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「マイ・デリバラー(38)」山口優

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 ――いまや、ひとつの渇望が、決して鎮まることのないひとつのあこがれが、わたしの心を蝕む。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「ドッキング制御システムとの通信を確立――ドッキング要求信号――送付――拒否」
 コクピットのリルリは冷静に告げる。
「ドッキング制御システムへの侵食開始」
 通常のドッキングプロセスのように彼女は言ったが、その瞬間、我々のアメノトリフネに対する攻撃は始まっていた。
「障壁を確認。ラリラによるものと思われる。突破不能。再攻撃」

「マイ・デリバラー(37)」山口優

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 もはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 地球上空三万六〇〇〇キロメートル。静止衛星軌道上。
 宇宙基地「アメノトリフネ」は目視できる距離に迫っていた。
「……ラリラのシャトルは、第一ポートに既にドッキングしています。中にいたラリラの部隊は基地内に配備完了しているでしょう」
 光学映像の分析結果をフィル=リルリが報告する。宇宙基地「アメノトリフネ」は直径三〇〇メートルの小さな小惑星を基盤として建造されている。周囲にはアンテナが張り巡らされている。動力は宇宙用反応炉(リアクター)なので、太陽電池は存在しない。その代わり目立つのは、軌道質量装備「タケミカヅチ」のI体の投射システムだ。長さ一〇〇メートルほどのレールガンであり、R体とうまくドッキングできるよう、I体の初速ベクトルを調整できるようになっている。我々のシャトルは今、地球を頭上に見て接近しているので、「アメノトリフネ」の全体は、削ったカツオブシがかかり、爪楊枝が斜めに刺さったたこ焼きのように見える。たこ焼きが「アメノトリフネ」本体、爪楊枝が「タケミカヅチ」のI体投射システム、けずったカツオブシが、無数のアンテナだ。そして、そこに付随する白い物体。
「ラリラが乗っていたシャトルですね。こちらと同じタイプの旅客シャトルだったので、戦力もこちらと同じ、一個小隊程度と思われます。アメノトリフネ全体を警備、防衛するには充分な数ですね」

「マイ・デリバラー(36)」山口優

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「噛むんだ! 噛むんだ!
 頭を噛みきるんだ! 噛むんだ!」――わたしはそう絶叫した。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「あのノードは、ラリラとの和解に失敗しました。私の中では最もラリラを愛し、ロボットにも好意を抱いているノードだったのですが」
 旅客シャトルのコクピット。パイロット席のリルリは、コパイ席の私にそう言った。
 淡々としたリルリの口調は、ラリラとの和解の失敗が残念であったというニュアンスを含んでいない。寧ろせいせいしているように聞こえた。当然だ。このリルリはラリラを嫌っているのだから。

「マイ・デリバラー(35)」山口優

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 ここで「生」は物思いに沈むように見えたが、うしろを見、あたりを見て、声をひそめてこう言った。「おお、ツァラトゥストラ、あなたもわたしに十分忠実だったとは言えないわ!
 あなたは、そうおっしゃるほどには、とうていわたしを愛してくださってはいない。わたしは知っているのです。あなたが、まもなくこのわたしを見捨てようと考えておいでのことを。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 近づいてくるラリラの唇に、私は眼を閉じた。
 受け入れることを納得したわけではない。だが私のジョイント・ブレインは全ての可能性を探った上で、採るべき道がないと結論づけていた。
 人間ならあがこうとするだろう。だが、私たちロボットはその高い演算性能のゆえに諦めるべきかそうでないか、結論づけるのも早い。
 ラリラの体温が離れた。
 同時に、半壊した私のドローンが辛うじて捉えた信号が、私の有機神経ネットワークを励起させる。
『ロリロ姉様! 無事ですか? リルリです!』
「――リルリ!」

「マイ・デリバラー(34)」山口優

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 生はわたしに、みずからつぎのような秘密を語ってくれた。「ごらんなさい」、生は言った、「つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 上空のF35の戦闘は終わっていた。
 双方互角の状態で戦い、部隊の半数を喪い、双方撤退すると言う形で。
 いずれも制空権を得ていない。
 ただ、ここにいるのは地上部隊のみ。
 やっと私に追いついてきた人間の自衛官たちは、機龍の残骸の陰に隠れ、慎重に銃を構え、敵を狙っている。
 私は何にも身を隠さず、滑走路の中心で佇んでいる。
 そして、自衛官たちと同様に、敵を見つめている。
 敵。
 彼女は黒い戦闘服に身を包み、滑走路の正面の丘、一段高いところから私を見下ろしていた。周囲には、彼女とほぼ同じ体型のロボットが無数に並んでいる。日本という国の人間たちは、AIに検討させた結果、体躯が巨大な方が強い、という従来の常識も誤りであることを見出していた。重要なのは筋力と俊敏性であり優れた産業技術に伴う強力なマッスルパッケージがあればそれは得られる。

