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「皐月の武者」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 璃穏(りお)は兄の顔を知らない。
 桃玻(とうは)は彼女が生まれる二年前にこの世を去った、と母に聞かされた。この世を去る、という言い回しを当時は理解できなかった。母は教えてくれた。あなたのお兄様は神様に愛された特別な子なの。神様はあの子を傍に置きたくなって、連れて行ったのよ。もう帰ってこないの、と尋ねた璃穏に、母は優しく言った。
「今でも、ここにいるわ。あなたにも会わせてあげる」
 その人形は白い覆いを外され、床の間に置かれた。
 赤地に金が施された煌びやかな鎧兜に身を包んだ武者。幼いが凛々しさを感じさせる面差しに、璃穏は息を呑む。
「これが、お兄様?」
「ええ、桃玻よ」
「でも、人形でしょ?」
 璃穏の屈託ない問いに、母は少し苛立たしげに首を振って、
「……人形ではないの。依り代」
「よりしろ?」

「イエローウォール」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「もう一度、確認しておく」
 出発前に秀精が皆に告げた。
「俺たちの糧食と水は往復十日分しかない。だから五日間歩いて水も食料も補給できないようなら、そのまま引き返す。しかしその間に他の人間が住む場所に着くかもしれない。そのときは先方と交渉して滞在させてもらう」
「五日間歩いて誰とも行き会わなかったら、この旅は無意味ってことですか」
 問いかけたのは泰覧(たいらん)だった。越境隊員の中で一番体格がよく、力仕事を進んで引き受けている。
「無意味ではない。俺たちがこの旅で見聞きして集めた情報は、誰も知らないことだ。限られた小さな領地で生まれ、外に何があるかも知らずに死ぬしかなかった俺たちが、外にも世界があることを知り、それを持ち帰って故郷に広める。これには大きな意義がある」
「でも、戻ったらすぐに捕まっちゃうわ」

「兎の跳躍」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 一瞬の閃光に視力を奪われそうになり、竹田光平は思わず眼を閉じた。その間に、すべてが終わっていた。
「やったぞ!」
 武秀教授の声にやっと眼を開くと、強化ガラス製のドームの中を注視した。そこには何も存在していなかった。
 視線を左へ移す。三メートル離れた位置に置かれた同じ形のドーム内に、白いものがうごめいていた。
「……すごい」
 光平は思わずドームに駆け寄った。白いもの――一匹の兎が不安げにドームの内側を嗅ぎまわっていた。
「成功ですね」
「いや、まだわからない。兎をレントゲン撮影とCTスキャンにかけて内部まで正確に移動しているか確認しないうちには」
 さすがに教授は慎重だったが、それでも表情は晴れやかだった。
「だが、見たところ元気なようだ。前足と後ろ足が入れ代わったりもしていない。“teleportation”は成功したと見なしてもいいだろう」
 teleportation――瞬間移動。ついに人類の夢がひとつ叶えられた。光平は歴史的瞬間に立ち会えたことに昂奮していた。

「卯月の花瓣」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 寝間着を畳んでいるとき、はらり、と何かが畳に落ちた。
 咲良(さくら)は小指の先ほどのそれを拾い上げる。薄く柔らかく、淡い桃色に染まっていた。
 花びら。
 どうしてそう思ったのかわからない。だが彼女の脳裏に、その言葉が浮かんだ。
 でも、と咲良は窓の外に眼を移す。このような色でこのような形の花は見たことがない。どこかで体か髪に付いたものだろうか。しかし寝間着のまま外には出ていないし、昨夜は髪も洗った。どこからか持ち込んだというのも考えにくかった。
 手許の屑籠に入れようとして、ふと思いとどまり、合財袋を開いて中の懐紙に挟んでおいた。

