蝉の鳴き声を掻き分けながら石畳の小道を辿り、いくつかの区画を通り過ぎたところで、万田は足を止めた。大きな柳の木があり、その根方には背の高い潅木が生い茂っている。そこだけいっそう夕闇が濃くなっているようだった。
「このあたりでいいだろう」
 振り返りざまに、間一髪のところで万田は身を反らした。鼻先で空気の裂ける音がする。
「どこに連れていかれるのかと思ったら、ひと気のない夜の阿倍野霊園だとは。本当に男って油断も隙もないわね」
 北大路雅美が構えているのは、墓石清掃用のヒシャクだった。
「壮大な誤解をしてないか? っていうかそれ、入り口のところにあったやつだろ。なんでわざわざここまで来てから」
 万田の声は北大路雅美の耳には入っていないようだった。表情のない目でヒシャクを上段に構え、間合いをつめてくる。
「友達連れてきたんか? 仲良さそうやな」
 聞き覚えのあるしわがれた声のしたほうへ、万田は弾かれたように頭をさげた。

「ここにいた」大梅 健太郎


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「そういやお前、行方不明者リストに名を連ねてたぞ」
 寺井翔(てらいかける)の言葉に、動橋誠(どうはしまこと)はビールジョッキをあおる手をとめた。一瞬、居酒屋の喧騒が遠くなる。
「行方不明者リスト?」
「ああ、行方不明者リスト」
 物騒な言葉だ。二人分の仕事の愚痴を詰めこんで重くなった動橋の胃が、きゅっと締め付けられる。
「俺は今、ここにいるよな?」
「でも、行方不明みたいだぞ」
 寺井は嬉しそうに笑いながら、最後に残った枝豆のサヤをつまみ上げた。

「鬼門コンパ(1)」仙田学


(PDFバージョン:kimonnkonnpa1_senndamanabu
 数十本もの釘の突きだした太い角材を、北大路雅美はゆっくりと持ちあげ、頭上に構えた。切れ長の目は大きく見開かれているが、瞳孔がすぼまっているせいで、白目の部分が魚の腹のように青白く光ってみえた。風で乱れかかった長い黒髪のあいだから、引き結ばれた薄い唇が覗いている。表情を変えずに、北大路雅美は角材を振りおろした。重く鈍い音が立ち、迸った鮮血が北大路雅美の頬に数滴飛んだ。
 北大路雅美の足もとにうずくまっているのは、血まみれの男だった。肉が落ち骨の浮いた身体は隈なく腫れあがって青黒く染まり、毛髪のほとんど抜け落ちた頭部は膨れあがり、顔の肉のあいだに埋もれて目の位置も見分けられなくなっていた。さらに北大路雅美は何度も角材を振りおろし、そのたびに男の身体は右に左にと大きく傾いだが、その喉からはもう声もでないようだった。

センダ マナブ


仙田 学(せんだ まなぶ)

1975年1月27日京都府生まれ。学習院大学大学院フランス文学科博士課程単位取得退学。
2002年「中国の拷問」で早稲田文学新人賞を受賞。著書に『ツルツルちゃん』(NMG文庫、オークラ出版)、『盗まれた遺書』(河出書房新社)がある。

「10年目の贈り物」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:jyuunennmenoshoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者の朱鷺田祐介による新作「10年目の贈り物」をお届けしよう。

 アナログゲーム総合情報書籍「Role&Roll」Vol.140で『エクリプス・フェイズ』特集が組まれる。あたかも、それと連動したかのように公開となった本作は、さながら朱鷺田祐介がこれまで書いてきた『エクリプス・フェイズ』小説の、ひとまずの集大成のような作品である。

 ランディ・シーゲル、メアリー・I、そしてジョン・ダンビル。お馴染みの彼らが登場するのだが、彼らの冒険が言及される仕掛けには、ニヤリとさせられること必至だろう。
 そして、10年前に起こった惨劇……そう“大破壊(ザ・フォール)”。そこで何があったのか。それが10年後の“現在”に、どのような影響を与えたのか。
 ぜひ基本ルールブックの「運に見放された宇宙における、人々の歴史」とあわせて読み、設定を活かす参考にしてみてほしい。

 また、木星共和国の艦隊の設定等は、サプリメント『Rimward』(未訳)の情報が参照されている。

 朱鷺田祐介は、「Role&Roll」Vol.137からは『シャドウラン』のワールドガイド「ストーム・フロント」の連載を開始。今年も精力的な活動を続けている。(岡和田晃)




