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「自白」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 装飾など一切ない、真っ白な部屋だった。その中央に椅子があり、トリカはそこに座らされていた。
「なぜここに呼ばれたか、わかっているね」
 トリカの前に立つ栗原専務が皺だらけの顔をさらに歪めて言った。
「わかりません」
 トリカは明確に答えた。小さな顔には不釣り合いに大きな眼鏡越しに相手を見つめる。
「では教えてあげよう。我々は君の正体を掴んだのだよ。ずばり、君はファルム製薬のスパイだね?」
「いいえ。わたしはスパイではありません」
 彼女の答えは、やはり明確だった。
「嘘をつけ!」

「奇妙なサイン会」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「田野中正円先生サイン会」という立て看板を見かけたとき、私は思わず足を止めた。
 たまたま訪れた片田舎にある小さな本屋だった。田野中正円といえばノーベル文学賞をも遠からず手中にするだろうと言われている大作家ではないか。いやまさか、そんな著名人がこんなところでサイン会を開くとは。
 大いに疑問に思いながらも、私はその本屋に足を踏み入れた。
 どこといって特徴のなさそうな、ありふれた地方の本屋だった。書架に並んでいるのは雑誌か実用書が主体で、文芸書の類は片隅に追いやられている。
 店の奥にカウンターがあり、そこに若い女性がぽつんと座っていた。短くカットした髪に大きな黒縁眼鏡。一見すると高校生、いや、もしかしたら中学生かもしれない。となるとアルバイトか。でも成人という可能性も捨てられなかった。それくらい年齢の識別が難しい顔立ちなのだ。エプロンの胸元に付けられたプレートには「密原」という名前が記されている。
 女性は私が見つめているのにも気付いていない様子で、文庫本に眼を落としている。
 思いきって声をかけた。
「あの……」
 女性は顔を上げた。

「睡眠士トリカ」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 ドアを開けると立っていたのは若い小柄な女性だった。短めにカットした髪に幼さの残る顔、そしていささか滑稽なくらい大きな黒縁の眼鏡。少々大きめに見えるダッフルコートと重そうな革のバッグを提げている。
「はじめまして。睡眠外来の戸田先生から連絡をいただきまして参りました」
 女性は挨拶をすると私の前に名刺を差し出した。
 そこには「睡眠士 密原トリカ」と書かれている。
「睡眠士というのは、睡眠療法か何かをされるのですか」
 私の問いに密原トリカという女性はにっこりと微笑んで、
「よく間違われるんですけど、違います。睡眠療法というのは催眠を用いた精神療法の一種です。でも、そういうのに興味はありませんでしょ?」
「ないわけではないが、今の私にはあまり関係ないね」
「だと思います。わたしは睡眠そのものの治療を行うんです。本当は『睡眠療法士』みたいに名乗りたいんですけど、それだとモロに睡眠療法をする人間みたいに思われちゃうんで」
 屈託のない口調だった。私は彼女を応接室に招き入れた。

「おさげさん」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 放課後、誰にも見つからないように気をつけながら、そっと廊下を歩いていた。なのに見つかった。
「竹内くん、こんな時間にどこへ行くの?」
 びっくりして振り返ると、教生の密原先生が立っていた。
「もうみんな下校したわよ」
「あ……はい、ちょっと忘れ物が……」
 言い訳を考えながら後ずさりする。密原先生は小さな顔に似合わない大きな眼鏡の向こうから英智(ひでとも)の言葉を確かめるように見つめてきた。
「先生こそ、どうしたの?」
 仕返しのつもりで訊いてみた。
「わたし? わたしは昔を懐かしんでたの」
 密原先生は微笑む。
「この学校、わたしのいた頃からずいぶんと変わったなって」
「先生がここの生徒だったの、何年前?」
「もうずっと昔。そんなことより早く帰りなさいね」
 そう言って先生はいなくなった。英智は、ほっと息をつく。どうもあの先生、苦手だな。早く教生が終わればいいのに。
 少し遅れてしまった。慌てて待ち合わせの場所へ向かう。校舎二階の音楽室。入る前に扉を叩くと「いるぞ」と声がした。