「ブラウンノート」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 初めての野営は小高い丘の上だった。川を渡ったときに濡れた衣服を焚き火で乾かしつつ暖を取る。携行食で食事を済ませ、もう寝袋に潜り込んでいる者もいた。
 真馬は岩の上に腰を下ろし、空を見上げていた。星の位置も闇の色も今まで町で見てきたものと何ら変わるはずがないのに、どこか違って見える。自分が今、本当はいるはずのない場所にいるからだろうか。
 視線を下ろし、仲間たちを数える。出発したときは十二名。しかし今は八名に減っている。みんな“蜘蛛”に捕らえられた。今頃は警察で取り調べを受けているだろう。
 英何も、ここにはいない。白い網に捕らえられ空中に引き上げられる彼の姿を、恐怖に引きつったその顔を思い出し、真馬は眼をきつく閉じた。

「虎の記憶」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 最初に意識にのぼったのは、胸元を覆う重さと温かさだった。次にムッとするような臭い。これに似たものを幼い頃、どこかで嗅いだ覚えがある。須永三雄はまだはっきりとしない意識の中で記憶をまさぐった。
 そうだ。幼稚園の遠足だ。はじめて動物園に行った。絵本で見るより動物たちはずっと大きくて、彼らが閉じ込められている檻からは独特な臭いがした。一緒に行ったお調子者が臭いくさいと大騒ぎをしたっけ。あれは誰だったか。
 ぼんやりとそんなことを思いながら眼を開いた。胸元にあるものを視界の隅に捉える。猫の前足だった。くすんだオレンジ色の毛に覆われている。実家で飼っていた猫は黒だったが……いや、猫の手はこんなに大きくはない。これはまるで……。
 思わず体を起こそうとする。が、胸の上にある前足は思った以上に重く、身動きがとれない。須永は首を動かし、自分の周囲を見回した。前足に繋がる二の腕には黒い筋があった。反対側に首を転じると、頭部が視界に入る。オレンジと黒と白の縞模様。長い髭。
 その刹那、彼は理解した。虎だ。自分は今、虎に抱きしめられている。

「弥生の供養」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「宮司殿、荷が届きました」
 錬燕(れんえん)に声をかけられ、周桑(しゅうそう)はゆるゆると眼を開いた。どうやら座ったままうたた寝をしていたらしい。
「ん……ああ」
 返事とも欠伸ともとれない声を洩らし、かすかに伸びをする。そしてあらためて目の前にある祭壇に眼をやった。柴を編んで祭壇としている粗末なものだ。しかしこれが、この地域ではもっとも神聖なものだった。
 彼が宮司を務める幾仁(いくに)社は近辺でも最も古い神社だった。先祖がこの惑星に辿り着き、最初にこの地に立ったとき土地の神が現れて、自身を祀ることを条件に住むことを許したという。その神がどのような姿をしていたのか、実際に見た者はもうこの世にはいない。神の姿を象ったとされる像は神体として祭壇奥の神棚に納められ、宮司でさえそれを見ることは叶わなかった。初代宮司である周桑の曾祖父が固く禁じたのだ。
 ふっ、と侮蔑まじりの息をつき、周桑は立ち上がる。が、足が痺れて歩きだすこともできない。
「どこに置いた?」
 足の感覚が戻るまでの時間稼ぎに尋ねる。
「奥座敷に。衛辰(えいたつ)様が直々にご持参なさいました」

「レッドライン」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 風は西から吹いてきた。
 香りもなく色もない、冷たく乾いた風だった。それは見知らぬ土地を通りすぎて、草と葉を揺らした。
「おい、真馬(しんま)」
 声をかけられ、真馬は振り向いた。英何(えいなん)だった。
「何を考えていた」
「何も」
「怖じ気づいたんじゃないだろうな」
「まさか。おまえこそ後悔してないか」
「するもんか。早く行きたくてしかたないくらいだ。出発はまだか」
「焦るな。指示を待とう」
 一行は森の外れにある繁みの中に身を隠していた。斥候の帰りを待っているところだ。まだ夜明け前で、あたりは暗い。