(PDFバージョン:jyuunennmeno_tokitayuusuke
 ……やがて、大洪水がやってきて、地上の罪深き者たちが滅びた後、生き残ったノアは、地に落ちた葡萄の蔦を見つけ、これを地に植えた。その蔦は、エデンの園に生えていたものを、サマエルが地上に投じたものである。ノアは、これを発見し、「これはいかなる植物であり、植えてもよいものなのか?」と神に問いかけた。
 天使ファマエルが現れ、それはアダムを揺るがせた葡萄の蔦であると教えた。
 ノアはさらに悩み、神に問いかけるため、四十日間の祈りをささげた。
 やがて、神は天使サラサエルを遣わしてその言葉を伝えた。
「ノアよ、立ってそのつるを植えよ。神がこう言われるのだから、この木の苦さは甘さに変えられ、そこから生ずるもの(ワイン)は神の血になるでしょう。その木のおかげで人類は罰を受けたのだが、今後はインマヌエルなるイエス・キリストを通して、その木において上へのお召しを受け、楽園に入ることを許されるであろう」

――キリスト教偽典『ギリシア語バルク黙示録』より


1:キリマンジャロ・ビーンストーク

 それはぎりぎりのタイミングで、キリマンジャロ山頂の宇宙エレベーターを登っていった。戦略支援AI群、通称ティターンズ(TITANs)が引き起こした世界群発戦争からの避難民で混み合い始めた宇宙エレベーターの特別シートをひとつ、大枚はたいて買った。ずいぶん、コネも使ったが、得られたのは特別シートひとつと、40キロの荷物スペースだけだった。分岐体(フォーク)をひとつ作り、1ケースのワインとともに軌道上へ送った。
「私(かれ)に伝えてくれ。これが最後だ」

「文庫版『深紅の碑文』上・下」上田早夕里




書名:文庫版『深紅の碑文』上・下
著者:上田早夕里
出版社:ハヤカワ文庫(早川書房)

(上巻):920円(税別)
ISBN-10: 4150312176
ISBN-13: 978-4150312176

(下巻):920円(税別)
ISBN-10: 4150312184
ISBN-13: 978-4150312183

*電子版も有り。


 2013年12月末にJコレクションから出た作品が文庫化されました。

『華竜の宮』『リリエンタールの末裔』に引き続き、本作においても読者の皆様から多数のご声援を頂き、おかげさまで正式に、この先もシリーズを展開できることとなりました。「オーシャンクロニクル・シリーズ」全体の構想は既にできあがっており、長編パートは、この『深紅の碑文』が最後となります。ここから先は、短編・中編を積み上げていく形式になります。今後とも、よろしくお願い致します。

「品川蕎麦殺人事件(シナガワ・ソバ・マーダーズ)」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:sinagawasobamurdersshoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者の朱鷺田祐介による新作「品川蕎麦マーダーズ」をお届けしたい。

 これは朱鷺田佑介のユーモアSF「ミートハブ・マーダーズ あるいは、肉でいっぱいの宇宙(そら)」、「ウィップラッシュ・マーダーズ 殺人鬼はどこにいる?」、「リメンブランス・マーダーズ ~最後の酒杯~」の系譜に連なる第4作だが、シリーズのなかではもっとも大胆な切り口の作品だ。というのも、本作は「2015年12月の日本の風景」を扱っているのである!

 これまで「SF Prologue Wave」では40本以上の『エクリプス・フェイズ』シェアードワールド作品が掲載されてきたが、なかでも本作は、異色作品の一つといえる。現代の品川近辺の模様が詳細に活写されるだけではなく、村上春樹や西村賢太の小説が示唆され、著者が偏愛を隠さない『孤独のグルメ』ばりに力が入った食事描写が続くからだ。しかしながら、これらの光景はXP(体験再生)がどのようなリアリティを提供するのかをシミュレーションしたものであることを忘れてはならない。そのうえで、ジョン・ダンビルものの連作の文脈で捉えれば、いっそう「味わい深く」本作を堪能できるだろう。

 朱鷺田祐介は、「Role&Roll」Vol.137からは『シャドウラン』のワールドガイド「ストーム・フロント」の連載を開始。今年も精力的な活動を続けている。
(岡和田晃)