「拷問島」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その少女が島唯一の船着場に姿を見せたのは、春まだ浅き三月中旬の午後だった。
 小柄な体にはいささか大きすぎるように感じられる茶色いダッフルコートに、無骨なくらい大きな革鞄。髪は短くカットしていて大きな黒縁眼鏡を掛けていた。
「はじめまして、密原トリカです。しばらくお世話になります」
 出迎えた私に彼女は元気な声で言った。
「ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙な島で若いひとが楽しめるようなところもありませんけど、魚は美味いし宿には温泉もあります。どうぞゆっくりしていってください」
 彼女を案内して私が営んでいる宿屋へと向かった。
「大学では何を勉強されているんですか」
「民俗学です。今は卒論の準備中なんです」
「それでここにいらしたんですか。しかしここに大学で研究するようなものがありましたかねえ」
「ありますとも。わたしがこの島――小紋島に興味を持ったのは、もうひとつの名前を聞いたからです」
「もうひとつの名前というと……」
「拷問島。そう呼ばれてますよね」

「建売館の殺人」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 その女性は日曜の昼下がり、私が妻と遅い昼食を終えてコーヒーを楽しんでいるときに我が家のインターフォンを押した。
 女性と言ったが、第一印象はむしろ少女と呼ぶべきものだった。小柄でショートカットの髪。小さな顔には不釣り合いに大きな黒縁眼鏡。身に着けているダッフルコートはいささか大きめだった。そしてそんな愛らしい風貌に似合わない、無骨で大きなバッグを抱えている。
「密原トリカと言います。黒死館大学の建築科に在籍する学生です」
 玄関先で彼女は自己紹介した。はきはきとした物言いだ。なかなか好感が持てる。問題は、彼女のことをまったく知らないことだった。
「どういうご用件ですか」
「わたし、卒論で城之内実朝の研究をすることになりました。それで協力してほしいんです」
「じょうのうち……誰ですか、それ?」
「日本最高、いえ、世界屈指の建築科です」
 トリカと名乗る少女は頬を紅潮させて言った。
「彼が設計した建築物は他に類を見ないユニークなものなんです。なのに今まで誰も彼の作品について研究調査をしていません。わたしが城之内実朝研究のパイオニアとして建築界に名乗りを上げるためにも、そしてもちろん卒論を完成させて大学を無事卒業するためにも、ぜひとも山田さんのお力添えをいただけませんか」
「力添えって……何をすれば?」
「お宅を調べさせてください」
「この家を? どうして?」
「だから、このお宅が城之内実朝の作品なんですよ」
 トリカはじれったそうに言った。
「うちが? だってここ、五年前に買った建売住宅ですよ。そんな立派な建築家に作ってもらったような建物なんかじゃ――」

「書籍秩序」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 十万という破格のバイト代を提示されたとき、気が付けばよかったのだ。世の中そんなに甘くないと。
 だが言い訳するようだが、あのときは他に選択の余地がなかった。仕送りをすべて使い果たし、バイト代が入ってくるのは十日先。それまで飢えをしのぎながら生きていくしかない状況だった。そんな人間が目の前に十枚の一万円札を置かれて冷静でいられるだろうか。いや、無理だ。
 それに叔母の口車も巧かった。
「部屋の片付けを頼みたいだけなの。一部屋だけよ。他には一切、手を着けなくていいから」
 ちょろい仕事だと思った僕を、誰が責められよう。
 しかし今、その部屋を前にして呆然としている自分がいる。