「牛殺し」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 名刺に記されていた名前を読んで、光田博夫は困惑した。
「牛殺しのマリス……ですか」
「はい」
 男は頷く。
「確認しますが、あなたの名前が『牛殺しのマリス』なんですか」
「そのとおりです」
 至極当然といった顔付きで、男は答えた。
 三十歳過ぎ、もしくは四十歳くらいかもしれない。小柄で痩せていた。見るからに非力そうだ。度の強い眼鏡を掛け、いささか古びた灰色の背広を着ている。あまり大きくもない会社の事務仕事に携わっている、といった雰囲気の男性だった。到底「牛殺し」などという物騒な名前は似つかわしくない。そしてもちろん、マリスなどという名前とは縁のなさそうな日本人顔をしている。
 博夫は警戒した。この男、変だ。

「如月の小紋」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 二月、晴れた日が数日続いた朝、頼乎(よりこ)の母は箪笥から畳紙(たとうがみ)に包まれた着物を取り出す。衣桁に掛けて虫干しをするためだった。
 頼乎は、この日が好きだった。滅多に見られない着物を眼にすることができるからだ。虫干しは換気のために窓を開け放つのでとても寒いのだが、彼女は気にすることなく部屋に居座り、着物の前で長い時間を過ごす。
 楝色(おうちいろ)の江戸小紋、と聞かされている。それがどういう意味なのか、頼乎は知らない。少し青みがかった紫色の布地は一見すると無地なのだが、眼を近付けてみると細かな波のような模様が描かれている。
「こんなに立派な着物があるのは、うちだけよ。これはあなたのお祖母さんのお祖母さんが遺してくれたものなの」

「パープルキー」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 本当に行けるのか。
 真馬の頭に最初に浮かんだ言葉が、それだった。
 本当に“外”に出ることができるのか。
 ならば……。
 その先に続く言葉を発するのには、勇気が要った。
 最初は噂に過ぎなかった。
 ――“外”に出ようとしている者たちがいる。彼らは仲間を集めている。
 じつのところ、こうした噂はこれまでも何度か伝わってきた。嘘か本当か、実際に出ようとして、途中で警備士に捕獲されてしまった者も何人かいると聞いた。しかしそれは散発的なもので、実行者もただのお調子者か粋がっている連中でしかなかった。
 今度も似たようなものだろう、と真馬は思っていた。それでも噂の出所を探らないではいられなかった。
 もしも、もしも本当に“外”に出ようとしている者たちがいるのなら。

「鼠の媚薬」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「西東君、“彼”は見つかったかね?」
 鶴間博士に問いかけられたとき、西東時夫は背筋に汗が流れるのを感じた。
「いえ……まだ……」
「そうか。ひょっとしたらもう研究室から逃げてしまったかもしれないね」
 博士は眉間に皺を寄せた。機嫌はよくないようだ。
「もう一度確認しておくが、おかしなウイルスに感染していたとか、そういう危険性はないのだね?」
「はい、それは問題ありません」
「ならば、致し方ないな。サンプルは他にもいるんだし、実験は一からやり直しするしかないだろう」
「すみません……」
「以後、気を付けてくれよ」
 博士が出ていった後、時夫は大きな息をついた。
 とりあえず取り繕うことはできた。しかし、いつまでもこのままにはしておけなかった。
 部屋の隅、薬品棚の後ろを覗き込み、声をかけた。
「おいアル、いるか」
 呼びかけに応じて、白く小さな生き物が顔を出した。
「うまくごまかしてくれたか」

「睦月の家長」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 元旦とは一月一日の朝のことである。高橋躯庵(くあん)は父親にそう教えられた。
 彼にとって父親は、すべての規範だった。この星に住む人間としてするべきこと、日本人として守るべき掟について、父親は厳しく、しかし愛情を持って躯庵に教えた。
 元旦にするべきことも、教えてもらった。朝、東の稜線から昇ってくる「初日の出」に向かって手を合わせるのだ。
 そのためには夜が明けないうちから起き出し、家を出て小塚丘(こづかおか)に登らなければならない。
 前日の大晦日は日付が変わるまで起きていて、新しい年がやってくるのを迎えた。だから睡眠時間は足りていない。妻も息子も夜明け前に起きることを嫌がったが、躯庵は有無を言わせなかった。しきたりに従うことが何よりも重要なのだと信じていたからだ。