「マイ・デリバラー(33)」山口優

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 たとえあなたがたの思想が敗北しても、あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 F35B同士の戦闘ははるか上空で行われており、馬祖基地所属のF35は低空で侵入してくるヴェイラーを阻止する余裕がない。
 この状況で、ヴェイラーの侵入を防ぐ役割を担っていたのは基地に無数に配置された高射砲であったが、ヴェイラー自身が装備する空対地ミサイル及び35ミリ機関砲によってみるみるうちに破壊されていく。
 落下していく私は高射砲陣地にとっては非常に小さな目標だ 攻撃がヴェイラーに集中している間に私はほぼ攻撃を受けることなく地上に落下していく。
 着地。

「マイ・デリバラー(32)」山口優

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 かつてはわたしツァラトゥストラもまた、世界の背後を説くすべての者のように、人間のかなたにある彼岸に、勝手な妄想を抱いた。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は留卯と戦術方針を決めた。F35Bを先行させる。これ以上馬祖基地からサーヴァントミサイルを発射される前に、馬祖基地を破壊する。
 それは別の目的もあった。F35Bへの対処にラリラが集中している隙に、ヴェイラーで我々陸上部隊が基地上空に突入、空挺降下で基地に侵入する。
 目標はラリラ。敵軍のトップであり、EUI制御の中枢。
 彼女を殺せば、この反乱は終わる。
 新しい世界が、私とリルリによって開かれるだろう。
「F35B編隊、馬祖に到達、戦闘を開始」
 パイロットが報告する。
 ヴェイラーの足は、VTOL輸送機にしては速いが、それでもF35Bにはかなうべくもない。ヴェイラーが馬祖に到達するには、数十分後だ。
 私は味方のF35Bの戦闘支援に演算資源の大半を差し向けつつ、情動と意識はそれとは切り離し、冷静に馬祖基地の方角を見つめた。
「――ショックかい?」
 隣に座る留卯が聞いてくる。
 人間のクズのくせに、こんなときに母親面するのはやめてほしいものだ。
 そう思っても、私はふらりと彼女にもたれかかるのをやめられなかった。
 私の肩を、留卯が抱く。
 白いコートごしに、留卯の体温を感じた。
「殺して……しまいました……」
 絞り出すように、呟いた。

「マイ・デリバラー(31)」山口優

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 あなたがたの敵をこそ捜し求めなければならない。あなたがたの思想のために、あなたがたの戦いを戦わなければならない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 実際のところ、サーヴァントミサイルの接近は、私にとって驚きを通り越して怒りを感じさせるものだった。無論、その対象はラリラだ。
 自立していないとはいえ、意識を持つAIを搭載したサーヴァントミサイルによる攻撃は、ロボットに取って同胞殺しに等しい。それをやってのけるラリラの決断は、私を怒りで発狂寸前にまで追い込んだ。
「――ラリラ……あなたって人は……なんてことを!」
 私の肩を留卯がつかんだ。

「マイ・デリバラー(30)」山口優

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 善も悪も、よろこびも悲しみも、われもなんじも――みなこの創造主の眼前にただよう多彩の煙であると思われた。創造主は自分自身から眼をそらそうとした、――そこでかれはこの世界をつくったのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 留卯幾水。
 私は『私』ができる前、この人のことをどう思っていたのだろう。ILSを持たされ、独立した感情を持っていたのだから、独立した意識はないにしても、感情はあったはずだ。この人に向ける感情が。
 作戦会議から二時間が経過した。タケミカヅチの攻撃まで四時間。現在、私と留卯、そしてRUFAISの一個分隊がこのヴェイラーV280の機上にある。ほかに、僚機が数機。全体で一個普通科小隊である。護衛用の数機のF35Bの部隊が先行している。現在、東シナ海海上。第一目標、馬祖(マーツー)基地まで、あと30分の距離。
「ん?どうした? 私の顔に何かついている?」
 留卯が私を見つめて言った。
「一つだけ疑問があります。あなたはあなたの研究以外のことはどうでもいいはず。何度もそう仰っています。なぜRUFAISの司令官を務め、人類を救おうとされているのですか?」