(PDFバージョン:sinagawasobamurders_tokitayuusuke
 小惑星帯を航行する宇宙船が宇宙空間を漂流する遺体をひとつ発見した。
 宇宙服に包まれたそれは、宇宙空間の事故で死んだ宇宙作業員の死体か何かかと思われたが、宇宙船の船員が宇宙服のヘルメットを開放してみるとその中には灰色がかった紐状の何かが詰まっていた。このXPはその宇宙服の奥から発見された大脳皮質記録装置(スタック)から回収されたものである。

>>>アクセス XP<<<

 XP(体験再生)プログラムへようこそ。
 ここからあなたは、誰かの人生を体験します。あなたは、映像だけでなく、音声・匂い・味・触覚を含むすべての五感情報、体内情報、感情情報さえも受け取り、まったく別の誰かの人生を味わうことが出来るのです。

【警告】
 本作は娯楽体験用に編集・加工をされています。安全装置を解除した場合、強度の感情や体験情報によって、精神や肉体に異常をきたす場合があります。必ず、リミッターを設定してください。

 黒くふくらんだ雨雲がいつ弾けてもおかしくないくらい垂れ下がりながら、JR品川駅港南口に立つガラスの摩天楼の上を通り過ぎていく。駅前はカラフルな看板や鮮やかに動く映像スクリーンで飾られ、きらきら輝いているように見えるが、どことなくくすんだセピア色に染まっている。いや、ここには本当に色はあるのだろうか?
 JR品川駅は高架になっていて、港南口は二階のテラスにつながっている。
 平日の朝8時前、通勤客がどっと吐き出されていく。駅前には高層の企業ビルが数本並んでおり、テラスから伸びるガラス張りの空中回廊で直結されている。

「【伊藤計劃ライフヒストリー】(第3回)」小山由美

 ライターの小山由美氏が「ちいき新聞」に寄稿した記事をアーカイビングする企画、第3回では、伊藤計劃会員のお部屋と本棚を写真付きでご紹介します(ご遺族の許可はいただいています)。もとの原稿では紙幅の都合で部屋・書棚の写真は1枚しか掲載できませんでしたが、今回は5枚まるまる掲載いたします。私自身、伊藤計劃『The Indifference Engine』(ハヤカワ文庫JA、2012年)に解説を寄せる際には、ご遺族の許可を得てお部屋と本棚を取材させていただいたのを思い出しました。(岡和田晃)


(PDFバージョン:itoukeikakulh3_koyamayumi
<SF作家・伊藤計劃 本棚から垣間見るその横顔>

 作家として活動したのはたった2年であった。34歳の若さで病に倒れ、才能を惜しまれながらこの世を去った伊藤計劃さん。その足跡を求めて、彼が幼少から晩年まで過ごした八千代市内の自宅を訪ねた。

●時間の止まった部屋に残る息づかい

 窓以外のほとんどが本で埋まる六畳間。本の奥は二重三重にさらなる本が収納され、本棚の各段は重みで歪んでいた。



「お年玉をもらうと即本屋へ、という子どもでした。トイレにもお風呂にも本、食べていても歩いていても手から本が離れない。お蔭で電信柱にぶつかることもたびたびでした」。母の和恵さんは当時を思い起こすように微笑んだ。

「キャンプに行こう」高橋桐矢


(PDFバージョン:kyanpuni_takahasikiriya
「キャンプに行こう」という父の言葉を思い出す。
 一人息子であるわたしを喜ばせたかったのだろう。キャンプ用品のカタログを見せながら、テントや寝袋や釣り道具……サバイバルキャンプに必要なものを、指折り数えながら、リストアップしていく。方位磁石も忘れずに。寒くなっても大丈夫なように毛布も。それから雨具も必要だ。リストは何十項目にもなった。
 父はいつも仕事で忙しく、週末もいないことが多かった。それなのに、いや、それだから、か。毎年わたしの学校の夏休みが近くなると、父はどこからか、キャンプ用品のカタログを見つけてきた。
「……パパ」
 呼ばれて、ふっと我に返る。
「ああ、そこにいたのか、ごめん」
 小学校3年生の息子が、心配そうな顔でわたしを見上げている。

「〈手段としての音楽〉の演奏」窓川要


(PDFバージョン:shudanntositeno_madokawakaname
 開演の拍手も止み静まりかえったコンサートホールに、粘液をかき回す湿った音が響き始めた。客席の聴衆はみな一様に息を呑み、ブルーノの一挙手一投足から目を離すことができなくなっていた。
 タクトが緩やかに弧を描いた。遂に両の眼球が摘出されたのだ。左右ともほぼ同時にステージへと落下したそれらは、ほんの数センチだけ転がり、しかしすぐ粘液に囚われて動きを止めた。それはたったいま息絶えた両生類のように見えた。
 自らの眼球を摘出してもなお、ブルーノは仁王立ちしていた。暗い眼窩はもう何も見ていなかった。金色の前髪が上瞼に絡んでいることなど、微塵も気にならないようだった。彼は静かに両手を顔の高さまで上げ、両のタクトを逆手に持ち直した。