「十二宮小品集10 山羊を討つ」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 駅の構内で靴磨きをしていた弟が線路内で侵入してきた山羊の群れに圧殺されたと聞かされたのは、私のオリンピック出場の夢が断たれた日の午後だった。
 まずは私自身のことについて話そう。最初にナフガという競技を知ったのは小学校四年のときだった。体育の時間にナフガの選手が学校を訪れてルールのレクチュアをしてくれたのだ。
 この話をすると大概の人間は首を傾げる。ナフガのように複雑なルールを持った、しかも強い筋力を必要とする競技を小学生に教えるというのは無茶ではないかと。その意見には同意しよう。私も初めてナフガを見せられたときには正直なところ、彼らが何をしているのかわからなかった。一見無意味ともいえる動きや、競技用に改良されたとはいえ充分に殺傷力を持っているように見えるナフガンを振り回す仕種など、子供にはなかなか理解しがたいものだった。後に聞いた話ではクラス担任教師とナフガ選手が幼馴染みで、その縁から私たちのクラスのみ特別に教えられたようだ。

「十二宮小品集12 呑舟の魚」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 案内された漁場は、生臭い風が吹く真っ暗な海だった。
「ここで本当に釣れるんですか」
 思わずそう訊いてしまった。
「釣れますよ」
 案内人の笑みが、釣り舟に吊るしたアセチレン灯のオレンジ色の光に浮かぶ。
「ここは本当の穴場です。たくさん釣れます」

「十二宮小品集11 水瓶の中のカエル」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 小学生の頃、夏休みになるといつも虎尾のおじいちゃんの家に泊まりに行った。
 虎尾のおじいちゃんは母の父親だ。虎尾というのが住んでいる町の名前で、僕の家からは電車で二時間くらいのところにある。山があって田んぼがあって川がある。絵に描いたような田舎だった。
 僕がおじいちゃんのところに行っている間、父親と母親が何をしているのか僕は知らない。なんとなく知らないほうがいいような気がしていた。だから正直おじいちゃんの家にいることが楽しいわけではないのに、文句も言わずに毎年泊まっていた。
 おじいちゃんは僕を歓迎してくれていたと思う。おばあちゃんは僕が生まれる前に死んだので、ずっとおじいちゃんは独り暮らしをしていた。家の近くに田んぼと畑があって、そこで米とか野菜とかを育てて暮らしていた。僕が泊まっている間も朝早くから仕事をしていた。僕はおじいちゃんの家でひとり、ぼんやりと過ごしていた。

「十二宮小品集8 蠍館の女」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「全世界で千五百種以上のサソリが生息していると聞きましたが、本当ですか」
 私の問いに、駿河教授は形のいい唇を緩めた。
「ええ、熱帯から亜熱帯にかけて、それくらいの種類のサソリがいます。ここに集められているのは、そのほんの一部、三十種類くらいです。口さがないひとたちは、この研究室のことを蠍館などと呼んでいますけど」
 いくつかの水槽が並んだ部屋に、私たちはいた。砂を敷かれたその中にいるのは、針の付いた尾を振り立てた黒や褐色の虫たちだ。
「なぜサソリが毒を持っているのか、ご存じですか。彼らが暮らしているのは、多くは砂漠などの過酷な環境です。当然、餌を得る機会も少ない。だから獲物に遭遇したら確実に仕留めなければならないのです」
「そのために即効性のある強力な毒を手に入れた、ということですか」
「そうです。毒は彼らが生き残るために必要な武器でした」
「なるほど、面白い話です。ところで、ひとつ伺ってよろしいですか。どうしてサソリの研究を?」

「十二宮小品集7 天秤を観る男」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 冴えない風体の男だった。
 四十歳代半ばくらい。小柄ででっぷりとしている。髪はかなり薄くなっていて頭皮が透けて見える。着ているワイシャツには皺と汗染みが目立ち、黒縁の眼鏡はフレームが少々歪んでいるようだった。眼鏡の奥の瞳には生気が感じられず、艶やかに濡れている唇だけが別の生き物めいていて、逆に違和感を覚えた。
 折り畳み椅子に座っている男の前に、私は立った。
「話を聞こうか」
 男は上目遣いに私を見て、
「私は捜査一課長に会いたいと申し上げたはずですが」
 と言った。