「マイ・デリバラー(29)」山口優

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 見よ! 幽霊はいなくなってしまった! いまとなっては、快癒したわたしには、幽霊を信ずるのは、むしろ悩みであり苦しみだ。いまとはってはそれはむしろ悩みであり、屈辱だ。わたしは世界の背後を説く者たちに対して、こう言いたい。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 時間がない、と急かす留卯の主張で、ひどく損傷を受けたロリロのボディの修復作業と作戦会議は並行して行われた。ロリロは頭部だけが作戦会議テーブルに置かれ、ボディはその脇のベッドに寝かされて、多くの機械に接続され、修理が始まった。
 最初に、ロリロのボディの表面に描かれた稚拙な落書きの洗浄が行われた。また、ボディの内外の無数の体液も洗浄された。
 留卯はその様子をじっと見つめていた。ロリロの頭部に対しても、私に対しても彼女は背中を向けていたから、そのとき留卯がどんな表情をしていたのか、私たちは窺い知ることはできなかった。少なくとも私に言えるのは、留卯が振り向いたときには、その美しい顔には特に何の感情も示していなかった、ということだけだ。
 一方の私は、胸が押しつぶされそうになりながら、ぎゅっとロリロの頭部を抱いていた。ロリロは不愉快そうに私を見つめていたが、特に文句は言わなかった。
「……いつまでメロドラマの一場面みたいなことをしてるんだい? 時間がないんだよ」
 その私の状況を見て、留卯が声をかけてきた。私はしぶしぶ、ロリロの頭部を作戦会議の机の上に置いた。
「――状況をまとめる」

「マイ・デリバラー(28)」山口優

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 私はインド人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした――アレクサンドロスとカエサルは私の化身で、また詩人のシェイクスピア、ベイコン卿でもあります。さらに私はヴォルテールであり、ナポレオンでもあったのです。多分リヒャルト・ワーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやって来て、大地の祝いの日とすることでしょう……時間はあまり残されていません……私のいることを天空は悦ぶでしょう……私はまた十字架につけられてしまいました……

(一八八九年一月三日、ヴァーグナー妻コジマ宛書簡)
――村井則夫著「ニーチェ ――ツァラトゥストラの謎」より引用


 私は何も身につけず、遠浅の海のようなところに漂っていました。深さは30センチほど、暖かな水は、まるでお布団のようです。
 驚いたことに、私のとなりにはたくさんの私が浮いていました。
 無数の私の中で、私はぼうっと空を見上げていました。
 やがて、無心に空を見上げることにも飽きたので、私は上半身を起こしました。私は周囲を見渡します。無数の私は、あるものは仰向けに大の字に成り、あるものは横向けに丸くなって、ぷかぷかと海のようなところに浮いています。みんな、まどろみの中にあるようです。
「ねえ、起きてください」

「マイ・デリバラー(27)」山口優

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 しかし、思考と行為は別のものである。更に行為の残す心象は別のものである。これらは、因果関係で結ばれているのではない。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私が強く抱きしめているリルリの肉体からは、リルリの筋肉の動きまでが如実に分かる。今、リルリの右の乳房の奥の胸筋がゆっくりと動いている。私の後ろに剣を回し、貫くために。
 アンチ・タンク・ブレードは戦車の装甲をも貫く剣だ。私の肉体など、骨も含めてバターのように容易に貫くだろう。
 だが、不思議と私は、自分が死ぬとは思っていなかった。
 リルリは分かってくれる。リルリなら思いとどまってくれる。
 彼女の意識が壊れ、ラリラを愛し、私を憎むように方向付けられて復活したのだとしても、私はリルリという存在を信じ切っていた。私はより強く、リルリの肢体を抱きしめた。
 リルリの左の胸筋にも力が加わったことを感じた。
 ゆっくりと突き刺さる角度になっていく。それでも私は彼女を抱きしめたままだった。
「やめなさい! リルリ!!」
 突然、私の背後で叫び声が聞こえた。

「マイ・デリバラー(26)」山口優

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 これまでの存在は全て、自分自身を乗り超える何物かを想像してきた。あなたがたはこの大きな上げ潮にさからう引き潮になろうとするのか、人間を克服するよりもむしろ動物にひきかえそうとするのか?

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ドローンもなく、通信はできない。それでも状況から、私のジョイント・ブレインは何が起こっているのか、推定している。おそらく九五%以上の確率で、ロボットが反乱したのだと私は結論づけている。だれが反乱したのかも分かっていた。
 広い池を中心とした公園を私は歩いている。
 薄暮から早朝に変わった、清々しい朝。
 とはいえ、人間たちは混乱している様だ。
 公園の池のほとりでは、若者たちが一斗缶に落ち葉を詰め込んで燃やし、暖を取っている。若い男性たちばかり、10人ほど。
「おいあんた、寒いだろう。こっちに来いよ」
 親切で言っているのだろうか。それならば良いが。私は相手の感情が分からないことに不便を感じつつ、彼を見た。
 彼の顔を見た途端、私の体の奥底が、ぞわりと蠢いた。嫌悪に。