「銀紙飛行船の旅」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 満月は今夜。
 モトキは準備を整えていた。今日は眠いからと両親に言って早めに自分の部屋に引き籠もり、すぐにパジャマを着替えた。隠しておいたリュックには水筒とスニーカーとスケッチブック。もちろんクレヨンも入っている。
 モトキの部屋は二階にある。窓を開けベランダに出ると、手摺りがうっすらと青い光に濡れていた。
 顔を上げると、まんまるな月が地上に光を注いでいる。四月の夜風は、まだ寒かった。
 空を見上げたまま、モトキは待つ。
 本当に来るだろうか。約束、守ってくれるだろうか。
 不安と期待がない交ぜになった気持ちで五分、十五分、そして一時間。実際は数分だったかもしれない。でもモトキには長く感じられた。
 やっぱり来ないのか、と少し落胆しかけたとき、それが見えた。

「自白」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 装飾など一切ない、真っ白な部屋だった。その中央に椅子があり、トリカはそこに座らされていた。
「なぜここに呼ばれたか、わかっているね」
 トリカの前に立つ栗原専務が皺だらけの顔をさらに歪めて言った。
「わかりません」
 トリカは明確に答えた。小さな顔には不釣り合いに大きな眼鏡越しに相手を見つめる。
「では教えてあげよう。我々は君の正体を掴んだのだよ。ずばり、君はファルム製薬のスパイだね?」
「いいえ。わたしはスパイではありません」
 彼女の答えは、やはり明確だった。
「嘘をつけ!」

「奇妙なサイン会」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「田野中正円先生サイン会」という立て看板を見かけたとき、私は思わず足を止めた。
 たまたま訪れた片田舎にある小さな本屋だった。田野中正円といえばノーベル文学賞をも遠からず手中にするだろうと言われている大作家ではないか。いやまさか、そんな著名人がこんなところでサイン会を開くとは。
 大いに疑問に思いながらも、私はその本屋に足を踏み入れた。
 どこといって特徴のなさそうな、ありふれた地方の本屋だった。書架に並んでいるのは雑誌か実用書が主体で、文芸書の類は片隅に追いやられている。
 店の奥にカウンターがあり、そこに若い女性がぽつんと座っていた。短くカットした髪に大きな黒縁眼鏡。一見すると高校生、いや、もしかしたら中学生かもしれない。となるとアルバイトか。でも成人という可能性も捨てられなかった。それくらい年齢の識別が難しい顔立ちなのだ。エプロンの胸元に付けられたプレートには「密原」という名前が記されている。
 女性は私が見つめているのにも気付いていない様子で、文庫本に眼を落としている。
 思いきって声をかけた。
「あの……」
 女性は顔を上げた。

「睡眠士トリカ」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 ドアを開けると立っていたのは若い小柄な女性だった。短めにカットした髪に幼さの残る顔、そしていささか滑稽なくらい大きな黒縁の眼鏡。少々大きめに見えるダッフルコートと重そうな革のバッグを提げている。
「はじめまして。睡眠外来の戸田先生から連絡をいただきまして参りました」
 女性は挨拶をすると私の前に名刺を差し出した。
 そこには「睡眠士 密原トリカ」と書かれている。
「睡眠士というのは、睡眠療法か何かをされるのですか」
 私の問いに密原トリカという女性はにっこりと微笑んで、
「よく間違われるんですけど、違います。睡眠療法というのは催眠を用いた精神療法の一種です。でも、そういうのに興味はありませんでしょ?」
「ないわけではないが、今の私にはあまり関係ないね」
「だと思います。わたしは睡眠そのものの治療を行うんです。本当は『睡眠療法士』みたいに名乗りたいんですけど、それだとモロに睡眠療法をする人間みたいに思われちゃうんで」
 屈託のない口調だった。私は彼女を応接室に招き入れた。