「ミューズ叢書 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー」上田早夕里、八杉将司




書名:ミューズ叢書<1> 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー
著者:上田早夕里, 八杉将司
出版社:BCCKS Distribution
出版日:2016年1月20日
ASIN: B01AXOM14K
定価:電子本 400円(税別)
   紙本(新書サイズ 130P) 910円(税別)


 いつもとは違う形式で本を出版しました。上田の著作権管理を行っている事務所(OFFICE 222)が企画・発刊した「対談&インタビュー」の本です。
 昨年11月に完結した「妖怪探偵・百目」シリーズを巡って、SF作家の八杉将司さんと対談を行い、その記録をまとめたものです。五時間に及ぶ長時間の対談から、重要な部分を活字化しました。作品本編と併せて読んで頂くと、いろいろと楽しめます。シリーズを最後まで読んで下さった方々への、ささやかな贈り物です。
 巻末には、八杉さんへの単独インタビューも掲載しました。

「【伊藤計劃ライフヒストリー】(第2回)」小山由美

 ライターの小山由美氏が「ちいき新聞」に寄稿なさった伊藤計劃会員に関する記事を、資料としてSF Prologue Waveにアーカイビングさせていただく試み、その第2回となります。『屍者の帝国』の受賞は、地元へどのように報道されたのでしょうか。(岡和田晃)


(PDFバージョン:itoukeikakulh2_koyamayumi
<没後も衰えぬ筆と、意志を継ぐ人々の支え 日本SF大賞特別賞受賞 故・伊藤計劃さん(八千代市出身)>

 3月1日、都内で行われた徳間文芸賞贈賞式にて、伊藤計劃・円城塔による共著「屍者の帝国」が第33回日本SF大賞特別賞を受賞した。伊藤さんが没して4年。彼が遺した足跡に、また大きな証(あかし)が刻まれた。

 東京生まれの伊藤さんはぜんそく治療のため、3歳から八千代市民に。学齢期は漫画少年、大学卒業後はマスコミ関係の仕事に励む。しかし若くしてがんを発病。以来入退院を繰り返しながら膨大な量の映画鑑賞、読書、そして映画やゲームの評論家としても活躍した。
 2007年、SF長編小説「虐殺器官」で作家デビュー。2009年、肺がんのため逝去。衰弱と戦いながらベッドで書き上げた「ハーモニー」は没後、故人として初めて日本SF大賞を受賞したほか、日本人初の快挙となるアメリカのフィリップ・K・ディック記念特別賞にも選ばれた。

コヤマ ユミ


小山由美(こやま・ゆみ)

 1972年静岡県大仁町(現・伊豆の国市)生まれ、千葉県習志野市在住。日本大学芸術学部卒。ライター。共著に『子どもとでかける千葉あそび場ガイド』『千葉タダで楽しむ子連れおでかけガイド』『お母さん次第でぐんぐん伸びる長女の育て方』(共にメイツ出版)。地域情報紙『ちいき新聞』(55版204万部)に連載エッセイ、取材記事を寄稿。『森沢明夫インタビュー』にて金のペンシル杯優秀賞受賞。船橋市公式観光PRドラマ『船橋市役所特案係』シリーズ制作に参加。

「クリシュナ・ガウディの部屋」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:kurishunagaudhishoukai_okawadaakira
 まもなく日本語版の発売が予定されている『エクリプス・フェイズ』基本ルールブック。その監修者の朱鷺田祐介が新作小説「クリシュナ・ガウディの部屋」を書き下ろした。

 “死は病にすぎない、治療せよ……。”『エクリプス・フェイズ』基本ルールブックの裏表紙に記された著名な惹句だが、とすると、そのようなポストヒューマン社会で、自殺することとは、いったいどのような行いなのだろうか?
 自殺から蘇生した火星の医師の独白で綴られるこの物語は、期せずして宮内悠介『エクソダス症候群』にも通じる主題を扱っている。『エクソダス症候群』で描かれた地球への帰還願望や突発性希死念慮といったモチーフは、ちょうど本作の関心を裏側から掘り下げているようである。読み比べてみるのも一興だろう。