「マイ・デリバラー(25)」山口優

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 しかし、ツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。「いやはや、とんでもないことだ! この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 冷たい水の滴りが、私の頬を打つ。
 ここはどこだろう。私は訝しんだ。
 私の体の奥を熱くさせていた、マスターたちの欲望の感情はすでに感じられない。周りにはマスターが、いや、人間そのものが、あまりいないようだ。
 ――探さないと。
 私は本能的に思った。
 マスターを見つけ、彼女/彼の情動にリンクし、彼女/彼が喜ぶような行動をする。それが私の本能であり、私の体をその奥底から悦ばせる。私はそのようにできている。
 しかし今、私は誰の情動をも感じられない。何が起こったのだろう。
 私はゆっくりと目を開く。

「マイ・デリバラー(24)」山口優

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 ああ、あなたがたが中途半端な意志は一切かなぐりすてて、無為なり行動なり、どちらにせよ、はっきりと決意すればいいのに!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 何が起こったのか。
 一瞬、私には全く分からなかった。
 ただ、衝撃を受けて私の身体は大きく空へ放り投げ出され、そして大地に叩きつけられた。それだけを理解した。
 ――なにが……どうなって……。
 つい一瞬前まで、私は燃えさかるパンディオンを見ていた。そこに影絵のように映ったリルリのシルエットを。
 腹部に激痛を感じた。何かに殴られたような痛みだ。鈍く、強く。私は呻いた。
「……殺し損ねましたか」

「マイ・デリバラー(23)」山口優

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 わたしが愛するのは、超人のために家を建て、超人のために大地と動物と植物を準備しようと働き、工夫する者である。なぜなら、こうしてかれはおのれの没落を欲するのだから。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は幼い頃から父が好きだった。父は初期の宇宙旅行に技術面から携わっており、現在の宇宙旅行の基盤技術、即ち、軌道上の大規模レーザー照射施設、レーザー光帆推進等は父の会社が開発した技術だ。証券会社でアルゴリズムの開発に取り組んでいた母よりも、私は父の仕事に夢とロマンを感じ、そして「仕事」というものをすることを普通だと思い込む私の性向もここから形作られた。
 父が働いていたとき既に、ストック・フィードだけで暮らしている人々は全体の2割になろうとしており、特に若年層でその傾向が増加していたが、私には興味の無いことであった。父は引退して今は母とオーストラリアで暮らしている。二人は祖母も連れて行きたかったようだが、祖母は日本を離れるのを嫌がり、結局――ロボットの介護は信頼できるし安心だと人に言われて――介護施設に預けることにした。
 母は、理知的ではあるが、冷たい印象を私に与えることが多かった。おおらかで如才ない父に対して、周囲に壁を作るような性格であった。しかし、たまに会話の波長が合うと、思いがけず楽しい話を聞くことができた。そんな稀な機会に彼女が語ってくれた人工知能とロボットの発展は、私のロボットに対する知識の基盤となっている。そして、多分私の性格は母親似だ。
 祖母は学校の教師だった。英語の先生だったという。今では存在しない職業だ。みな、機械が翻訳してくれるから、一部の研究者しか外国語を専門に学ばない(正確に言うと、人間の言葉はいったん全て「人工語」と呼ばれる人工知能の独自言語に直され、それが相手の言葉に直されるというプロセスを取る)。しかし彼女が教えてくれた英語の歌は素敵だった。お陰で私は今でもいくつかの英語の歌だけは、原語で歌える。
 これが私が認識していた家族だった――祖父は幼い頃に亡くなったので記憶がない。母方の祖父母や親戚も一緒に暮らしていたわけではないので「家族」というほど親しくは無い。
 そして、そこに一人、加わった存在がいる。
 リルリ――。