「おさげさん」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 放課後、誰にも見つからないように気をつけながら、そっと廊下を歩いていた。なのに見つかった。
「竹内くん、こんな時間にどこへ行くの?」
 びっくりして振り返ると、教生の密原先生が立っていた。
「もうみんな下校したわよ」
「あ……はい、ちょっと忘れ物が……」
 言い訳を考えながら後ずさりする。密原先生は小さな顔に似合わない大きな眼鏡の向こうから英智(ひでとも)の言葉を確かめるように見つめてきた。
「先生こそ、どうしたの?」
 仕返しのつもりで訊いてみた。
「わたし? わたしは昔を懐かしんでたの」
 密原先生は微笑む。
「この学校、わたしのいた頃からずいぶんと変わったなって」
「先生がここの生徒だったの、何年前?」
「もうずっと昔。そんなことより早く帰りなさいね」
 そう言って先生はいなくなった。英智は、ほっと息をつく。どうもあの先生、苦手だな。早く教生が終わればいいのに。
 少し遅れてしまった。慌てて待ち合わせの場所へ向かう。校舎二階の音楽室。入る前に扉を叩くと「いるぞ」と声がした。

「拷問島」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その少女が島唯一の船着場に姿を見せたのは、春まだ浅き三月中旬の午後だった。
 小柄な体にはいささか大きすぎるように感じられる茶色いダッフルコートに、無骨なくらい大きな革鞄。髪は短くカットしていて大きな黒縁眼鏡を掛けていた。
「はじめまして、密原トリカです。しばらくお世話になります」
 出迎えた私に彼女は元気な声で言った。
「ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙な島で若いひとが楽しめるようなところもありませんけど、魚は美味いし宿には温泉もあります。どうぞゆっくりしていってください」
 彼女を案内して私が営んでいる宿屋へと向かった。
「大学では何を勉強されているんですか」
「民俗学です。今は卒論の準備中なんです」
「それでここにいらしたんですか。しかしここに大学で研究するようなものがありましたかねえ」
「ありますとも。わたしがこの島――小紋島に興味を持ったのは、もうひとつの名前を聞いたからです」
「もうひとつの名前というと……」
「拷問島。そう呼ばれてますよね」

「建売館の殺人」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その女性は日曜の昼下がり、私が妻と遅い昼食を終えてコーヒーを楽しんでいるときに我が家のインターフォンを押した。
 女性と言ったが、第一印象はむしろ少女と呼ぶべきものだった。小柄でショートカットの髪。小さな顔には不釣り合いに大きな黒縁眼鏡。身に着けているダッフルコートはいささか大きめだった。そしてそんな愛らしい風貌に似合わない、無骨で大きなバッグを抱えている。
「密原トリカと言います。黒死館大学の建築科に在籍する学生です」
 玄関先で彼女は自己紹介した。はきはきとした物言いだ。なかなか好感が持てる。問題は、彼女のことをまったく知らないことだった。
「どういうご用件ですか」
「わたし、卒論で城之内実朝の研究をすることになりました。それで協力してほしいんです」
「じょうのうち……誰ですか、それ?」
「日本最高、いえ、世界屈指の建築科です」
 トリカと名乗る少女は頬を紅潮させて言った。
「彼が設計した建築物は他に類を見ないユニークなものなんです。なのに今まで誰も彼の作品について研究調査をしていません。わたしが城之内実朝研究のパイオニアとして建築界に名乗りを上げるためにも、そしてもちろん卒論を完成させて大学を無事卒業するためにも、ぜひとも山田さんのお力添えをいただけませんか」
「力添えって……何をすれば?」
「お宅を調べさせてください」
「この家を? どうして?」
「だから、このお宅が城之内実朝の作品なんですよ」
 トリカはじれったそうに言った。
「うちが? だってここ、五年前に買った建売住宅ですよ。そんな立派な建築家に作ってもらったような建物なんかじゃ――」

「書籍秩序」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 十万という破格のバイト代を提示されたとき、気が付けばよかったのだ。世の中そんなに甘くないと。
 だが言い訳するようだが、あのときは他に選択の余地がなかった。仕送りをすべて使い果たし、バイト代が入ってくるのは十日先。それまで飢えをしのぎながら生きていくしかない状況だった。そんな人間が目の前に十枚の一万円札を置かれて冷静でいられるだろうか。いや、無理だ。
 それに叔母の口車も巧かった。
「部屋の片付けを頼みたいだけなの。一部屋だけよ。他には一切、手を着けなくていいから」
 ちょろい仕事だと思った僕を、誰が責められよう。
 しかし今、その部屋を前にして呆然としている自分がいる。

