(PDFバージョン:kenntonomakatonn_kimotomasahiko)
──ええ、はい、マカトンです。マカトン……ご存知ですか? そうですか。ひとことで説明すると手話の簡単なものです。言語能力が未発達な児童との意思疎通に使います。特別支援学校や療育施設で使われることが多いですが、すべての指導者が使えるというものでもありません。
手話から引用しているサインもありますが、手話とは違います。だけど見た目は手話に似ているでしょう。しかし音声による言葉と併用することが多いです。発語や音声理解が遅れている子供に向けて使うので、この意味とこの言葉が結びついていることを教えることが大事なのですね。
これからお話することは、このマカトンについての体験です。マカトンを知っている必要はありません、大丈夫です。手話のようなものを補助的に使って会話しているのだなと理解してください。
──私が勤務する支援学校では、意思疎通の補助的な道具として、マカトンを使います。職員のほとんどが簡単なマカトンを使えますし、保護者向けにマカトン教室を不定期に開催しています。子供たちの、そうですね……三割程度は発語に難があるので、表現の方法としてマカトンを使います。ある程度喋れる子供でも、聴覚より視覚が優位な子供がいるので、そういう子に指示を伝える場合なども、言葉とマカトンを併用することが多いです。
マカトンは、もうひとつの言語と言ってもいいと思います。
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「消えてしまったメッセージ」木本雅彦
(PDFバージョン:kietesimattamessage_kimotomasahiko)
特別支援学校の指導員という仕事をしていると、色々な子供に出会う。
タケシは喋らない子供だった。
小学三年生になっているが、喃語──いわゆる赤ちゃんが出すような言葉を数語使うだけで、発語は少なかった。せいぜい二語文が限界だった。
それでも、身振り手ぶりや、マカトンという簡単な手話を併用することで、彼は周囲に意思を主張していたし、周囲も彼のことを、部外者が想像する以上に理解していた。友達にしろ先生にしろ、付き合いが三年にもなると、以心伝心という部分が出てくるから、当然とも言えた。
僕が勤めている特別支援学校は、主に軽度から中度の知的障害の子供を受け入れている。軽度の知的障害というのは、だいたい知能指数が50から70程度の子供のことを指す。平均が100なので、普通を基準に考えればやはり低い。
いくつかある知能検査や発達検査の方法に共通して言えるのは、言語能力が大きな割合を占めるということだ。たとえば指差した絵に書かれている動物の名前を言えるかとか、青い鉛筆はどれ? という質問に回答できるか、など。後者の場合は、青と鉛筆というふたつの属性が合わさったときに理解できるかという設問になる。
僕は指導員なので、直接試験をすることはないが、試験の様子を見学することはある。その様子を見ていたり、結果の説明を聞いたりしていると、こういう試験で子供の成績というか知能指数の数値を測るというのは、難しいものだなと感じることがある。
飛行機というものを理解しているけれど、発語できない子供の場合、これはなに? と聞かれると両手を広げてブーンとやったりする。彼は飛行機を理解しているのだが、それを言葉では表現できない。しかし彼にとっては、両手ブーンが言語の替わりなのだ。
理解力だって意外にあるように思う。僕がタケシと関わっている範囲で感じるのは、多分この子は僕の言っていることをほとんど理解しているであろうということだ。だけど彼自身は言葉を出せないから、もどかしいだろうな、と。
そんなことを心理士の先生に話してみたところ、
「日常生活での理解ってのは、その前後の流れや習慣や視覚情報から総合的に判断したりする部分が混ざってきます。色々な情報源から得られたものから彼は反応しているので、一見すると言っていることを理解しているように思うかもしれませんが、言語単体の理解力は検査結果として出てくる通りなのです」
という答えが返ってきた。周囲が思っているほど、彼は「言語」を理解しているのではないというのだ。
そうなのだろうか。
そんな疑問を抱えながら、僕は今日もタケシと遊ぶ。
「士農工商……あと何だっけ?」木本雅彦
(PDFバージョン:sinoukoushou_kimotomasahiko)
教科書から、士農工商が消えた。
だったら、残された犬とSFは、どうすればいいというのだ。
僕はいわゆるSF読者だった。そしてSF作家でもあった。だからといって、僕がSFそのものかと問われれば、それはさすがに言い過ぎだろうと思うし、そもそもSFそのものとはなんぞやという質問で切り返したくはなる。
一方で、この問題について誰も語らないのであれば、僕がSF的なものを代表して考察してみたりしても、それほどバチは当たらないのではないかとも思う。
「なあ、どう思う、マツコ?」
僕は、隣に座る白い犬に問うた。
「場末の小さな嵐ヶ丘」木本雅彦
(PDFバージョン:basuenotiisana_kimotomasahiko)
このメタヴァースが、何世代目のメタヴァースなのか、もはや住人たちは把握していない。バージョン管理システムの記録を遡れば、どこでブランチが作られ、どこでタグが作られ、どこでフォークし、どこのバージョンがデプロイされたのか、解析することは可能なのだろうが、日常と区別のつかなくなった仮想現実空間に多少のテコ入れがされたところで、住人は気にとめない。
人類は、実世界をほぼ捨てた。完全にではない。摂食行為と繁殖行為、それにともなう物理的移動などは、実世界から離れられないが、逆を言えば、実世界は食事とセックスのためだけを目的として、社会システムそのものが作り直され、経済活動をはじめとした諸々の創造的な活動は、すべて仮想現実空間メタヴァースで行われるようになった。
そんな広大なメタヴァースの片隅に、小さな店がある。
その店の名前は「嵐ヶ丘」――ネカマバーであった。
ネカマバーとは、ネカマのバーである。ママはネカマ、店の女の子もネカマ。影を抱えながらも笑うことを忘れない、そんな陽気なネカマとの会話を楽しむための、大人の社交場である。
「井原西鶴が平成に飛ばされて好色シリーズというラノベを書いています。」木本雅彦
(PDFバージョン:iharasaikakuga_kimotomasahiko)
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どうも、西鶴です。
平成時代というところに飛ばされてきたのですが、することがないので文章を書きました。「小説家になっちゃいな」というサイトにアップロードして公開していたら、B芸社のSさんという編集者の目にとまって文学を書かないかと言われたのですが、西鶴としてはラノベのほうがいいかなって思って、ラノベ書いてます。
西鶴、そういう路線だから。
西鶴は西鶴のことを西鶴って呼ぶけれど、それは何ていうの? ポリシー?