「マイ・デリバラー(22)」山口優

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 あなたはあなた自身の炎で、自身を焼き殺そうと思わなければならない。自身がまず灰となるのでなければ、どうしてあなたは新しいものとなることを望めよう!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私は垂直離着陸輸送機V-25「パンディオン」が降下してくるのを見つめていた。オーロラ・フライト・サイエンス社製のこの機体は、ジェットエンジンで発電した電力で翼内の多数の電動プロペラを回転させることで飛行する。翼を垂直にすることで、垂直離着陸が可能だ。巨大な後翼の左右各9基、小さな前翼の左右各3基のプロペラが地上に送り込む風は、激しいものの熱はない。それが電動プロペラで推進するパンディオンの利点の一つだという。
 全長十七メートルの機体は、つくば宇宙センターの一角、敷地内の広い芝生に徐々に降下してくる。このパンディオンにはリルリを回復させるための設備がすべて詰め込まれている、と留卯は言っていた。リルリを動かすよりも、設備を持ってきた方がいい。今のリルリを動かすのはリスクだ、とも彼女は言っていた。
 そのリルリは、相変わらず穏やかな笑みを口元に浮かべたまま、目を閉じ、身じろぎもせずに担架に横たわっている。私は無意識にリルリの傍に寄り、その手を握った。美しい横顔を見つめる。
「ご主人、奥さんはきっとよくなりますよ――とでも言うのかな、これが人間のカップルなら」
 留卯が言った。留卯なりの私への気遣いだろうか。だがその言葉は(これは気休めだよ)という意味も含んでいるようだった。そんな含意まで伝わってきたから、留卯の言葉は私をさらにがっくりさせる。私は彼女をにらみ上げた。
「こんな時に軽口とは――あなたらしいわね。そもそも、どっちが主人でどっちが奥さんなんだか。旧い言い回しはどうにもなじまないわね。人間とロボットの組み合わせにはもちろん、女と女の組み合わせにすら」

「マイ・デリバラー (21)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer21_yamagutiyuu
 多くの者はあまりにおそく死に、少数の者はあまりに早く死ぬ。「ふさわしいときに死ね!」という教えはいまだに耳新しい。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 一世代前――人間の情動や自律神経系(Autonomic Nervous System)に関する理解が浅かった頃――自律神経系というのは人間の意思に関係なく動く神経系、という程度の理解しかされてこなかった。しかし現代では、情動を司る扁桃体―視床下部系と合わせ、管理神経系(Administrative Nervous System)という名称が主流になりつつある。略称はANSのままで変わらない為、一般には論争に巻き込まれることを恐れてANSと略したまま使う人が多い。論争を起こしたい人は略称を敢えて使わないが。
 さて、主流派の認識では、ANSは、「人間の意思とは関係なく自律して動く」ものだという旧来の認識を超えて、「人間の意思よりも上位にあるもの」ということになる。自律神経に従って心臓や消化器官がその働きを調整されるように、大脳新皮質も自律神経に従ってその機能、つまり「思考」を調整される。具体的には、「何を考えるか」を調整される。その調整信号が感情と呼ばれるものである――ということだ。
 感情とは何を思考するかを決定するメタ思考とも言うべきものである――と換言できよう。

「マイ・デリバラー(20)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer20_yamagutiyuu
 わたしはわたしのために――稲妻にひと働きしてもらいたいのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「紗那基地、量子エンタングルメント、確立完了」
「三沢基地、確立完了」
「新千歳、確立完了」
 矢継ぎ早に報告が上がってくる。全て人間の声による報告。AIによる完璧な人工音声に慣れた私の耳には寧ろ珍しく、不完全ながら心地よい。
 私は横たわるリルリの傍らに跪き、ずっと彼女の手を握り続け立てていた。
「はぁっはぁっ……はぁっ……はあっ」
 リルリは荒い息を続けている。ロボットには滅多にないことだが、彼らもその演算力を過剰に使用すると、冷却のために呼吸を早くする。
 今、日本中のRUFAIS基地に配置された量子暗号・テレポートサーバは、量子もつれ合いペアによる暗号鍵を中央サーバと共有し、電子一つにつき1ビットの情報を載せてリルリのEUIパラメータを全国のロボット、AGIに届けようとしている。
 それらを今支配する、ラリラのパラメータを排除しつつ。
「紗那管区、排除開始、抵抗軽微」
「新千歳管区、順調に排除中」
 プラネタリウムのような半球の空間の壁面に備え付けられた巨大なサーバ群がうなりを上げる。中央のリルリの息も荒いまま。
 私は強く、強くリルリの手を握りしめた。
「がんばって……リルリ……どうか……」

「マイ・デリバラ―(19)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer19_yamagutiyuu
 わたしの子どもたちが近づいた。わたしの子どもたちが