「十二宮小品集10 山羊を討つ」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 駅の構内で靴磨きをしていた弟が線路内で侵入してきた山羊の群れに圧殺されたと聞かされたのは、私のオリンピック出場の夢が断たれた日の午後だった。
 まずは私自身のことについて話そう。最初にナフガという競技を知ったのは小学校四年のときだった。体育の時間にナフガの選手が学校を訪れてルールのレクチュアをしてくれたのだ。
 この話をすると大概の人間は首を傾げる。ナフガのように複雑なルールを持った、しかも強い筋力を必要とする競技を小学生に教えるというのは無茶ではないかと。その意見には同意しよう。私も初めてナフガを見せられたときには正直なところ、彼らが何をしているのかわからなかった。一見無意味ともいえる動きや、競技用に改良されたとはいえ充分に殺傷力を持っているように見えるナフガンを振り回す仕種など、子供にはなかなか理解しがたいものだった。後に聞いた話ではクラス担任教師とナフガ選手が幼馴染みで、その縁から私たちのクラスのみ特別に教えられたようだ。

「十二宮小品集12 呑舟の魚」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 案内された漁場は、生臭い風が吹く真っ暗な海だった。
「ここで本当に釣れるんですか」
 思わずそう訊いてしまった。
「釣れますよ」
 案内人の笑みが、釣り舟に吊るしたアセチレン灯のオレンジ色の光に浮かぶ。
「ここは本当の穴場です。たくさん釣れます」

「十二宮小品集11 水瓶の中のカエル」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 小学生の頃、夏休みになるといつも虎尾のおじいちゃんの家に泊まりに行った。
 虎尾のおじいちゃんは母の父親だ。虎尾というのが住んでいる町の名前で、僕の家からは電車で二時間くらいのところにある。山があって田んぼがあって川がある。絵に描いたような田舎だった。
 僕がおじいちゃんのところに行っている間、父親と母親が何をしているのか僕は知らない。なんとなく知らないほうがいいような気がしていた。だから正直おじいちゃんの家にいることが楽しいわけではないのに、文句も言わずに毎年泊まっていた。
 おじいちゃんは僕を歓迎してくれていたと思う。おばあちゃんは僕が生まれる前に死んだので、ずっとおじいちゃんは独り暮らしをしていた。家の近くに田んぼと畑があって、そこで米とか野菜とかを育てて暮らしていた。僕が泊まっている間も朝早くから仕事をしていた。僕はおじいちゃんの家でひとり、ぼんやりと過ごしていた。

「十二宮小品集8 蠍館の女」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「全世界で千五百種以上のサソリが生息していると聞きましたが、本当ですか」
 私の問いに、駿河教授は形のいい唇を緩めた。
「ええ、熱帯から亜熱帯にかけて、それくらいの種類のサソリがいます。ここに集められているのは、そのほんの一部、三十種類くらいです。口さがないひとたちは、この研究室のことを蠍館などと呼んでいますけど」
 いくつかの水槽が並んだ部屋に、私たちはいた。砂を敷かれたその中にいるのは、針の付いた尾を振り立てた黒や褐色の虫たちだ。
「なぜサソリが毒を持っているのか、ご存じですか。彼らが暮らしているのは、多くは砂漠などの過酷な環境です。当然、餌を得る機会も少ない。だから獲物に遭遇したら確実に仕留めなければならないのです」
「そのために即効性のある強力な毒を手に入れた、ということですか」
「そうです。毒は彼らが生き残るために必要な武器でした」
「なるほど、面白い話です。ところで、ひとつ伺ってよろしいですか。どうしてサソリの研究を?」