「十二宮小品集9 射手の計画」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 私はよく、機械のように感情のない人間だと言われる。
 その言葉を、私はそれまで称賛の意味に捉えていた。感情などという低次元な衝動に左右されるような卑俗な人間ではないと讃えてくれているのだと思っていた。しかし実際は、そうではないようだ。
 妻がその言葉を放ったとき、明らかに彼女の中に侮蔑の感情があることに気付いた。

「十二宮小品集5 獅子王の憂鬱」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 獅子王は憂えていた。
 幼少の頃から勇壮をもって知られ、長じてからは一度として戦いに破れたことはなく、人を率いれば烏合の衆も規律正しき勇猛果敢な軍隊へと生まれ変わらせる術を持つ。西の敵国や北の蛮族をたちまちのうちに平定し、版図を広げ続けてきた獅子王が、悩んでいたのだ。
 そもそもの起こりは、ひとりの子供だった。
 子供がいたのは、山中の取るに足らない小国だった。戦いと呼べるほどのこともなく征伐できた国だったが、数少ないその国の兵士たちは中心にある祠だけはかなりの抵抗を持って守ろうとした。そこに国の宝でも隠しているのだろうと思われたので、一気に攻め落として祠を開けた。
 そこにひとり、身を潜めていたのが、その子供だ。

「十二宮小品集6 乙女の姿しばし……」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 ドアを開けて店に入ってきた男の顔に、見覚えがあった。一週間ほど前に一度来た客だ。これでも人の顔を記憶することに関しては自信がある。だてに女ひとりで喫茶店を切り盛りしているわけではない。
 三十歳前後、細面で髪が長い。着古してはいるが趣味のいいシャツにジーンズ。肩から一眼レフのカメラを下げている。
 男はわたしの前のカウンター席に腰を下ろすと、少し頼りなげな声で、
「ホットひとつ」
 と注文した。
 昼時の客が一巡して店は暇だった。わたしは豆を挽き、ドリップでゆっくりとコーヒーを淹れた。
 横目で見ると、男は持ってきたカメラを弄っていた。撮った画像をチェックしているようだ。ディスプレイを覗き込み、難しい顔をしている。
 カップに注いだコーヒーを男の前に置く。どうも、と小さく言って男はカップを手に取る。一口すすって、またカメラの画像を見つめる。
「カメラがご趣味なんですか」

「十二宮小品集4 金星蟹の味」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「こんな遠くにまでわざわざきてくれてありがとう」
「いや、こっちこそお招きいただき光栄の至り。民間の身分でここに来るには、まだ申請だけでも一大事だからね。それにしてもずいぶんと開発が進んだものだな」
「それなりに苦労したからね。十年の努力の成果だよ」
「十年で金星をここまでにしたんだから立派なものだ。火星より面倒だったんだろ?」
「まあね。そもそもこの星を本当に地球と同じ環境にしてしまえるなんて、二十一世紀の人間には考えられなかっただろうな。自己進化型テラフォーミング技術の進歩は驚くべきものだよ」
「ああ。それにここ、完全に前世紀の、いや前々世紀の作りだな」
「施設部の中にレトロ趣味の人間がいてね。どうせ慰安施設を作るなら面白いものにしようって言って、こうなった」
「木のカウンターに縄暖簾、赤提灯に二十世紀の音楽か。ライブラリで観た日本のイザカヤそのままだ。こんなの今の地球にもないぞ」
「地球は今、反レトロブームだからな。意味不明な流行だよ。ともあれ、乾杯しよう」
「ああ、久しぶりの再会に乾杯……お?」

「十二宮小品集3 カストルとポルックス」太田忠司(画・YOUCHAN)

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――本日は多重人格障害における我が国の第一人者でいらっしゃる丸崎晋也先生にお話を伺います。先生よろしくお願いします。

 よろしくお願いします。

――まず多重人格障害についてですが、我が国でもそのような症例が実際に存在するのでしょうか?