それとも、シーポリ?
あ、ごめんごめん。平成の時代になって、業界用語はないよね。
めんご、めんご。
というわけで、西鶴が書いているラノベについて話そうと思います。
「アンナと無垢な帝王」木本雅彦
(PDFバージョン:annnatomukunateiou_kimotomasahiko)
ノックの音がする。
ドーン、ドーンド、ドンドンドンドンドン。
「雪だるま、つくーろー」
「うるせえ」
幼馴染みのアンナは、いつも俺の眠りを邪魔する。はっきりと言うが、うざい。
ギャルゲーに出てくる幼馴染みは、眠りを邪魔するにしても、もう少し愛嬌があるのに、俺の幼馴染みは邪魔ばかりだ。
うざい、本当にうざい。
「ねー、ねー、雪だるまー」
「うるせえ。俺は寝ている」
「そんなこと言って、昨夜もネットしてたんでしょ。就職しなよ」
「放っておいてくれ。今さら俺なんかが就職できるはずないだろ」
「できるよ」
「どうやって」
「真実の愛の力で」
「本当か?」
「ファースト・ラブ・コンタクト」木本雅彦
(PDFバージョン:firstlovecontact_kimotomasahiko)
ちょっとした恋の話をしよう。きっかけは、ボトルメールだ。
ボトルメール。英語圏では、メッセージ・イン・ア・ボトルと称される。
手紙を書いて日付けと返信先を記載し、瓶にいれて海に流す。何日後、何年後かは分からないが、その瓶はどこか遠くの浜辺に打ち上げられて、見知らぬ相手の手に入る。海辺に住むであろうその人は、瓶の中の手紙をみつけ、律義に返事の手紙を書く。そんなの物好きしかいないだろうと思うだろうが、海辺に落ちている瓶を拾う時点で、物好きに違いないのだ!
しかし考えてみると、その瓶は本当に海岸から海岸へと流れていったものがすべてなのだろうか?
ここにひとつの隕石がある。宇宙から落下してくる、あの隕石だ。
大気圏を通って流れ星となって太平洋に着水し、周囲の海水を蒸発させながら摩擦熱を冷却する。表面温度とか、目撃情報とか、ほとぼりなんかが冷めたころになって、隕石はパカリと割れた。
中から出現したのは、ボトルだ。
キモト マサヒコ
木本雅彦(きもと まさひこ)
1972年静岡県生。博士(理学)。2006年にエンターブレインえんため大賞にて佳作を受賞。ライトノベル、SF、IT業界小説などを活動の場とする。近著では「NOVA9」(河出書房)収録の「メロンを掘る熊は宇宙で生きろ」にて、夕張メロン熊の秘密を暴いて話題になる。
「手のひらに銀の河」木本雅彦
(PDFバージョン:tenohirani_kimotomasahiko)
私は夜空を見上げて言った。
「天の川に歩道橋をかけると、いいと思う」
銭湯からの帰り道で、濡れた髪の毛の間をかすかな風が通りすぎていく。肩にはタオルを乗せて、服が濡れないようにしているが、濡れた髪やタオルを他人に見せるというのは、どこか気恥ずかしい。その一方で、恥ずかしいものを見せているけれど公序良俗には反していないから見せてよいよね、などとも思ってしまう。露出狂なのだろうか。
「それはどういうことだろうね。少し考えてみないといけない」
しばらくたってから、彼は答えた。その頃には私の頭の中は意外と空気が澄んでいるな、などという別の考えに移っていたので、何のことか思い出すのに時間を要した。彼はいつも、こんな感じだ。
「考えるの?何を?」