「十二宮小品集7 天秤を観る男」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 冴えない風体の男だった。
 四十歳代半ばくらい。小柄ででっぷりとしている。髪はかなり薄くなっていて頭皮が透けて見える。着ているワイシャツには皺と汗染みが目立ち、黒縁の眼鏡はフレームが少々歪んでいるようだった。眼鏡の奥の瞳には生気が感じられず、艶やかに濡れている唇だけが別の生き物めいていて、逆に違和感を覚えた。
 折り畳み椅子に座っている男の前に、私は立った。
「話を聞こうか」
 男は上目遣いに私を見て、
「私は捜査一課長に会いたいと申し上げたはずですが」
 と言った。

「十二宮小品集9 射手の計画」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 私はよく、機械のように感情のない人間だと言われる。
 その言葉を、私はそれまで称賛の意味に捉えていた。感情などという低次元な衝動に左右されるような卑俗な人間ではないと讃えてくれているのだと思っていた。しかし実際は、そうではないようだ。
 妻がその言葉を放ったとき、明らかに彼女の中に侮蔑の感情があることに気付いた。

「十二宮小品集5 獅子王の憂鬱」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 獅子王は憂えていた。
 幼少の頃から勇壮をもって知られ、長じてからは一度として戦いに破れたことはなく、人を率いれば烏合の衆も規律正しき勇猛果敢な軍隊へと生まれ変わらせる術を持つ。西の敵国や北の蛮族をたちまちのうちに平定し、版図を広げ続けてきた獅子王が、悩んでいたのだ。
 そもそもの起こりは、ひとりの子供だった。
 子供がいたのは、山中の取るに足らない小国だった。戦いと呼べるほどのこともなく征伐できた国だったが、数少ないその国の兵士たちは中心にある祠だけはかなりの抵抗を持って守ろうとした。そこに国の宝でも隠しているのだろうと思われたので、一気に攻め落として祠を開けた。
 そこにひとり、身を潜めていたのが、その子供だ。

「十二宮小品集6 乙女の姿しばし……」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 ドアを開けて店に入ってきた男の顔に、見覚えがあった。一週間ほど前に一度来た客だ。これでも人の顔を記憶することに関しては自信がある。だてに女ひとりで喫茶店を切り盛りしているわけではない。
 三十歳前後、細面で髪が長い。着古してはいるが趣味のいいシャツにジーンズ。肩から一眼レフのカメラを下げている。
 男はわたしの前のカウンター席に腰を下ろすと、少し頼りなげな声で、
「ホットひとつ」
 と注文した。
 昼時の客が一巡して店は暇だった。わたしは豆を挽き、ドリップでゆっくりとコーヒーを淹れた。
 横目で見ると、男は持ってきたカメラを弄っていた。撮った画像をチェックしているようだ。ディスプレイを覗き込み、難しい顔をしている。
 カップに注いだコーヒーを男の前に置く。どうも、と小さく言って男はカップを手に取る。一口すすって、またカメラの画像を見つめる。
「カメラがご趣味なんですか」

「十二宮小品集4 金星蟹の味」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「こんな遠くにまでわざわざきてくれてありがとう」
「いや、こっちこそお招きいただき光栄の至り。民間の身分でここに来るには、まだ申請だけでも一大事だからね。それにしてもずいぶんと開発が進んだものだな」
「それなりに苦労したからね。十年の努力の成果だよ」
「十年で金星をここまでにしたんだから立派なものだ。火星より面倒だったんだろ?」
「まあね。そもそもこの星を本当に地球と同じ環境にしてしまえるなんて、二十一世紀の人間には考えられなかっただろうな。自己進化型テラフォーミング技術の進歩は驚くべきものだよ」
「ああ。それにここ、完全に前世紀の、いや前々世紀の作りだな」
「施設部の中にレトロ趣味の人間がいてね。どうせ慰安施設を作るなら面白いものにしようって言って、こうなった」
「木のカウンターに縄暖簾、赤提灯に二十世紀の音楽か。ライブラリで観た日本のイザカヤそのままだ。こんなの今の地球にもないぞ」
「地球は今、反レトロブームだからな。意味不明な流行だよ。ともあれ、乾杯しよう」
「ああ、久しぶりの再会に乾杯……お?」