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「夏の終わり」窓川要


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「ユウ君?」
 歩道と溜め池を区切る防護柵にもたれ、池向こうの青山をぼんやり見上げていると、不意に名を呼ばれた。すぐ傍からだった。驚いてそちらを向くと、野球帽を被った男の子が僕の顔を覗き込んでいた。
「……ユウ君だよね?」
 友達に呼びかけるような口振りだった。せいぜい小学三・四年生ぐらいの少年が、そろそろ三十路に差し掛かる僕へ向けるには、いささか不適当な呼びかけに思えた。
 ――馬鹿にされているのだろうか。
 僕には息子も娘もいないし、甥や姪もなかった。子供の知り合いなどいない筈だった。小学生から「君」を付けて呼ばれる心辺りなど、まるでない。
 ――僕が無職だからか。
 ――鬱になり、職を失い、実家に連れ戻された負け犬だからか。
 そんな卑屈な考えが頭を支配しかけて、しかし僕はある疑問に気付いた。少年が呼んでいる名前は、確かに僕のものだったのだ。

「ソロモンの指輪VR」窓川要


(PDFバージョン:soromonnnoyubiwavr_madokawakaname
 子供の頃、ニュースで見かけた犬用ヘッドマウントディスプレイに、心をときめかせたことがある。飼い犬と一緒にバーチャルリアリティの世界を歩く――想像するだけで楽しかったし、未来の技術に胸が躍った。一つだけ問題だったのは、そのニュースが四月一日付けだったということだ。
 同じく子供の頃、当時流行し始めていた体感型の映画に、夢中になったことがある。音と映像だけでなく、匂いや風まで体感できる――かつてない体験に、大いに興奮したものだ。周囲の大人達は、「こんなの子供だましだ」と概して冷笑的だったけれど。
 月日は流れた。当時まだ物珍しかったバーチャルリアリティ――VR技術は、今や当たり前のものとなっていた。視覚効果だけでなく、嗅覚や触覚を再現する技術も発達し、今やVRには欠かせない要素となっていた。そしてそれは、視覚よりも嗅覚を頼りとする犬たちを、VRへと招待するための根幹となる技術でもあったのだ。
 どこまでも続く夏の高原に、僕は立っていた。
「ちゃんと使えてはいるんですけどね、あんまり乗り気じゃないんですよねえ……」
 気怠げにうずくまる大型犬を撫でながら、彼女はそう呟いた。
「大丈夫です。僕が開発した『ソロモンの指輪』なら、きっと彼が……ハチローくんが望んでいるものが何かも分かる筈です」
 太鼓判を押す僕を見上げながら、彼女は弱々しく微笑んだ。

「みなし教育」窓川要


(PDFバージョン:minasikyouiku_madokawakaname
 自慢じゃないですが、僕はこれまで、数学のテストは毎回白紙で提出していました。分からないんだから、仕方がありません。名前だけは、いちおう書くんですけどね。
 そんな僕でも、このたびなんとか単位を取得し、留年を回避することができました。これは僕自身の努力だけではなく、《みなし教育》制度のお陰でもあります。野球しか知らない僕に数学を身につけさせたんですから、全くとんでもない制度ですよ、これは。
 その日、僕はいつも通りに授業を寝て過ごし、体力を温存し、放課後の部活に全力で取り組んでいました……。

「〈手段としての音楽〉の演奏」窓川要


(PDFバージョン:shudanntositeno_madokawakaname
 開演の拍手も止み静まりかえったコンサートホールに、粘液をかき回す湿った音が響き始めた。客席の聴衆はみな一様に息を呑み、ブルーノの一挙手一投足から目を離すことができなくなっていた。
 タクトが緩やかに弧を描いた。遂に両の眼球が摘出されたのだ。左右ともほぼ同時にステージへと落下したそれらは、ほんの数センチだけ転がり、しかしすぐ粘液に囚われて動きを止めた。それはたったいま息絶えた両生類のように見えた。
 自らの眼球を摘出してもなお、ブルーノは仁王立ちしていた。暗い眼窩はもう何も見ていなかった。金色の前髪が上瞼に絡んでいることなど、微塵も気にならないようだった。彼は静かに両手を顔の高さまで上げ、両のタクトを逆手に持ち直した。

マドカワ カナメ


窓川 要(まどかわ かなめ)

平成生まれ。
第一回日経「星新一賞」にて優秀賞(東京エレクトロン賞)を受賞。

「追憶負債者」窓川要


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「それではいつも通り、楠木さんからは――息子さんとの記憶を、息子さんからは――楠木さんとの記憶を、それぞれ消去いたします」
 はい、と私は答えた。女性係官はキャリーバッグから認証用のタッチパッドを取り出し、目も合わせずにこちらへ寄越した。私はそれを受け取り、掌を重ねて認証を済ませ、そっと壁に立てかけた。手狭なアパートの玄関だ。私と息子と係官、三人も腰を下ろしていれば、物も置けないほど窮屈になる。
 係官はバッグを開き、二組の装置を取り出し、私と息子に差し出した。フルフェイスヘルメットのようなそれは、俗に「壺」と呼ばれている。私は「壺」を被り、アジャスターを締めた。真っ暗な「壺」の内側を見つめた。顔の前面には空間があるが、後面から首筋にかけてはジェルクッションが密着している。ひんやりとした感触が背筋を震わせた。
「起動します」
 係官の声と共に「壺」の中にゆらゆらと光が漂い始め、顔面を撫でた。青く冷たい光は水底のようだった。