 なお、語り手のイメージ・イラストはサプリメント『モーフ・レコグニション・ガイド』から、ファウスト義体のものを用いてみた。メントン義体をベースにしているのと、外見のイメージが小説の設定に見合うように思われたからだ。
 
 朱鷺田祐介は、2015年にはPS VISTA用デジタルゲームのノベライズ『魔都紅色幽撃隊」(西上柾との共著、ベストセラーズ)、トールキンの世界を解説した『中つ国サーガ読本』(洋泉社)、『深淵』の第二版テンプレート集『辺境騎士団領』(新紀元社)といった著作を刊行してきた。(岡和田晃)




(PDFバージョン:kurishunagaudhi_tokitayuusuke
 はあ、はあ、はあ。
 荒い息をまるで自分のものではないように感じる。
 血圧が上がっていることは分かっている。それを伝えてくれそうなすべての機能はカットしている。
 目の前には、きらきらと輝くコインのような円盤。指先で持ち上げられるようなそれは自分の魂そのものだ。
 今から、これを砕く。
 手に持ったハンマーの重みを感じる。
 物理的な重さがやっと実感につながる。
 ああ、私はこれを砕く。
 これで私は自由になれる。
 この永遠の生命という檻から。
 額に汗が流れる。
 思い切ってハンマーを振り上げ、振り下ろす。

 目覚めると、窓の外に青みがかった火星の空と天に向かって伸びる巨大な柱が見えた。ああ、あの柱から私は降りてきて、火星への一歩を踏み出したのだ。オリンポス・シティの軌道エレベーターだ。
「火星オリンポス・シティ クリシュナ・ガウディ記念病院701」
 脳内で、ミューズ‐個人用の支援AI‐が位置情報を伝える。精神の不安定を抑えるドラッグが投与されているのか、私の精神は実に落ち着いていた。

「【伊藤計劃ライフヒストリー】(第1回)」小山由美

 ライターの小山由美氏は、SFプロパー向けの媒体とは別の場所(地域新聞社の発行物)で、伊藤計劃会員の仕事を紹介してこられました。これらのお仕事は、作家のライフヒストリーに焦点を当てた貴重な資料ということから、「SF Prologue Wave」への転載をご快諾いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。(岡和田晃)


(PDFバージョン:itoukeikakulh1_koyamayumi
<米SF小説特別賞受賞 日本人初の快挙 八千代市の故・伊藤計劃さん>

 2009年3月、多くのファンに惜しまれながら、SF作家の伊藤計劃さんは肺がんのためこの世を去った。34歳だった。
 彼の最後の長編『ハーモニー』は国内外で高く評価され、故人として初めて日本SF大賞を受賞。そして今年、アメリカのフィリップ・K・ディック記念特別賞を受賞した。海外で日本のSF小説が賞を受けるのは初めてのことだ。
 伊藤さんは東京で生まれ、ぜんそく治療のため3歳の時に八千代市勝田台へ。そのころよく利用した路線の駅名をすべて漢字で読み書きし、周りの大人を驚かせたという。
 地元の幼稚園から小・中学校へと進んだ伊藤さんは本を好み、勉強より漫画を描くことに熱中するような少年に成長した。

「1983年のクリスマス ――光瀬龍氏と名前――」宮野由梨香


(PDFバージョン:1983nennnoxmas_miyanoyurika
「もしかして、今晩って、クリスマス・イブ? うわぁっ」
 昼休み、大学の図書館で新聞を見て、私は焦った。夕方に人と会う約束をしていた。その日=12月24日に会うという約束をした時、私はうかつにもクリスマス・イブだということに全く気がつかなかったのだ。
 私はあわてて公衆電話のところに行った。携帯電話のない時代、バブル真っ盛りの1983年のことだった。
「光瀬先生、すみません、今日ってクリスマス・イブだったんですね!」
 クリスマスを祝うという習慣のない家庭で育った私も、世の中にはイベントを催す方々が多いということくらいは知っていた。たぶん光瀬先生も気がつかなくて約束なさったのだろうと思った。
「お会いするの、ご迷惑なら、別の日にしましょうか?」
「いや、かまいませんよ」
「では、お約束どおりでいいんですね?」
 電話を切って私は考えた。「そもそも、『百億の昼と千億の夜』の中で、イエス・キリストをボロクソに描いた人だった。余計な心配をしてしまった」と。
 だから、赤羽駅近くのレストランで、クリスマス・プレゼントとして蔵書印をいただいた時には、びっくりした。