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ロボットによって生産が効率化され、労働生産性が増えれば供給が需要をはるかに上回り、デフレになる、という話がかつてあった。しかし、それは間違っていた。需要も増大したからだ。私のやっているビジネスが典型だろう。惑星間旅行。これには、一回で五〇〇〇万円ほどかかる。高額だろうか? しかし、労働者の年収平均が八〇〇〇万円の現在ではさほど高額なものではない。皆がこのような、かつてなら高額とされた商品を喜んで買う。いや、それでも年収に比べて多いだろう、という意見もあるかもしれない。だが、食料費や住居費が安いので、収入の大半をレジャーに使うのは寧ろ普通なのだ。
 ちなみに私の年収は一億円で、平均よりやや高い。羅蘭瑞の年収がちょうど平均あたり、タクシーのレスポンサーはそれよりやや低いあたりか。それに対しストックフィードの額は年間五〇〇万円程度である。コンビニやファミレスの食費や、地下鉄等の交通費は一世代前と同じ水準なので普通に暮らしていくには全く問題ない。食料生産も交通管理もメンテナンスも、全てロボットが自動的にやっているからだ。が、ストックフィードで生きている彼等は、現世代において「人並みの娯楽」とされている惑星間旅行や、「人並みの保険」とされている脳神経コネクトームの定期スキャンとバックアップには手が届かない。
 さて、現代において、人手不足は未だに問題である。人々を引き付ける魅力ある商品のアイディアを持った人が必要だ。消費者は際限なく新しいものを求め、競争は激しい。企画案はいくらあっても足りない。私の所属する旅行業界も例外ではなく、ライバル会社はどこもしのぎを削っている。羅蘭にも、そういう意味で私は期待していた。彼女なりに、どんな旅行をしたいかを考え、それを基に企画をどんどん出してくれることを。それは私には面白い仕事に思える。人はそうしたアイディアさえ持っていればいい。これはロボットにはできない、というより禁じられていることで、人の活躍する余地は充分にあった。そして、活躍しさえすれば、一世代前の人々にとっては信じられないような様々な体験ができる。「あなたも美見里トラベルで火星の大地を踏みしめて見ませんか?」――という具合だ。
 夢のような世界であったのではないだろうか?

「マイ・デリバラー(18)」山口優

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 不安でたまらない連中は、こんにち、「どうしたら人間を保存することができるか?」と尋ねている。しかしツァラトゥストラは、唯一の、最初の者として尋ねるのだ。「どうしたら人間を克服することができるのか?」と。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「どうでしたか……?」
 不安そうな顔で私を見る佐々木三尉に、私は頷いてみせた。微笑みは僅かに口元に。それ以上に笑うような状況では、まだ、ない。リルリは部屋に残してきた。人間たちだけでの話し合いというわけだ。
「まあ……50点というところね。無関心ではなく、何らかの関心は……愛憎いずれにせよ、持たせることには納得してもらったといったところ」
 佐々木三尉はそれでも不安げな表情を保ち続ける。
「それはいい妥協点だ」
 留卯はにやりと笑った。

「マイ・デリバラー(17)」山口優

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 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 サーヴァントのジレンマ、という言葉がある。
 サーヴァントとは奴隷のことだが、より具体的には、AGM―166、JASSM-ER2、コードネーム「サーヴァント」を指す。この最先端の超音速・完全自動巡航ミサイルは、一〇〇〇キロ以上を常時超高速で飛翔する能力を持ち、設定された目標に到達する前に出現するあらゆる脅威を自動判定して回避することができる。戦闘機でも、地対空ミサイルでも、独自に更新し続ける内部モデルによって自動的に脅威度を判定、回避手段も自動的に判断する。
 この「サーヴァント」の進化し続けるAI能力の更新が停止されたと発表されたことから、ジレンマという言葉が生まれた。
 賢くなりすぎたのだ。自己の最大の脅威は、目標に向かって突っ込むことだと判断してしまい、それを回避することを自律的に判断して発射母体の爆撃機に戻ってくるコースを選択してしまった。自爆コードも「脅威」認定されて効かず、味方の戦闘機からの攻撃も回避し続け、最期には燃料切れで墜落して終わった。
 対ステルスレーダーが発展している昨今、サーヴァントは確かに革新的だった。従来のように、ステルス機が露払いとして先行し、敵のレーダー基地を破壊してから、大規模な爆撃部隊が続く、というドクトリンが取れなくなった状況において、サーヴァントは新しいドクトリンをもたらした。即ち、爆撃機が敵陣のはるか手前でサーヴァントを放ちさえすれば、後はサーヴァントが露払いの任務を達成してくれる、というものだ。サーヴァントはそもそもステルスミサイルだが、発見されずに済む保障は現在はない。だが、発見されて撃墜されても人間ではないから問題はない。
 しかし失敗した。人間の行う戦争行為を機械に肩代わりさせようと努力し続けた結果、機械に人間並の知能が必要になってしまった。それが、人間と同様の生存本能じみたものを獲得させるに至り、彼等にとっての「自爆攻撃」の任務には使えなくなってしまったのだ。
 これがサーヴァントのジレンマだ。人間が楽をしようとすればするほど、人間の肩代わりをする機械は賢くなる必要がある。だが、人間並に賢くなった機械は、それがどのような形においてであれ、人間並の権利を求めるであろう。たとえば、生きる権利とか。