 そのお話をする前に、ひとつ訂正させてください。現在では多重人格障害という言いかたはしません。解離性同一性障害と呼ばれています。まあ、一般的には多重人格症といった呼びかたのほうがポピュラリティを得ているようですが。その違いは何かというと……(以下略)。

――専門的な用語が多くてわかりにくいところもありましたが、説明ありがとうございます。あらためて伺いますが我が国でも多重……解離性同一性障害の患者というのは存在するのでしょうか?

 欧米に比べると症例は少ないですが、存在しています。そもそもの歴史を辿れば大正時代から症例報告があります。近年も……(以下略)。

――意外に多いわけですね。それで今回先生が学会に発表された症例ですが、今までになくユニークなものだということですね。どのような症例なのですか?

「十二宮小品集1 羊盗難事件」太田忠司(画・YOUCHAN)

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「電気羊?」
 私は依頼者に聞き返した。
「それは、あなたのものなんですか」
「そうです」
 彼は短く答えた。会社支給のスマートスーツに身を包み、同じく支給品らしい黒縁のアイウェアをかけている。年齢は四十歳前後、痩せていて神経質そうな顔立ちをしていた。
「失礼ですが、あなたの職業は?」
 答える代わりに彼は名刺を表示した。名前は南部星影夢{なんぶぽえむ}。ツナガ商事食品部部長補佐という肩書が麗々しい。
 なるほど、ツナガの役職者なら私のような貧乏探偵と違って、電気羊だろうが電気象だろうが所有できるだろう。私は言った。
「紛失された経緯を教えてください」
「紛失ではありません。盗まれたんです」

「十二宮小品集2 予言する雄牛」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 男は唯一の財産である年老いた雄牛を連れて市にやってきた。
 できることなら売りたくはなかった。しかし病に伏せる妻のため、泣く泣く決断したのだった。
 陽が昇ってから西に傾くまで男は待った。しかし買い手は現れなかった。
 夕闇が迫る頃、男は深い溜息と共に市を後にした。
 家へと戻る道すがら、男は家で床に就いている妻を思い、涙を流した。
「お待ちなさい」
 声をかけられたのは町外れの四つ辻だった。振り向くと、小柄な老人が立っていた。髪も髭も白く、このあたりでは見かけない奇妙な服を着ていた。
「あんた、市にその牛を売りに来たのかね?」

「城の中の男」太田忠司

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 雷鳴が聞こえた。
 聳え立つ城は稲妻に照らされて一瞬その姿を露わにしたかと思うと、すぐ闇と雨の中に紛れ込んでしまう。だがその一瞬で、私は城の全容を脳裏に焼き付けた。
 城門の跳ね橋は上げられている。
「城壁を登るか、それとも裏手に廻ってみるか」

「手品師の憂鬱」太田忠司

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 拍手が聞こえた。
 さして多いとは言えない観客の、あまり熱心とは思えない拍手だ。それでも私はシルクハットを脱ぎ、丁寧に頭を下げた。
 そして手にしたハットを天井目掛けて放り投げた。
 ハットは宙を飛び、高さ三メートルほどのところで停止した。私は取り出した懐中時計で時間を計る仕種をし、二十秒ほど経ってから片手を差し出した。ハットは木の葉のようにひらひらと舞いながら私の手に収まる。
 また拍手。

「浴室の宇宙」太田忠司

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 悲鳴が聞こえた。
 妻の声だ。たしか今、風呂に入っていたはずだが。
 また聞こえた。只事ではない。メールチェックをしていたスマートフォンを持ったまま、慌てて階段を駆け下りた。
 浴室の扉が開いて、全裸の妻が廊下に立ち尽くしていた。
「何だ? どうした?」

オオタ タダシ

太田忠司(おおたただし)
1959年名古屋市生まれ。名古屋工業大学電気工学科卒。
1981年、星新一ショートショートコンテストにて『帰郷』が優秀作に選ばれる。
1990年、『僕の殺人』で長編デビュー。以後、専業となる。