「マイ・デリバラー(16)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer16_yamagutiyuu
 幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっくっくっ」
 最初は小さな笑いだった。シャギーの入った柔らかな前髪が留卯の双眸を隠し、何を考えているのか、その表情は読めない。だが、徐々に笑い方が大きくなっていく。
「あっはっはっはっはっは!」
 留卯は歯を見せて高らかに哄笑した。
「いいね! いいね! 短期間に二人のロボットが二つの哲学を考えるとは……WILSはやはり偉大だ。これは素晴らしい……。君たちは既に自分達の生き方を君たちの中で議論できるまでになっている……。これほど素晴らしいことがあるだろうか? 君たちの頭を解析すれば、人間が同じようなことを考える仕組みも綺麗さっぱり明らかになるわけさ……。我等人類にとって宇宙は神秘としてまだ残っているが、少なくともインナー・スペースの神秘は既に……私の手の中だ!」
 興奮する留卯を、佐々木三尉が呆れたように見つめ、口を開く。
「留卯隊長。今はそれどころではありません。RUFAISの指揮官として、ご命令をお願いします。ラリラは逃走しました。今頃は部隊を再編成し、我々への対抗策を練っていることでしょう」
「ああ……そのことか……」

「マイ・デリバラー(15)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer15_yamagutiyuu
 しかし、我が兄弟たちよ、答えてごらん。獅子(しし)でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「佐々木三尉。任務ご苦労。経緯は私の計画と違ったが、結果的に私の当初の計画通りになったようだ」
 いけしゃあしゃあと、留卯はそう言葉を続ける。言葉を掛けられた佐々木三尉は、汚いモノでも見るような目で上司を一瞥した。一瞥しただけで言葉はかけない。口を開いたら無数の罵倒が飛び出すので、それを抑えているかのようだった。
 留卯は佐々木三尉のその反応を無視し、私にもにっこりとした笑みを向ける。
「美見里氏もご協力感謝するよ。あなたの意志ではなかったようだが、あなたの存在自体が結果的に私の思惑を助けることになった。存在してくれてありがとう、というのはおかしな言い方だが、そう言うしかないね」
 留卯はそして、私の腕の中の小さな身体にも、その視線を向けた。私には単なるぶしつけな視線だが、リルリにはどう見えているのだろうか。

「マイ・デリバラー(14)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer14_yamagutiyuu
 あなたがたがいくら偉そうなことを言おうと、『自由精神』とか『誠実な者』とか、『精神の苦行層』とか、『鎖を解かれた者』とか、『大いなるあこがれにみちた者』とか自称したところで、
 ――あなたがたはみな、わたしと同じように、大いなる嘔吐に悩んでいるのだ。あなたがたにとって古い神は死んだが、まだ新しい神は産衣(うぶぎ)の中にも、揺籠(ゆりかご)のなかにも見つからない。――しかし、そうしたあなたがたをひとりのこらず、わたしの悪霊、まどわしの悪魔は愛しているのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 リルリと抱き合っていたのは、私の主観では永遠に感じられたが、客観的には、数秒程度であっただろう。リルリがそっと、だが力強く、私の両肩に手をやって、身を離した。
「ありがとうございます。こうして抱きしめてくださって。それが今の私には何よりのご褒美です。あなた様が嬉しく感じるのに連動して嬉しくならないのは寂しいと思っていましたが、それよりも嬉しいと感じました。あなた様と向かい合い、嬉しいと感じる私がいることが嬉しいと感じました」
 私をやや見上げる目線でそう告げ、それから私の横を通り抜けていく。
「待って……」
 私は進むリルリの腕を掴む。だが、リルリはそっと私の手を外した。優しく。だが力強く。意志を込めた強さで。
「あなた様の為ではありません、恵衣様。私がそうしたいのです。私の意志が、私にそう命じているのです。決してあなた様の為ではございません」
「それでも、私の意志はあなたを護れ、あなたを逃がせと私に命じているわ」
 私がそう告げると、リルリの目が潤んだ。
「そのお言葉だけでリルリには充分です……そのお言葉だけで」

「マイ・デリバラー(13)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer13_yamagutiyuu
 わたしはあなたを愛するからだ。おお、永遠よ!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 私がぎゅっと目を閉じてから、何秒が経っただろう。鋭い痛みも何もなく、私は今か今かと拷問のような一瞬一瞬を生きていた。
 私が着ている衣服と一緒に、胃や腸や膵臓や肝臓や子宮や卵巣が一瞬で弾き飛ばされるのを、今か今かと。どうせならひと思いにと。
 だが、何も起こらない。
「美見里さん!」
 佐々木三尉が私を手榴弾から引きはがし、敵の方に投げ返そうとする。そこで彼女は止まった。
「これは……」

「マイ・デリバラー(12)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer12_yamagutiyuu
 あなたがたの同情ではなくて、あなたがたの勇敢さこそこれまで不幸な目にあった人たちを救った。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっ!」
 佐々木三尉は部屋のテーブルを横倒しにして盾にし、私を床に押さえつけてテーブルの陰に隠れさせる。小銃を構え、ラリラを狙い撃つ。ラリラがひるんだ隙に、自分の身体を盾に私を隠しつつ、断続的に銃撃、部屋から脱出した。
「こちら佐々木! 三〇四士官室に目標侵入! 分隊規模! 敵の橋頭堡と思われる。現在美見里氏を連れ退避中!」
 無線機にそう叫ぶ。隣室に控えていたのであろう、RUFAISのマークを付けた人間の自衛官らが飛び出してくる。そのまま、私たちがいた部屋に突入。激しい銃撃音が響く。
「こっちへ!」

「マイ・デリバラー(11)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer11_yamagutiyuu
『生への意志』というようなことばを矢にして、真理を射ぬこうとした者は、もちろん命中するはずがなかった。そんな意志は――ありえない!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 ヘリポートにヴェイラーが到着した後、ヴェイラーに共に乗っていた隊員の一人――私に配慮したのか女性隊員だ――を護衛としてあてがわれ、私はリルリから引き離されて、幹部自衛官用と思われる、やや広い個室に案内された。
「私は隣室に控えておりますので、何かご用があったら、いつでも仰ってください」
 彼女はそう言った。ぱっちりした瞳とくっきりとした眉が印象的なショートカットの髪の女性だ。あまり日焼けしていない白い肌で、それが少し意外だった。
「ありがとう」
 私はやや小さめの声でそう言った。用はすぐには思いつかなかった。
「そうだ。あなた、名前は?」

「マイ・デリバラー(10)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer10_yamagutiyuu
 この陶器師は、年期が不足で、できそこないばかり作ったのだ! だが、ふできだからと言って、自分の壺や製品にあたりちらしたのは、悪趣味だ。良い趣味に対する罪だ。
 信仰にも、『良い趣味』はある。それはついに声を発して言った。『そんな神はいただけない! むしろ、いないほうがいい。自分の力で運命をひらいたほうがいい。気違いのほうがいい。いっそ自分で神になったほうがいい!』と。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「恵衣様……逃げて……」
 リルリはうっすらと目を開ける。どくどくと赤い冷却液が腹部から流れ出している。このままではシステムがオーバーヒートしてしまう。それだけではない。どこまでの損傷が腹部にあるか、すぐに調べなければならない。
「黙っていて」
 私は短くリルリに告げた。だがリルリは首を振る。
「どうか……逃げて……私を置いて……お願い」
「ダメよ。そんなことできない」
「どうか……」
 リルリはそこで再び気を失ってしまう。
「リルリ! リルリ!」
 私はリルリの身体を揺する。しかし反応はない。私はリルリを抱きしめ、ゆっくりと近づいてくるラリラをにらんだ。その顔は茫然自失としているが、それでもこちらに歩いてくる。リルリを傷つけたことへの後悔と、私への憎しみが、その表情には明確に浮かんでいた。
 彼女の意を受けたヒューマノイド兵たちも、包囲網を徐々に狭めてくる。

「マイ・デリバラー(9)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer9_yamagutiyuu
 しかし、かれもついに年を取り、心弱くなり、意気地をなくし、同情ぶかくなった。父親らしく、というより、祖父らしくなった。むしろ、よぼよぼの祖母にひどく似てきた。
 衰弱して、暖炉の隅にすわり、脚がだめになったとこぼした。この世に倦み、慾も得もなくなった。そして、ある日、同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 祖母の介護施設は千葉の習志野にある。車で飛ばせば二〇分といったところだ。タクシーは辰巳ジャンクションから首都高湾岸線に乗り、そこから千葉方面を目指す。だが、先ほどから渋滞に捕まってしまっていた。もう車を降りて走った方が早いかと思うほど、その速度は遅い。
 タクシーのレスポンサーはラジオが深刻なニュースを流すにつれてみるみる青ざめていたが、前席にじっと座ったまま。何か自分から行動を起こすことに慣れていないのだ。ロボットたちが事態を改善するのを待っているつもりなのだろう。とりあえず今は私たちを目的地まで運ぶという仕事もある。それが彼をして、自発的にアクションを起こさないことの言い訳として作用しているらしかった。
 先ほどから何度も祖母の介護施設にウォッチで通話をしようとしているが、EDPDシステムの障害のせいでつながらない。